第九章 届かない手紙
十一月になった。
北方の冬は早い。十月の終わりから朝に霜が降り始め、十一月の最初の週に初雪が来た。薄い雪で、昼には溶けた。しかし空気が変わった。乾いた冷たさが来て、息が白くなった。
飛行には影響が出た。
冷えた空気は密度が高く、箒への魔力の伝達が変わる。夏と同じ感覚で飛ぶと、加速が遅れる。ミリアは最初の週に何度か調整を誤って、配達時間が延びた。
「焦るな。冬の空は夏より時間がかかる。それだけのことだ」
「でも受取人を待たせる」
「少し待たせても手紙は届く。それでいい」
ロアンは飛ぶ距離がさらに短くなった。近場の一件か二件だけ担当して、あとはミリアに任せるようになった。足腰が、と言っていたが、ミリアには足腰だけではない気がしていた。もっと深いところが、少しずつ疲れているような気配があった。
しかしロアンは何も言わなかった。ミリアも聞かなかった。
その木曜日の本局便に、一通だけ様子の違う郵便物があった。
封筒自体は普通だった。白い封筒、きれいな筆跡。しかし仕分け台帳を確認すると、記号が打ってあった。本局で使う特別な記号で、ミリアにはすぐには意味が分からなかった。
「ロアンさん、この記号は何ですか」
ロアンが封筒を見た。一瞬、表情が止まった。
「配達保留だ」
「保留?」
「配達先に問題がある手紙に打つ記号だ。宛先が危険な地域にある、あるいは配達の判断が必要な案件に使う」
ミリアは封筒を見た。宛先を確認した。
隣国の王都だった。
差出人の欄には名前がなかった。住所だけが書いてあった。この国の、南の方の城の住所だった。
「隣国への手紙は、国境で止まることがあると言っていましたね」
「今は通る。停戦中だから」
「じゃあなぜ保留に」
「差出人が王族だからだ」
ロアンは穏やかな声で伝えた。ミリアは封筒を持ったまま、ロアンを見た。
「王族の手紙は、通常の郵便では扱わない。専用の使者が運ぶ。それがこの国の決まりだ」
「でもこれは通常の郵便として届いた」
「そうだ。差出人が意図的に通常郵便として出した、ということだろう」
「なぜそんなことを」
「使者を通すと記録が残る。王族の動向は監視されている。差出人は記録に残したくなかったのだろう」
ミリアは封筒を見た。白い封筒、きれいな筆跡。これを書いた人が、誰かに知られたくない何かを書いた。それが今、ミリアの手の中にあった。
「配達保留というのは、どうするんですか?」
「本局が判断する。通常はここで止めて、本局に送り返す」
「本局が判断するまで、どのくらいかかりますか?」
「早ければ一週間。遅ければ何ヶ月もかかる。あるいはそのまま処分されることもある」
「処分」
「政治的に問題のある手紙は、届けないことがある。これはわしが決めることではない」
ミリアは封筒を机の上に置いた。
しばらく黙って見た。
「ロアンさんはこういう手紙を届けたことがありますか?」
「ある」
「どうしましたか」
「届けた」
「保留の判断があっても?」
「判断が出る前に届けた。昔のことだ。今はそういうことをする気力がない」
ミリアはロアンを見た。老魔女は封筒を見ながら、遠いところを見るような目をしていた。
「その手紙は、届けてよかったんですか」
「さあな。しかし届けなかったら、もっと悪いことになっていたかもしれない」
その日の夜、ミリアはポストと話した。
封筒は机の上にあった。触れていなかった。手袋をはめた手でも、意識して触れなかった。
「ポスト、あの手紙を届けるべきかな?」
「私が決めることではない」
「でも意見を聞きたい」
「お前が決めることだ」
「そんなこと言わないで」
ポストは少し間を置いた。
「届けるべき理由と、届けるべきでない理由を、まず自分で言ってみろ」
ミリアは考えた。
「届けるべき理由。手紙は届けるのが郵便魔女の仕事。書いた人が届けたいと思って出した。受取人が待っているかもしれない」
「届けるべきでない理由は」
「配達保留の記号がある。政治的な問題になるかもしれない。本局の判断を仰ぐべき案件だ」
「それだけか」
「……届けることで、差出人か受取人に危険が及ぶかもしれない。そういう手紙の可能性がある」
「そうだな。どちらが重い」
「分からない」
