第七章 戦争帰りの騎士
秋が深くなっていた。
朝の空気が変わった。夏の湿り気が抜けて、澄んだ冷たさが来る。高度を上げると特に冷える。ミリアは飛行用の上着を厚いものに替えた。手袋も冬用に変えた。冬用の手袋は革が厚く、指先の感覚が少し鈍くなる。それでも感応は起きた。厚くなった分、接触の閾値が上がっただけで、完全には防げなかった。
その分、少し楽になった、とも言えた。
分局の仕事にも慣れてきた。路線を目を閉じていても飛べるようになった。受取人の顔が分かるようになった。週に一度の本局便の仕分けが、最初の半分の時間でできるようになった。
倉庫の未配達手紙も、少しずつ整理が進んでいた。
三つあった箱のうち、一つを確認し終えた。届けられたのは四通だった。住所の記録ミスが二通、宛先の転居先を近隣の局に問い合わせて追跡できたのが一通、受取人が亡くなっていたが息子が同じ住所に住んでいることが分かって渡せたのが一通。
残りの二十数通は、届け先が分からないか、受取人がすでになく、家族もいなかった。ミリアはそれを別の箱に移して、保管し続けることにした。処分する気にはなれなかった。
木曜日の本局便に、珍しい宛先の手紙が一通あった。
北方十三分局の管轄外の地名だった。東の方角の、ミリアがまだ飛んだことのない路線の先にある村の名前。差出人は王都の住所だった。
「ロアンさん、これは他の分局に回しますか」
ロアンは封筒を一瞥した。
「いや。昔はうちの路線だった村だ。今は路線が変わって、別の分局が担当している。しかしここ数年、その分局との連絡が取れていない」
「連絡が取れない?」
「担当魔女が変わったか、局が閉まったか。本局に問い合わせても、返事がない。わしも一度確認しに行こうと思っていて、行けていない」
「私が行きます」
「遠い。一泊以上かかる」
「港町の時もそうでした」
「あの時より遠い。二泊はかかる」
ミリアは地図を広げた。東の方角に線を引いてみた。山を二つ越えて、川を渡って、平野を抜ける。ロアンの言う通り、二泊は必要な距離だった。
「行けます」
ミリアは強く言う。
「急がない手紙だ。差出人は王都の商人で、毎月同じ宛先に手紙を送っている。定期的な手紙だ」
「定期的な手紙、というのは」
「商取引の連絡か、個人的な文通か。どちらにせよ、受取人は毎月届くと思っているはずだ。届かなければ心配する」
「そうですね。行きます」
ロアンは少し考えてから、
「ポストに道を聞け。あの辺りの路線は昔通ったはずだ」
とだけ伝えた。
翌朝出発した。
東の空が白み始めた頃に飛んだ。朝の冷たい空気が頬を叩いた。ミリアは上着の前を留め直して箒を進めた。
最初の山を越えるまでに二時間かかった。山の稜線を越えると、向こう側の景色が全く変わった。北方は森と山が多かったが、東の斜面を下ると平野が広がっていた。農地が続き、遠くに川が光っている。
「ポスト、この辺りは来たことある?」
「ある。何十年も前だが」
「景色は変わった?」
「川の流れが少し変わった。昔は南に曲がっていたが、今は東へ向いている。大雨で変わったのだろう」
「川が変わるんだ」
「時間が経てば地形も変わる」
ミリアは眼下の平野を見た。農地の区画が整然と並んでいる。麦の刈り取りが終わったばかりの畑と、まだ何かが育っている畑が交互に見えた。
昼過ぎに小さな町を通り過ぎた。宿もある大きさの町だったが、今日はまだ飛べると判断して通過した。
二つ目の山の手前で、風が強くなった。
山を越える気流は不安定だった。箒が揺れる。ミリアは高度を下げて、山の裾を回るルートを選んだ。遠回りになったが、安定して飛べた。
「正解だ。あの山は気流が読みにくい」
「峠を越えなかったから時間がかかったけど」
「山で無理をするな。それはロアンが教えたはずだ」
「直接は教えてもらっていない」
「川に落ちた話をしたはずだ」
「あれが教えだったの?」
「あの人の教え方はそういうものだ」
夕方、平野の真ん中にある村に降り立った。一泊目の中継地点として地図に記してあった村だった。宿を探すと、すぐに一軒見つかった。
