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残光

作者: くまたろう
掲載日:2026/03/27

 目を開けると、白があった。


 天井か壁か、判断がつかない。継ぎ目のない白い面がどこまでも広がっていて、蛍光灯のような光源は見当たらないのに影がない。すべてが均一に、静かに明るかった。


 蒼太は上体を起こした。冷たい床に仰向けに寝ていたらしい。頭がぼんやりして、ここがどこなのか、なぜ横たわっていたのかがわからなかった。


 周囲に人影があった。同じように倒れていた体が一つ、また一つと動き出す。数えると、自分を含めて七人。


 最初に立ち上がったのは体格のいい四十代の男だった。あたりを見回しながら、無意識に他の六人をかばうような位置を取っている。次に二十代半ばの男が声を上げた。鋭い目つきでポケットを探り、何も持っていないことに舌打ちした。


「——ここ、どこだ」


「わからない。気がついたら、こうだった」四十代の男が答えた。


 三十代くらいの男女がほとんど肩を触れ合わせて立っていた。少し離れた壁際には十代後半の少女が膝を抱えている。そして蒼太のすぐそばに、同い年くらいの少女がいた。


 蒼太は自分の名前と年齢だけは覚えていた。十八歳。高校三年。それ以外——昨日の記憶も、家族の顔も——靄がかかったように遠い。


「名前、言いません?」隣の少女が震える声で言った。


 七人が順に名乗った。四十代の男は安西。二十代の男は辻。三十代の男は直樹、女は美咲。壁際の少女は凛。隣の少女は陽菜。記憶は誰も同じだった。名前と断片的な自分の情報以外、何も思い出せなかった。


 そのとき、白い壁に黒い文字が浮かんだ。


【ルール】

【一、この空間から次へ進むには、一名の犠牲が必要である】

【二、透明な小部屋の装置を用い、自らの意志で犠牲となることができる】

【三、制限時間内に犠牲者が出ない場合、無作為に一名が選ばれ、死亡する】

【四、残った者は、次の空間へ移動する】


 文字が浮かび終わると同時に、空間の中央に透明な小部屋が現れた——いや、最初からあったのか。ガラスとも樹脂ともつかない素材の四角い箱で、中には赤いボタンが一つ据えてあった。透明な壁に触れると、手がすり抜けた。出入りは自由らしかった。


 壁の隅に赤い数字が現れた。《60:00》。数字が《59:59》に変わった。


「おい……冗談だろ」辻の声は怒りと恐怖が混じっていた。


「落ち着こう。まず——」安西が言いかけた。


「落ち着けるわけねえだろ!」辻が壁を殴った。「犠牲? 死ぬ? 何だよこれ!」


 安西は辻を止めず、残りの五人と壁や床を調べた。出口はなかった。ルールの文字は変わらず壁に浮かんでいた。


「無駄だよ」凛が壁際から言った。「出口なんてない。ルールの通りなんだと思う」


 辻は壁を殴り、蹴り、天井に向かって叫び続けた。声が枯れても止まらなかった。


 《20:00》。安西が一歩、小部屋のほうへ歩いた。


「安西さん」蒼太が声をかけた。


「考えてるだけだ」安西は赤いボタンを見つめた。「——俺には娘がいた気がする。お前たちと同じくらいの歳の。よく覚えてないんだが」


 安西は何かを言いかけて、やめた。「まだ時間はある」


 《5:00》。誰も動けなかった。美咲が声を殺して泣いていた。蒼太の心臓が耳の奥で鳴っていた。誰かが決めなければ。でも——自分が行くことも、誰かに行けということもできなかった。


