カラマーゾフの兄弟に内在する二つの構造
最近、「カラマーゾフの兄弟」を江川卓で読み返している。私は「カラマーゾフの兄弟」という作品を次男のイワンを中心に読んできた。実際、作中で起こる殺人事件はイワンの無神論思想が一番根っこにある。
それに対して、信仰の立場を取るのが三男のアリョーシャとなっている。イワンとアリョーシャは対になっている。一方で、長男のミーチャは二人とは違い肉体的な存在になっている。おそらくドストエフスキーはロシアを三人の兄弟に象徴する為に
①ミーチャ ー ロシアの肉体
②イワン ー ロシアの無神論
③アリョーシャ ー ロシアの信仰
という風に考えたのではないか。もっともこれはただの思いつきで、それほど重要な意味があるわけではない。
私自身は今言ったように、イワンという人物を中心にカラマーゾフという作品を考えてきた。これには根拠があって、実際、ドストエフスキーの作品で成功しているのはみな、「無神論の青年」を主人公にしている。
この系列は「罪と罰」のラスコーリニコフから始まり、「悪霊」のスタヴローギン、「未成年」のヴェルシーロフ、「カラマーゾフの兄弟」のイワン、と続いている。
例外は二つ。一つ目の「白痴」には該当する人物はいない。もう一つは「未成年」だが、ヴェルシーロフは中年の男なので青年とは言えない。ただ彼の思想や言動は「無神論の青年」という範疇に収まると言っていいと私は思っている。
ドストエフスキーの小説の中心にはこうした無神論者の青年がいる。これはドストエフスキー自身の若い頃の自画像とも言えるし、ドストエフスキーの師にあたるベリンスキーのイメージが具現化されたとも見ている。実際には色々なイメージが一つの溶け込んで、こうした無神論の青年の像が出てきたのだろう。
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私はこのように「カラマーゾフ」をイワンを中心に考えてきたのだが、アリョーシャというキャラクターの重要性を坂口安吾と小林秀雄が語っていたのが印象として記憶に強く残っていた。また批評家の鹿島健氏もアリョーシャの重要性を言っていた。これらの人はみな優れた文学者であるので、私はアリョーシャの存在について考える必要を感じてきた。
私は江口卓訳で読み返しているのだが、アリョーシャをいかに理解するのかという事が今回の私の課題になりそうだ。ただ、アリョーシャを中心に考えると、イワンを中心とする構造と、アリョーシャを中心とする構造との二つで、異なった構造が重なり合ってしまう事になる。
「イワンを中心とする構造」から先に考えよう。「カラマーゾフの兄弟」において起こる重要な事件とは当然、三兄弟の父フョードル殺害であり、この事件の一番奥深い点にイワンの思想がある。全てはイワンの思想から始まっていると言ってもいいだろう。長老のゾシマはイワンの思想に対する応答者として現れてくる。
「カラマーゾフ」をイワンを中心に考えると、イワンの無神論に対してゾシマの信仰が、大きな意味での対話として機能している。これはかなり意図的なものになっている。
ただ、普通に考えるとイワンの無神論に対する答え、その解決としてゾシマの長話がありそうだが、ドストエフスキーはここを空間的・絵画的に描いている。これはどういう事かと言うと、無神論と信仰という対立がそのまま、互いに噛み合うような形で作品世界が作られている。
イメージとしては中国の陰陽図のようなもので、片方が片方を排除するのではなく、両方が同時的に存在するのが人間の世界だ、という風にドストエフスキーは描いている。
これは思想的な構図だが、事件としてはイワンの無神論が伝播する形で行われる。その際、アリョーシャはイワンに対してはイワンの善性に対して囁きかけるキャラクターとして現れる。一方で、フョードルの隠し子であるスメルジャコフはイワンの不信を読み取り、それを強化するキャラクターとして現れる。
イワンの善と悪を具現化した対蹠的な存在としてアリョーシャとスメルジャコフが現れてくる。これが事件が起こる際のキャラクターの相関性だと私は考えている。
しかしこの構造だと見逃されてしまうのが、アリョーシャの重要さだ。ドストエフスキーは盛んにアリョーシャという人物に注目するように読者を促している。アリョーシャがいずれ大きな物語に飲み込まれる事は明白に暗示されている。しかし「カラマーゾフ」を通じてのアリョーシャの役割は消極的なものであり、アリョーシャの激動の物語というわけではない。
「カラマーゾフ」は明らかにアリョーシャを中心とする大きな物語ではないが、作者はこれを暗示している。このキャラクターの重要性を訴えている。この矛盾はどのように解けるだろうか?