部屋は狭かったが清潔だった。窓から夕暮れの平野が見えた。北方より広い空があった。
二日目の昼過ぎ、宛先の村に着いた。
小さな村だった。家が十数軒、広場に井戸が一つ、小さな教会がある。北方の村と作りは似ているが、木の種類が違う。平野の村は広葉樹が多く、この季節は葉が黄色と赤に染まっていた。
郵便局、というより、郵便の受付をしている場所を探した。村の端に、木の板に「郵便」と書いた家があった。
扉をノックした。
出てきたのは男だった。
三十代くらい。背が高く、肩幅が広かった。顔には日焼けが残っていて、目に険しさがあった。しかし険しさの中に、疲れたような色が混じっていた。短く刈った髪に、無精ひげ。右腕に古い傷跡があった。
「郵便か」
男の声は低かった。
「はい。一通お届けに来ました。カレン・ドーヴァー様はこちらでいらっしゃいますか」
男はミリアを見た。
「俺だ」
「では、こちらを」
ミリアは封筒を取り出した。
取り出す時、手袋の端が引っかかった。
また、だ、と思う間もなく記憶が来た。
女の人が走っていた。
村の道を走っていた。息を切らして、名前を呼んでいた。男の名前を呼んでいた。カレン、カレン、と。
感情が流れ込んできた。
心配だった。純粋な、何かを失いそうな心配。それと一緒に、待っている感情。長く待っている感情。何年も待っている感情。
次の感情が来た。
決意だった。
待ち続けることへの決意ではなかった。別の決意だった。前へ進もうとする、しかし後ろを何度も振り返りながらの、苦しい決意だった。
ミリアは手袋を直した。
カレンは封筒を受け取っていた。表書きを見てから、差出人の名前を見る。
すると表情が変わった。
さっきまでの疲れた険しさが、一瞬で別のものに変わった。怒りだった。封筒を持った手が、少し震えた。
「……なんで今更」
男の声が低く、硬かった。
ミリアには、聞こえなかったふりができなかった。
「あの、読まれましたか、まだ」
「差出人を見ただけで分かる」
「それは」
「リナからだ」
カレンの封筒を握った手が白くなっていた。
「俺の、元恋人だ」
ミリアは何も言えなかった。
「戦争に行く前に、待っていてくれと言った。三年で終わると思っていた。五年かかった。戻ってみたら、別の男と結婚していた」
カレンは封筒を見た。
「それで今更、手紙を送ってくる理由が分からない」
ミリアは記憶の残像を持ったまま立っていた。走っていた女の人。カレンの名前を呼んでいた声。待っている感情。そして苦しい決意。
「読んでみませんか」
ミリアは勧める。
カレンがミリアを見た。
「読んでみると、何が変わる」
「変わるかどうかは分からないですが」
「変わらないだろう。あいつは別の男と家庭を作った。それは事実だ」
「そうですね」
「それを今更ひっくり返す気はない。向こうの家庭を壊すつもりもない」
「そういう意味で言ったわけじゃないんですが」
カレンはミリアを見たまま、封筒を手に持ち続けた。
「お前は郵便魔女だろう」
「はい」
「届けたら終わりじゃないのか」
ミリアは少し考えた。
届けたら終わりだ、とポストもロアンも言う。魔女は届けるだけだ、と。
しかしミリアには、ここで飛び立てない気がした。
「記憶が見えました。手袋がずれて、少しだけ」
ミリアが伝えると、カレンが眉をひそめた。
「手紙を書いた人の記憶が見えることがあります。これは私の能力で、望んでそうしたわけじゃないんですが」
「何が見えた」
「走っていました、差出人の方が。名前を呼びながら。ずっと待っていた気持ちと、前に進もうとする気持ちが、両方ありました」
カレンは黙った。
「内容までは分かりません。ただ、怒っている手紙ではなかったと思います」
しばらく沈黙があった。
村の広場で子どもが遊んでいる声がした。遠くで牛が鳴いた。秋の風が落ち葉を転がした。
カレンは封筒を長い間見た。
それから、ゆっくりと封を切った。
ミリアはその場にいていいのか迷ったが、カレンは何も言わなかった。
男は手紙を読んだ。