 安西がもう一度足を踏み出しかけた。「行かないで」凛の声だった。顔は膝に埋めたまま。「あなたじゃない」


 安西は止まった。


 辻はまだ壁を叩いていた。「出せよ! 聞こえてんだろ!」


 《0:00》


 音はなかった。空間のどこからか、細長い金属の棒が射出された。三本、四本、五本——辻の体を貫いた。


 辻は声を上げなかった。目を見開いて、自分の胸を突き破った金属を見下ろした。口が動いた。何か言おうとした。音にはならなかった。


 美咲が悲鳴を上げた。陽菜がしゃがみ込んだ。蒼太は——目を逸らせなかった。辻の目と一瞬だけ合った。


 辻の体から力が抜けて——消えた。金属の棒も、血痕も、何もかもが最初からなかったように消えた。


 壁の文字が変わった。


【犠牲が確認されました。次の空間へ移動します】


 足元が光り、空間が溶けるように歪んだ。六人は新しい場所へ落ちていった。辻だけを残して。



―――



 新しい空間は、少し暗かった。


 同じ白い構造のはずだが、光の量が落ちている。天井が低くなったような圧迫感があった。六人は無言で立ち尽くしていた。辻がいた場所には、誰もいない。最初から六人だったかのように、空間は静まり返っていた。


 中央にまた透明な小部屋があった。中には赤いボタン。壁にはルールと、新しいカウントダウン。


 《60:00》


「あの人……」陽菜が呟いた。目が赤かった。「辻さん、本当に——」


「死んだ」直樹が言った。声が掠れていた。「本当に、死んだんだ」


 美咲は直樹の腕にしがみついたまま、何も言えずにいた。さっきの悲鳴で喉を潰したのかもしれなかった。凛は新しい空間でも壁際に座り、膝を抱えていた。


 安西が六人の——いや、残った五人の顔を順に見た。


「次は、ああはさせない」


 低く、静かな声だった。


「時間切れなんかにしない。——あんな死に方は、させない」


「安西さん」蒼太が一歩前に出た。「それって——」


「まだ何も決めてない」安西は首を振った。「ただ、考える時間が必要だ。全員で話そう。さっきはそれすらできなかった」


 安西に促されて、六人は小部屋を囲むように円になった。凛だけは少し離れていたが、聞いてはいた。


「覚えてることを話さないか」安西が言った。「何でもいい。名前以外で、自分のこと。何かの手がかりになるかもしれない」


 直樹が口を開いた。「俺は——美咲と一緒にいたことは覚えてる。部屋にいた。自分たちの部屋。それ以外は思い出せない」


「わたしも」美咲が小さく頷いた。「直樹と一緒だったことだけ。あったかかった気がする」


 蒼太は自分の記憶を探った。学校。教室の窓。夕方の光。それだけだった。


「俺は——学校にいた気がする。でもそれだけだ」


「わたしも学校」陽菜が言った。「放課後だった気がする。でも誰と何をしてたかは……」


 凛は何も言わなかった。安西が凛を見たが、強いることはしなかった。


「俺は」安西が自分の番のように言った。「仕事をしてた。どんな仕事かは思い出せない。でも——忙しかった。ずっと忙しかった。家に帰れなかった」


 安西は天井を見上げた。


「娘がいたと言ったな、さっき。——もう少し思い出した。俺は、あの子に何もしてやれなかった。誕生日も、運動会も、全部仕事を言い訳にして。妻にも愛想を尽かされてたと思う」


 蒼太は黙って聞いていた。安西の声は淡々としていたが、言葉を選ぶたびにわずかな間があった。


「後悔してるのか、すら思い出せないんだ。ただ——ここでお前たちを見てると、娘に似てる気がしてな。似てるわけないんだが」


 《35:00》


「安西さん」陽菜が言った。「まだ方法があるかもしれない。壁をもう一度——」


「ないよ」安西は穏やかに笑った。四十代の、少し疲れた顔に浮かぶ、不思議と温かい笑みだった。「さっきと同じだ。出口はない。ルールも変わらない。——わかってるだろう、みんな」