…この答えは全く難しくない。研究ではっきりしているが、ドストエフスキーは「カラマーゾフ」の後編を考えていた。そこでおそらくアリョーシャは激動の人生を送り、その物語が描かれるはずだった。
「カラマーゾフ」自体はアリョーシャの前日譚という位置づけである。しかし作者はそれを書く事なく亡くなってしまったので、我々の手元にあるのはアリョーシャの前日譚だけ、という事になる。だから、「カラマーゾフ」を読んでいるとアリョーシャが主人公として描かれているにも関わらず、途中から重要なキャラクターとしてスメルジャコフやイワンが現れてきて、そちらのドラマがメインになる。アリョーシャの物語は書かれなかった後編に取っておかれたと見ていいだろう。
どの研究書で読んだかは忘れたが、後編のアイデアとしてはアリョーシャが信仰を失い堕落し、リーザとの恋愛に疲れ、皇帝暗殺を企て、最後には断頭台に昇る、というものだったらしい。
この最後の断頭台に昇る、というのはドストエフスキー自身が死刑判決を受け、実際に銃を向けられるところまで行ったという経験と呼応している。また、私はそこにキリストが磔になった事とのイメージの一致があるのではないかと思う。私にはこのラストはドストエフスキーにとって意義深いものとして、十分あり得たと思う。
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「カラマーゾフ」の構造は以上のように、アリョーシャを中心とする構造と、イワンを中心とする構造が分裂している形だが、書かれなかった後編をイメージすると、この二つの構造は矛盾がなくなる。前半部分がイワン、後半部分がアリョーシャと考えると自然になるからだ。
ただ問題はアリョーシャが何故堕落しなければならないか、という事だ。書かれなかった後半部分のプロットが本当だとすると、普通の小説とはストーリーが逆になっている。
どちらかと言うと普通の小説の範疇にも入れられる、比較的わかりやすい「罪と罰」においては殺人者が殺人を犯し、悔悟して、最後には罪を自白するというラストになっている。これは誰でもわかりやすいストーリーだ。
一方で、「カラマーゾフ」の後半ではストーリーが逆になっている。アリョーシャは修道院から出る事をゾシマに厳命されている。アリョーシャは堕落し、犯罪者になる、と構想されていた。
どうして普通のストーリーとは構造が逆になっているのか。正直に言うと、これを私は、論理的に考える事ができない。ただ(そうなのか)と思うばかりだ。
ただ、事実を追って考えてみる事はできるだろう。まずアリョーシャは、作中でゾシマの思想からイワンの思想に寄っていっている事が示されている。アリョーシャはゾシマの遺体が死後に腐臭を発したという事実によって、この世界には「神はいない」という真実を突きつけられ、無神論的なイワンの思想に惹きつけられていく。
つまり、前半の作品の構造としては、アリョーシャがイワンの位置にスライドしていっている。前日譚としての「カラマーゾフ」ではアリョーシャはイワンに対して善の立場をかろうじて持っているが、おそらく後編ではイワン不在の位置にアリョーシャが収まったのだろうと私は想像する。アリョーシャは「この世界が神がいない事」に自暴自棄になり、世界の中を突っ走っていく、そういう物語となったのではないか。
ただ厄介なのはこれからだが、ドストエフスキーは明らかに、「神がいない事に自暴自棄になった青年」を否定的にのみ描いているわけではない、という事だ。
ドストエフスキーはイワンの思想に対する応答としてゾシマの言葉を作品の中で描いている。しかしゾシマの応答は、「カラマーゾフの兄弟」のラスト付近で現れるのではなく、事件が起こる前に消化されてしまう。
また、私が重要なのは、ゾシマがアリョーシャに対して「不幸の中で幸せになれ」と呼びかけている事だ。ゾシマはアリョーシャを修道院から出す事にも固執している。