「分からないなら、もっと情報が必要だ」
「どうやって?」
「手紙に触れれば分かることがある」
ミリアは机の上の封筒を見た。
「それは」
「嫌か」
「嫌というより、それは手紙を読むのと同じじゃないか、と思って」
「記憶が見えることは、内容を読むことではない。差出人の感情と状況の断片が分かるだけだ。内容を知ることはできない」
「でも」
「お前の能力は、郵便の判断に使えるとわしは思っている。これまでも使ってきた。ヴェルナーの手紙の時、カレンの手紙の時。お前の判断の材料になった」
「あれは偶然触れてしまっただけだ」
「偶然でも判断の材料になった。今回は意図して使う、というだけの違いだ」
ミリアはしばらく黙っていた。
「それは、していいことなのかな?」
「していいかどうかは、お前が決める」
「また答えを返してくる」
「お前の能力はお前のものだ。使い方を決めるのはお前だ。私が許可を出すものではない」
翌朝、ミリアは封筒を手に取った。
手袋の指先を、封筒の角に当てた。
厚い冬用の手袋だった。少し待った。何も来なかった。
もう少しだけ指を動かした。封筒の表面に革が触れた。
記憶が来た。
部屋だった。
広い部屋ではなかった。窓が一つ、外は夜だった。雨が降っていた。
机の前に座っている人がいた。後ろ姿だった。長い髪が背中に流れていた。白いものを着ていた。
ペンを走らせていた。速くはなかった。丁寧に、しかし何かを決意して書いている感じがした。
感情が来た。
怖い、という感情だった。
怖い、しかしそれでも書かなければならない、という感情だった。誰かを心配している気持ちもあった。遠くにいる誰かを、ひどく心配していた。
その人が止まった。
ペンを止めて、窓の外を見た。雨の夜。
小さく何かを言った。
ミリアには聞こえなかった。しかし口の動きから、祈るような言葉だった気がした。
もう一つ感情が来た。
これが最後かもしれない、という感情だった。
ミリアは手を引いた。
深く息を吐いた。
記憶の残像が体に残っていた。雨の夜。白い服の後ろ姿。怖い、しかし書かなければならない。これが最後かもしれない。
「見えたか」
ポストが問う。
「見えた」
「どんな感情だった」
「怖い。それでも書かなければならない。誰かをひどく心配している。これが最後かもしれない」
「最後、というのは」
「分からない。でも、とても重要な手紙だと思う。この人にとって、この手紙を出すことがどれほど大変なことか」
ミリアは封筒を机に置いた。
「届けたい」
「本局の保留記号があっても?」
「あっても」
「理由は」
「この人がどれほどの覚悟で書いたか、少し分かった。それを本局の判断を待っている間に処分されるのは」
「ロアンに相談しろ」
「うん」
ロアンに全部話した。記憶のことも、感情のことも、届けたいと思っていることも。
ロアンは聞きながら、お茶を飲んでいた。表情は変えなかった。最後まで聞いてから、カップを置いた。
「差出人は王族だと思うか」
「分かりません。でも高い身分の人だとは思います。部屋の様子から」
「宛先は隣国の王都だ」
「はい」
「隣国と今、どういう状況か知っているか」
「南の方で緊張していると聞きました」
「もっと詳しく言うと。この国と隣国は、来年にも戦争になるかもしれない状況だ。国境での小競り合いが増えている。どちらの国の強硬派も、戦争を望んでいる」
「そういう状況での、王族からの手紙」
「隣国の誰かへの手紙だ。内容によっては、和平に関わることかもしれない。あるいは全く別のことかもしれない」
「和平に関わることだとしたら」
「届けた方がいい可能性がある。しかし届けることで、差出人が危険になる可能性もある。政治というのはそういうものだ」
ミリアは黙っていた。
「お前はどうしたい」
「届けたい、という気持ちがあります」
「それだけか」
「届けることで差出人が危険になるなら、届けない方がいいとも思います。でも本局の判断を待って処分されるのも嫌だ」
「矛盾しているな」
「矛盾しています」
ロアンはしばらく考えた。
「今すぐ決める必要はない。しかしあまり時間もない。本局への送付期限は三日だ」
「三日で決めます」
「お前が決めることだ。お前はどう思う」