 沈黙が落ちた。


「俺が行く」


 安西は立ち上がった。


「待ってください」蒼太も立った。「何で安西さんなんですか。理由がない」


「理由ならある。お前たちが若いからだ」


「それは理由になってない」


「十分な理由だよ」安西は蒼太を見た。「蒼太。お前は——止められなかったことを気にするタイプだな。辻のことも、今もそうだろう」


 蒼太は何も言えなかった。


「気にするな。辻のことも——これからのことも。お前のせいじゃない。誰のせいでもない」


 安西は小部屋の前に立った。透明な壁の向こうに、赤いボタンが光っていた。


「止めてください」陽菜の声が震えていた。


「止めないでくれ」安西は振り返らなかった。「頼むから。迷うから」


 直樹が唇を噛んでいた。美咲が直樹の手を両手で握っていた。凛は膝を抱えたまま、まっすぐ安西を見ていた。


 安西が透明な壁をすり抜け、小部屋に入った。赤いボタンの前に立った。


「直樹、美咲ちゃん。二人で支え合え」


 振り返らないまま、言った。


「凛ちゃんも。——無理しなくていいから」


 少し間があった。


「蒼太。陽菜ちゃん」


 安西の声が、わずかに揺れた。


「——生きろ」


 赤いボタンを、押した。


 小部屋の床から水が湧いた。透明な壁の内側を、水が音もなく満たしていく。くるぶし。膝。腰。安西は目を閉じていた。水面が胸に達しても、安西は動かなかった。


 水は小部屋の外には一滴も漏れなかった。透明な箱の中で、安西の体がゆっくりと浮かび上がる。髪が水に揺れ、手が浮き、体が傾いで——やがて、動かなくなった。


 蒼太は透明な壁に手をついていた。冷たくも温かくもない壁の向こうで、安西の体が水の中を漂っていた。


 陽菜が嗚咽を漏らした。美咲が顔を覆った。直樹が天井を仰いだ。


 水が引いた。安西の体が、消えた。


 五人になった。


「おかしいよ」陽菜が涙声で言った。「おかしいよ、こんなの」


 蒼太は同じことを思っていた。でもそれを言葉にする力が、今はなかった。


【犠牲が確認されました。次の空間へ移動します】



―――



 三つ目の空間は、さらに暗かった。


 白い構造は変わらないはずなのに、光が薄い膜のようにしか届かない。五人の顔に影が落ちていた。これまでの空間にはなかったものだ。


 透明な小部屋。赤いボタン。ルール。カウントダウン。


 《60:00》


 誰も、すぐには動かなかった。辻と安西が消えた後の沈黙は、最初の空間の混乱とはまるで違っていた。何が起きるか、全員がもうわかっている。わかっているから、動けなかった。


「ねえ」美咲が口を開いた。直樹ではなく、残りの三人に向けて。「わたしたち——ここに来る前、何をしてたか、もう少し思い出せないかな」


 蒼太は記憶を探った。学校。夕方。教室の窓から差す光。それだけだったものに、少しだけ輪郭が加わっていた。横断歩道。誰かが隣にいた。でも顔が見えない。


「横断歩道にいた気がする」蒼太は言った。「学校の帰りに。誰かが——隣に」


「わたしも」陽菜が顔を上げた。「わたしも、横断歩道。夕方だった。……蒼太くんと同じ?」


 二人は顔を見合わせた。同じ記憶なのか、似ているだけなのか、まだわからなかった。


「わたしは」美咲が言った。「直樹と部屋にいた。リビング。冬だったと思う。暖房をつけてた。直樹がご飯作ってくれて——」


「オムライスだ」直樹が不意に言った。「お前がオムライス食べたいって言ったんだ。卵が上手く巻けなくて——美咲が笑って——」


 直樹の声が詰まった。美咲が直樹の手を握った。


「そこまでなの。そのあとが思い出せない」


 凛は黙っていた。蒼太が凛を見ると、凛は小部屋の中の赤いボタンを見つめていた。何かを考えている目だった。


 《40:00》


 直樹が立ち上がった。


「俺たちが行く」


 静かな声だった。さっきまでの直樹の空回りした明るさはなく、ただ決めた人間の声だった。


「え——」陽菜が言いかけた。


「二人で行く」美咲も立った。直樹の手を握ったまま。「最初から決めてたの」


「ちょっと待ってよ」陽菜が立ち上がった。「ルールは一人でしょう? 二人が行く必要なんて——」


「必要とかじゃない」直樹が言った。笑っていた。少し情けなくて、でも優しい笑顔だった。「俺は美咲がいないとダメなんだ。昔からそう。一人じゃ何もできない。——格好悪いだろ」