私はゾシマはアリョーシャに何が起こるのかを予見していたのだと思う。私が作者の立場に立って考えるならそうなる。ゾシマは予言者的な役割を振られており、そうした能力も暗示されている。
これは作品としては後編で描かれるはずだった「アリョーシャが不幸になる物語」をゾシマは知っていたという事になる。それではゾシマは何故アリョーシャを修道院から外に出そうとしていたのか、また、何故不幸になるとわかっていて「不幸の中で幸せになれ」と言ったのかが謎になる。
これについての答えを論理的に出す事は可能であろうが、おそらく論理的に答えを出した瞬間、その答えは間違ったものになってしまうと私は思う。…だから先程、私は「正直に言うと、これを私は、論理的に考える事ができない」と言ったのだ。
この事についてどう触れればいいのか。それは私にはわからない。…ただわかるのは、おそらくドストエフスキーにとってはアリョーシャが現に生きた存在として、固定的な結論の中で留まるのではなく、生の激流に身を投げる事が「生」だと考えていた、という事だろう。
もちろんこの「生」も概念として答えになってしまうと間違ってしまう。しかし人は生きねばならない。しかし「生きる」とはどういう事だろうか。
これはゾシマとイワンとの関係においても言える事だ。イワンの「神がいない世界に対する絶望」というのは、おそらくゾシマの思想以上にドストエフスキーは価値を認めている。しかし価値を認めている事とその思想が正しいかどうかとはまた別の問題だろう。
元々、ゾシマは若い頃には放蕩の限りを尽くしていた。それがある事件をきっかけに改心する。そうしてゾシマ長老となる。…という事はイワンが事件をきっかけに改心すれば、ゾシマ長老にならないとも限らない。
しかしこのループそのものが事実として可能だとしても、例えそうだとしても、現にそれを生きる事はまたそれが答えであると考える事とは違う意味を持つ。
難しいのは、アリョーシャが無神論に至り、そこから何かの罪を成すにしても、とはいえアリョーシャの中で信仰の火は消えていない事だろう。「ガリラヤのカナ」の章でアリョーシャは大地を抱きしめる。その時に得た感覚は後まで残っているだろう。彼が断頭台に昇ったとしても残っていただろう。
ドストエフスキーは「罪と罰」を書く際、使わなかったアイデアとして、ラスコーリニコフが罪を告白するきっかけとして、ラスコーリニコフが火事の家に遭遇し、中に入って子供を助けるというエピソードを考えていた。その際にラスコーリニコフの目の前にイメージとしてのキリストが見える、というアイデアがあったらしい。
これは殺人者のラスコーリニコフの中にキリストがいた、という事になる。この矛盾した人間の形象はおそらくドストエフスキーがもっとも得意とする人物造形だったろう。そしてアリョーシャもまた信仰から無神論へ移行したとしても、彼の中の信仰はおそらく途絶える事はなかっただろう。これは二項対立を好み、その「どちらか」を絶対的な答えと認定しようとする人々の意識とは反対方向への跳躍である。
そしてこの矛盾を受け止めるのは、他者の思想ではなく、その矛盾を矛盾として受け止める他人そのものであるだろう。つまり人間は関係の中に置かれてその実存的存在が決定される。しかしこの事は、人間の存在そのものが根底から未決定であるという形における決定であり、このような決定はそれ自体、矛盾であるような他者としての人間存在との関係の中にしか生まれない。
そういう意味でドストエフスキーは人間という存在の根底に対しては常に信頼を置いていたと言ってもいいだろう。ただその事は表面的な不幸よりももっと奥深い位置で人間が存在する事ーーつまりそれがゾシマの言う「不幸の中で幸福になれ」という意味なのではないか。




