第八章 別れの空
北方に戻ったのは、出発から三日目の夕方だった。
最後の山を越えた時、見慣れた森が見えた。針葉樹の濃い緑と、その中を走る細い川。空の色も、光の質も、北方はやはり北方だった。他の場所とは違う、と体が知っていた。
局が見えた時、ミリアは少し速度を上げた。
自分でも気づかなかったが、帰りたかったのだと思う。
降り立つと、ロアンが縁側にいた。いつものように空を見ていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました。手紙は届けました。あの分局は閉まっていましたが、受取人の家を直接確認して届けてきました」
「そうか」
「分局の閉局については本局に報告が必要ですか」
「わしがする」
ロアンは立ち上がった。
「飯が冷めた。温め直す」
中に入った。ミリアはポストを下ろして、縁側に少しだけ腰を下ろした。
三日ぶりの局だった。木の軋み方も、かまどの匂いも、壁に貼ってある地図の向きも、全部知っている場所だった。
北方に来て、まだ二ヶ月も経っていない。
それなのに、帰ってきた、と思った。
「ポスト」
「なんだ」
「ここが、帰る場所になってる」
「そうだろうな」
「なんか、不思議」
「住めば慣れる」
「そういうことじゃないんだけど」
ポストは少し間を置いた。「場所というのは、そこで何かをした分だけ馴染む。お前はここで毎日手紙を届けて、倉庫の整理をして、ロアンと飯を食った。それだけのことが積み重なる」
ミリアはそれを聞いて、少し納得した。
積み重なる。時間ではなく、やったことが。
翌日の配達から戻ると、ロアンが珍しく局の中で本を読んでいた。
古い本だった。革表紙で、背表紙の文字が消えかかっている。ロアンは眼鏡をかけて、ページをゆっくりめくっていた。
ミリアは今日の配達の記録をつけながら、ロアンが読んでいる本を横目で見た。
「何を読んでいるんですか」
「郵便の記録だ。昔の魔女たちが書き残したもの」
「古そうですね」
「百年前のものだ。この国の郵便制度が始まった頃の記録がある」
ミリアは記録をつける手を止めた。
「読んでもいいですか」
「お前には難しい」
「難しくても」
ロアンは本をミリアに渡した。
受け取って開いてみると、確かに難しかった。古い書体で書かれていて、現代では使わない言い回しが多い。しかし読めないほどではなかった。
ページをめくった。
郵便路線の記録、配達にかかった日数の記録、当時の魔女たちの名前と担当地区。それと、時々、短い文章が混じっていた。記録ではなく、感想のような文章だった。
一つ、目が止まった。
短い文だった。
「手紙は届く。遅れても、迷っても、嵐の中でも。届けようとする者がいれば、手紙は届く」
ミリアはその一行を二度読んだ。
「誰が書いたんですか、これ」
ロアンは本を覗き込んだ。その一行を見た。
「最初の郵便魔女の一人だ。名前は残っていない。記録を書いた人間の名前が省かれている時代だった」
「最初の郵便魔女」
「制度が始まった頃に飛んでいた魔女たちだ。今より道具も地図も整っていなかった。感覚だけで空を飛んだ」
ミリアは本を閉じた。表紙を見た。古い革表紙が、長年の使用で柔らかくなっていた。
「ポスト」
「なんだ」
「ポストって、最初の郵便魔女の時代から存在してる?」
沈黙があった。
ロアンが本をミリアから受け取りながら、何も言わなかった。
ポストも、しばらく何も言わなかった。
「それはまだ聞く必要のないことだ」とポストはゆっくり言った。
「まだ、ということは、いつか聞ける?」
「お前が一人前になったら」
ミリアはポストを見た。古い革鞄が、机の上で静かにしていた。
まだ、という言葉が引っかかった。まだ、ということは、時期が来れば話してくれるということだ。
それでいい、と思った。急いで知る必要はない。
その夜、夕飯を終えてから、ロアンが言った。
「カレンのことを聞かせろ」
ミリアは少し驚いた。
「報告は一昨日しましたが」
「配達の報告ではない。あの男のことだ」
ミリアはお茶をすすりながら、カレンのことを話した。戦争から帰ってきた男のこと。元恋人からの手紙のこと。封を開けるまでの沈黙のこと。読み終えてから言った言葉のこと。