「格好悪くないよ」美咲が言った。目が潤んでいたが、声は穏やかだった。「わたしも同じだから」


「ルールが受け入れるかわからない」蒼太が言った。「二人同時なんて——」


「やってみなきゃわからない」直樹は蒼太を見た。「なあ蒼太くん。お前はここに来てからずっと——自分に何ができるかって考えてたろ。辻さんのときも、安西さんのときも」


 蒼太は答えられなかった。


「何もできなくていいんだよ。お前のせいじゃないんだから」


 安西と同じことを、直樹は言った。


 二人は手を繋いだまま、透明な壁に近づいた。美咲が振り返った。


「ごめんね。あなたたちを残していくこと」


「ごめんじゃないよ」


 凛の声だった。壁際に座ったまま、膝を抱えたまま。でもまっすぐ二人を見ていた。


「ありがとう、でしょ」


 美咲の目から涙がこぼれた。直樹が美咲の肩を引き寄せた。


 二人は壁を抜けて小部屋に入った。赤いボタンの前に、並んで立った。


「美咲」


「うん」


「俺、来世でもお前を見つけるから」


「……来世でも、オムライス作ってね」


 直樹が笑った。泣きながら。


 二人の手が、重なったまま赤いボタンを押した。


 小部屋の床が赤く光った。一拍遅れて、炎が噴いた。


 透明な壁の内側を、炎が舐めるように広がっていく。最初は足元から。それが膝を這い上がり、腰を包み、胸に達した。熱も音も外には漏れなかった。ただ目の前で、透明な箱の中で、二人が燃えていた。