読みながら、怒りが少しずつ変わっていくのが分かった。顔の険しさが、ゆっくりと、別の何かに変わっていった。怒りが溶けるわけではなかった。しかし、その下にあるものが少し見えてきた。
読み終えると、カレンは紙を畳んだ。
しばらく、ただ立っていた。
「謝りたかったそうだ。ずっと謝れなかったと」
「……」
「待てなかったことを、謝りたかった。しかし謝れば俺の気持ちを蒸し返すことになると思って、書けなかった。書いては捨てて、また書いて、ようやく送った、と」
ミリアは黙って聞いた。
「怒っていいか、俺は」
「怒っていいと思います」
「怒っている」
「はい」
「しかし、待てなかったことを責める気にはなれない。五年だ。三年で帰るつもりが、五年になった。その間、何の連絡もできなかった。山の中で、手紙を送れる状況じゃなかった」
「戦争に行っていたんですか?」
「南の山岳地帯だ。今は停戦しているが、あの頃は最前線だった」
ミリアは男の右腕の傷跡を見た。
「五年、待てと言うのは無理な話だったかもしれない。理屈では分かっている。しかし心がそれを分かるのには、まだ時間がかかる」
「そうですね」
「手紙が来たことで、何かが変わるわけではない。しかし」
カレンは手紙を胸のポケットに入れた。
「届いてよかった、とは、少し思う」
飛び立つ時、カレンは扉の前に立っていた。
見送るというよりも、ただそこに立っている、という感じだった。
ミリアは高度を上げながら、男の姿が小さくなるのを見た。
「ポスト」
「聞いていた」
「余計なことをしたかな、記憶のことを話して」
「さあな。しかしカレンは読んだ」
「うん」
「読まなかったかもしれなかった」
「そうだね」
「お前が話したから読んだかもしれない。あるいはお前が話さなくても読んだかもしれない。それは分からない。しかし手紙は届いた。それだけは確かだ」
ミリアは空を見た。
秋の空は高く、薄い雲が長く伸びていた。
「戦争が終わってから、あの人どのくらい経つんだろう?」
「南の山岳地帯の停戦は三年前だ」
「三年前に帰ってきて、三年間あの村にいたんだ」
「そうだろうな」
「三年間、どんな気持ちで過ごしたんだろう」
ポストは答えなかった。
答えない方がいい問いというものがある、とミリアは最近分かってきた。ポストが答えない時は、たいていそういう時だ。考えてみろ、という意味か、答えが出る問いではない、という意味か、どちらかだった。
ミリアは考えた。
五年間、戦争にいた。帰ってきたら、待っていてくれと言った人が別の家庭を持っていた。それから三年。怒りと、分かっているという気持ちと、分かっていても怒りは消えないという気持ちが、三年間続いた。
その男に、元恋人からの手紙が届いた。
開けるかどうか迷った末に、開けた。
謝りたかった、と書いてあった。
「ポスト」
「なんだ」
「手紙って、謝るためにも使えるんだね」
「当たり前だ」
「面と向かっては言えないことが、手紙なら言えることがある」
「そうだ」
「リナさんは何年も書けなかったけど、書いた」
「書いた」
「それで、カレンさんは届いてよかったと言った」
「言った」
ミリアは風の中を飛んだ。
帰り道は二泊かかる。今夜は平野の町で泊まって、明日の昼には山を越えて、夕方には北方に戻れる。ロアンが待っている。倉庫の手紙が待っている。
「ポスト」
「なんだ」
「遅れても、届けばいい、ってロアンさんが言ってたけど」
「言っていた」
「届いた瞬間に全部が解決するわけじゃないんだね。カレンさんは怒っている。それは変わらない」
「そうだな」
「でも届いてよかった、と言った」
「そうだ」
「それでいいのかな」
「それでいいのかは、私には分からない。しかしカレンがそう言った。本人がそう言うなら、そうなのだろう」
ミリアは少し考えた。
「手紙が全部を変えるわけじゃない。でも何かを変えることがある」
「そうだ」
「その何かが、どんなに小さくても」
「小さくても、変わったことには変わりない」
平野が後ろに遠ざかっていった。
最初の山が近づいてきた。夕暮れの光の中で、山の稜線が赤く染まっていた。帰り道の山は、来た時よりも優しく見えた。