ロアンは黙って聞いた。
「届いてよかったと言ったか」
「はい」
「怒りながら」
「怒りながらでした」
「そうか」
ロアンは茶を飲んだ。
「わしも似たような手紙を届けたことがある。戦争から帰ってきた者への手紙は、何度も届けた」
「どんな手紙でしたか」
「色々だ。待っていたという手紙。待てなかったという手紙。死んだという知らせを送った手紙。帰ってこいという手紙」
「難しいですね、どれも」
「難しくない。届けるだけだ」
「届けた後が難しい、ということですか」
「届けた後はわしの仕事ではない」
ミリアは考えた。
「割り切れますか、それが」
「割り切るのではない。届けた後は、受け取った人間の仕事だ。わしがそこに踏み込むことは、その人間の仕事を奪うことになる」
「カレンさんに、記憶のことを話しました」
「聞いた」
「踏み込みすぎましたか」
ロアンはしばらく考えた。
「お前はどう思う」
「分からないんです。届けるだけ、と分かっていても、あそこで飛び立てなかった。封を開けずに捨てようとしていたかもしれなくて」
「捨てたとして、それはカレンの選択だ」
「そうなんですが」
「しかし、お前が話して、カレンが読んだ。読んでよかったとカレンが言った。それが事実だ」
「はい」
「事実に、余計だったとか余計じゃなかったとか言ってもしょうがない」
ミリアは頷いた。
「ただ、いつでもそれが正しいとは思うな。記憶が見えることを話したことで、傷ついた者もいるかもしれない。お前の能力は諸刃だ」
「分かりました」
「分かった、で終わらせるな。考え続けろ」
ロアンは立ち上がった。
「明日の便が早い。寝ろ」
その夜、眠れなかった。
カレンのことを考えていた。
五年間戦場にいた男が、帰ってきて、恋人がいなくて、三年間村にいた。何をしていたのかは分からない。農業をしていたのか、郵便の仕事をしていたのか、ただそこにいたのか。
そしてある日、手紙が来た。
届いてよかった、と言った。
怒りながら。
両方が本当だった、とミリアは思った。怒りも、届いてよかったという気持ちも、同時に本当だった。どちらかが嘘ではなかった。
「ポスト」
「眠れないのか」
「うん。ポストは眠るの?」
「眠らない」
「ずっと起きてるの?」
「ずっと、とは長い時間だが、そうだ」
「何を考えてるの、夜の間」
「考えていることもある。考えていないこともある」
ミリアは天井を見た。
「ポスト、遅れて届く手紙のことを、ロアンさんが言ってたじゃないですか。最初に分局に来た時」
「言っていた」
「カレンさんへの手紙は、遅れたの?」
「手紙が書かれたのは一ヶ月前だ。届くまでに一ヶ月かかった。普通より少し遅い」
「一ヶ月か。でも、もっと遅れて届いた手紙もあった。ヴェルナーさんへの手紙は半年」
「そうだ」
「カレンさんへの手紙は、一ヶ月遅れで届いた。それがちょうど今、届くべき時だったのかな」
「さあな。手紙に、届くべき時が分かるとは思わない。ただ届いた時が、届いた時だ」
「届いた時が正しい時、ということ?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。もっと早く届いていれば違う結果になったかもしれない。もっと遅ければまた違ったかもしれない。しかしそういうことを考えても意味はない。届いた時に届いた。それだけだ」
ミリアはそれを聞いて、少しだけ気持ちが落ち着いた。
届いた時に届いた。
それだけのことを、毎日繰り返している。
「ポスト」
「なんだ」
「最近、仕事が好きになってきた」
「そうか」
「落第した時、郵便魔女になるしかないと思った。でも今は、なりたかったのかもしれないって思う」
ポストはしばらく黙ってから、
「それはよかった」
と言った。
いつもより少し柔らかい声だった。
「明日も飛ぶ」
「飛べ」
「うん。おやすみ、ポスト」
「眠れ」
目を閉じた。
北方の夜は静かだった。風の音と、遠くで梟が鳴く声と、それだけだった。
ミリアはその静かさの中で、遅れて届く手紙のことを考えながら、いつの間にか眠っていた。
朝になれば、また手紙がある。
また誰かのところへ届けに行く。
それが、今のミリアの仕事だった。