 二人は最後まで手を離さなかった。炎の中で、直樹が美咲を抱き寄せた。美咲が直樹の胸に顔を埋めた。二人の輪郭が揺れて——溶け合うように——消えた。


 蒼太は立ち尽くしていた。足が動かなかった。陽菜が彼の袖を掴んで、声を上げずに泣いていた。


 凛が呟いた。


「……ああ、そういうことか」


 蒼太は凛を見た。凛の顔には恐怖ではなく、何かを理解したような、静かな表情が浮かんでいた。


【犠牲が確認されました。次の空間へ移動します】



―――



 四つ目の空間は、最初の空間と同じ明るさだった。


 何事もなかったかのように白く、清潔で、静かだった。三人しかいないことを除けば。


 透明な小部屋の中に、赤いボタンはなかった。


 代わりに小さなテーブルがあり、その上に錠剤が並んでいた。白い錠剤、ピンクのカプセル、黄色い粒。種類も大きさもばらばらに、無造作に積まれていた。


 凛がそれを見た瞬間、蒼太は凛の表情が変わるのを見た。驚きではなかった。もっと深い、奥まった場所から浮かんだ顔だった。


 懐かしさだった。


 《60:00》


「凛ちゃん」陽菜が言った。「さっき、『そういうことか』って言ったよね。——何がわかったの」


 凛は膝を抱える姿勢をやめて、三人の真ん中に座った。前髪の隙間から、暗い目がまっすぐ二人を見た。


「辻さんは刺されて死んだ。安西さんは溺れて死んだ。直樹さんと美咲さんは焼かれて死んだ」


「それは——この空間の仕組みで——」


「違う」凛は静かに首を振った。「この空間の仕組みじゃなくて、逆なの。この空間が、その人の死に方をなぞってるんだと思う」


 蒼太の背中を、冷たいものが走った。


「安西さんは水で死んだ人。直樹さんと美咲さんは火で死んだ人。辻さんは——何かに刺されて死んだ人。ここに来る前に。みんな——もう死んでたの。わたしたちも」


「そんな——」陽菜が口を押さえた。


「ずっとおかしいと思ってたでしょう。記憶がないこと。ここに来た理由がわからないこと。思い出せないんじゃなくて——思い出したくないんだよ。死んだときの記憶を」


 沈黙が落ちた。カウントダウンの数字だけが動いていた。


 凛は透明な小部屋の中の錠剤を見た。


「わたしは——ずっと、死ぬのが怖くなかったの。ここに来てからも。みんなが怯えてるのを見ても、どこか遠かった」


 凛は少し間を置いた。


「たぶんね、わたしは——自分で死んだの。これを飲んで」


 錠剤を指さした。蒼太には、凛が何を言っているのかわかった。わかってしまった。


「生きてるとき、どこにも居場所がなかった。家にも学校にも。誰にも必要とされてないって——ずっと思ってた」


 凛の声は淡々としていた。泣いてはいなかった。


「でもここで——安西さんが、わたしのことも守ろうとしてくれたの、わかってた。直樹さんと美咲さんが、最後にわたしの名前も呼んでくれた。……初めてだった。ああいうの」


「凛ちゃん」陽菜が泣いていた。「行かないで」


「陽菜ちゃん」凛が微笑んだ。初めて見る笑顔だった。ぎこちなくて、でも、温かかった。「わたしはね——生きてたとき、ずっと誰かに『行かないで』って言ってほしかったの。言ってもらえないまま、自分で終わらせちゃった」


 凛は立ち上がった。


「だから——今、それが聞けて、よかった」


「待って」蒼太が言った。「まだ時間はある。別の方法を——」


「ないよ」凛は穏やかに言った。「ないの。最初の空間からずっと、ないの。——でもね、蒼太くん。ないからって、意味がないわけじゃないと思う。安西さんも、直樹さんたちも——選んでくれたでしょう。自分で」


 凛は透明な壁をすり抜けて、小部屋に入った。テーブルの前に座った。


 蒼太は壁に手をつけた。手が——通らなかった。直樹と美咲のときと同じだ。犠牲者が中に入ると、外からは入れなくなる。


「凛ちゃん!」陽菜が壁を叩いた。透明な壁は、二人を拒んでいた。


 凛は錠剤を一つ、手に取った。


「二人は——ちゃんと思い出して。自分のこと。それで——次の場所に行って」


 錠剤を口に入れた。一つ、また一つ。静かに、ゆっくりと。急がず、でも迷わず。慣れた手つきだった。


 陽菜が壁を叩き続けていた。蒼太は壁に額をつけて、見ていた。


 凛の動きが緩やかになっていった。目が閉じかけた。テーブルに手をついて、体を支えようとして——支えきれずに、傾いだ。


 最後に、少しだけ目を開けた。二人を見た。


「……わたしのぶんも」


 凛の体が、崩れた。テーブルから錠剤がいくつか転がった。


 凛が消えた。テーブルも、薬も。


 二人きりになった。



―――



 最後の空間には、何もなかった。


 小部屋もない。ルールの文字もない。カウントダウンもない。ただ白い空間が広がっているだけで、最初の空間と同じはずなのに、まるで違うものに見えた。七人で立っていたときは狭く感じた白が、二人では広すぎた。


 蒼太と陽菜は、並んで床に座っていた。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。言葉を探す気力すら残っていなかった。五人がいなくなった空白が、空間そのものより重かった。


「……凛ちゃんが言ってたこと」陽菜が膝を抱えたまま、呟くように言った。「わたしたちも、死んでるって」


「ああ」


「信じる?」


「わからない。——でも、嘘じゃない気がする」


 凛は言っていた。思い出せないんじゃなくて、思い出したくないんだと。死んだときの記憶を。


 蒼太は目を閉じた。記憶の靄の奥に、何かがある。最初からずっとそこにあったのに、手を伸ばすことを避けていた何かが。


 横断歩道。夕方の光。信号が——青に変わった。


 隣に、誰かがいた。


「……思い出した」


 蒼太が目を開けた。


「わたしも」


 陽菜が言った。同じ顔をしていた。恐怖でも悲しみでもなく、もっと静かな——諦めに似た、でも諦めとも違う何か。


「横断歩道だった」蒼太が言った。「学校の前の、大きい交差点。信号が青になって——歩き出して——」


「隣にいたの、蒼太くんだった」陽菜の声が震えた。「同じクラスの人だって——思った。思った瞬間に——」


 白いトラックだった。


 記憶が、堰を切ったように流れ込んできた。信号を無視して交差点に突っ込んできた大きな白いトラック。ブレーキ音。誰かの悲鳴。避ける暇なんてなかった。ぶつかる直前、隣の少女の横顔が見えた。それが最後だった。


 蒼太は自分の手を見た。五本の指はそこにあった。傷もない。でも——これはもう、生きている体ではなかった。


「俺たちも、死んでたんだな」


「うん」


「同じ事故で」


「うん」


 陽菜の目から涙がこぼれた。でも声は落ち着いていた。もう泣き叫ぶ段階を過ぎていた。


「知らない人だと思ってた」陽菜が言った。「ここで会ったとき。名前も覚えてなかった。——同じクラスだったのに」


「俺もだ」


「ひどいね」


「ひどいな」


 二人は少しだけ笑った。笑うしかなかった。


 白い空間が、変わり始めていた。


 壁が光を帯びた。床の輪郭がぼやけて、天井との境界が消えていく。空間そのものが光に変わろうとしているようだった。


「蒼太くん」


「うん」


「怖い?」


「——怖くない」


 嘘ではなかった。辻が貫かれたときは怖かった。安西が沈んでいくのを見たときも。直樹と美咲が燃えるのを見たときも。凛が崩れ落ちたときも。でも今は、怖くなかった。


「みんなが——繋いでくれたから」陽菜が言った。「ここまで」


 蒼太は頷いた。辻の怒り。安西の父性。直樹と美咲の愛。凛の静かな勇気。五人がそれぞれの方法で道を作って、最後に二人をここに残した。


 光が強くなっていく。自分の体の輪郭が曖昧になっていく。手を見ても、もう指の形がはっきりしない。


「蒼太くん」陽菜が手を伸ばした。


 蒼太はその手を取った。輪郭がぼやけた手と手が、それでも確かに触れた。


「次は——ちゃんと生きような」


「うん」


 光が二人を包んだ。白い空間が消えた。記憶が、痛みが、名前が、顔が——すべてが遠ざかっていく。


 最後に残ったのは、繋いだ手のあたたかさだけだった。


 それも——やがて、溶けた。


―――


 多くの光と、人の気配に囲まれた空間だった。


 あたたかかった。白い空間とは違う、生きたあたたかさだった。誰かの手が自分の体に触れて、冷たい空気が肺に入ってきて——泣き声が出た。自分のものだと気づくのに、少しかかった。


「元気な男の子ですよ」


 声がした。それから、別の声。近くて、あたたかくて、震えている声。


「ソウタ」その声が言った。「——よく来たね、ソウタ」


 何も見えなかった。何もわからなかった。ただ、胸に触れるぬくもりがあった。泣いていたのに——一瞬だけ、泣き止んだ。何かを聞こうとするように、小さな首をかすかに傾けて。


 遠くで、誰かを知っている気がした。


 それから、また泣いた。力いっぱい。



 同じ頃、別の場所。


 やはり光があった。人の声があった。長い時間をかけて、ようやくたどり着いた場所だった。


「元気な女の子よ」


 疲れ果てた、でも笑っている声がした。小さな体が、あたたかいものの上に乗せられた。


「ヒナ」別の声が、少し掠れて言った。「——ヒナ、おはよう」


 指に何かが触れた。大きな指だった。きゅっと握ると、その指が震えた。


 泣いていた。泣いて、泣いて——ふと、泣き止んだ。何かに耳を澄ませるように、小さな首を傾けて。


 どこか遠くに、同じように泣いている声がある気がした。


 それから、また泣いた。


 力いっぱい、息を吸って。


 今度こそ生きるために。

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