ポストが答えた。
「魔女は届けるだけだ」
「それがお前の意見か」
「それが私の原則だ」
「原則と意見は違う」
ポストは少し間を置いた。
「届けるべきだと思う。しかしそれは私の意見だ。ミリアが決めることだ」
三日間、ミリアは配達をしながら考えた。
朝に飛んで、手紙を届けて、夜に戻って、考えた。
一日目は届けたいという気持ちが強かった。二日目は本局の判断に従うべきだという気持ちが強くなった。三日目の朝、飛びながら、ミリアはポストに話しかけた。
「ポスト」
「なんだ」
「あの手紙を書いた人が、これが最後かもしれないって思っていた。それがずっと引っかかってる」
「なぜ引っかかる」
「最後かもしれない、って思いながら書いた手紙が、届かなかったら」
「どうなる」
「その人に、もう手紙を書く機会がなくなるかもしれない。届かなかったまま、終わるかもしれない」
「そうなるかもしれない」
「それが嫌だ」
「嫌なら届けるか」
「届けたい。でも危険になるかもしれない」
「矛盾したまま決めるしかない、と言ったのはお前だ」
「言ってない」
「言っていないが、そういうことだ」
ミリアは空を見た。冬の空は青が濃い。雲が少ない。風が冷たい。
「ポスト、ロアンさんが昔、保留の判断が出る前に届けた手紙があるって言ってた」
「聞いた」
「それは、どんな手紙だったんだろう」
「ロアンに聞け」
「聞けないよ、そういうことを直接は」
「なぜ」
「なんとなく、まだ聞く時期じゃない気がして」
ポストは何も言わなかった。
三日目の夕方、配達から戻った時、ミリアは机の上の封筒を見た。
本局への送付期限は明日だった。
ロアンは縁側にいた。空を見ていた。ミリアは縁側に出て、隣に立った。
「ロアンさん」
「なんだ」
「届けます」
ロアンは空を見たまま言った。
「そうか」
「危険になるかもしれない。本局の保留に反することになる。それでも届けたい」
「理由は」
「届けないことの方が、後悔すると思うから」
ロアンは何も言わなかった。
しばらくして、「国境を越えたことはあるか」と尋ねた。
「ないです」
「一人で越えるのは初めてになるな」
「はい」
「国境には検問がある。郵便魔女の証明書を見せれば通れる。問題があれば止められる」
「止められたら」
「その時はその時だ。準備しろ。明日の早朝に発て」
「ロアンさん、怒りませんか」
「何に怒る」
「本局の保留に反することに」
「わしはお前の上司ではない。お前の師匠でもない。お前が決めたことに、わしが怒る理由がない」
ミリアは少し迷ってから言った。
「ロアンさんが昔届けた、保留の手紙。どんな手紙でしたか」
ロアンは黙った。
長い沈黙だった。
「和平を求める手紙だった。戦争中に、敵国の王族から届いた手紙だ。保留どころか、没収して燃やすよう本局から命令が来た」
「届けたんですか」
「届けた」
「どうなりましたか」
「戦争が終わった」
ロアンは穏やかな声で言った。
ミリアは言葉を失った。
「一通の手紙で終わったわけではない。しかしその手紙が、終わらせるための最初の一手になった」
空が暗くなっていた。最初の星が出た。
「お前の手紙が何かを変えるかどうかは分からない。しかし届けなければ、何も変わらない」
ミリアは封筒のことを思った。雨の夜に書いた人のことを思った。怖い、しかし書かなければならない、という感情。これが最後かもしれない、という感情。
「行きます」
「気をつけろ」
ロアンは立ち上がった。扉を開けながら、振り向かずに言った。
「ポスト、頼んだ」
「分かっている」
扉が閉まった。
ミリアはポストを見た。
「ポスト、ロアンさんが頼んだって」
「ミリアを無事に連れて帰ることだ。私はいつもそうしている」
「いつも?」
「今まで全部、無事に帰ってきただろう」
ミリアは少し笑った。
「そういう役割だったんだ」
「最初からそうだ」
夜風が来た。冷たい、冬の始まりの風だった。
明日、国境を越える。
差出人も知らない、宛先の人物も知らない、内容も知らない手紙を持って、隣国へ飛ぶ。
怖い、という感情があった。しかし書かなければならない、という感情も一緒にあった。
あの手紙を書いた人と、今のミリアが、少し似ている気がした。




