第六章 再会の手紙
エリスの父親が帰ってきた、という手紙が届いたのは、それから十日後だった。
木曜日の本局便の中に混じっていた。差出人は「エリス・ヴァレン」。宛先は「北方十三分局 ミリア・ヴェルン様」。
ミリアが仕分けをしていて、自分宛の封筒を見つけたのは初めてだった。思わず手が止まった。手袋の上から持って、しばらく眺めた。
「なんだ、手紙か」
ポストは呟く。
「自分宛の手紙って、変な感じ」
「お前も受取人になることがある。郵便魔女でも手紙は来る」
「開けてもいいんだよね、自分宛なんだから」
「当たり前だ」
ミリアは封を開けた。中の紙を取り出した。手袋越しに広げた。
エリスの字は少し歪んでいた。子どもの、しかし丁寧に書こうとした字だった。
短い手紙だった。
お父さんが帰ってきた、と書いてあった。昨日の朝、港に船が来て、お父さんが乗っていた。やせていたけど元気だった。三通の手紙のことを話したら、お父さんも泣いた。お母さんも泣いた。私も泣いた。三人で泣いた。教えてくれてありがとう。また手紙を書きます。
それだけだった。
ミリアは手紙を畳んだ。
ロアンが棚の整理をしながら言った。「港町の子からか」
「はい。お父さんが帰ってきたそうです」
「そうか」
それだけで、ロアンは棚の整理に戻った。
ポストが言った。
「ほらな。内緒にしなくてよかっただろう」
「最初から内緒にするつもりなかった」
「そうだったか」
「そうだった」
ミリアは手紙を自分の上着の内ポケットに入れた。配達物ではなく、自分の手紙として。
その日の午後の配達から戻ると、ロアンが珍しく外で待っていた。
縁側ではなく、局の前の道に立っていた。何かを考えているような顔をして、空を見ていた。
ミリアが降り立つと、ロアンは振り向いた。
「少し来い」
ロアンは局の裏へ歩いた。ミリアはポストを持って後に続いた。
局の裏には小さな倉庫があった。木造で、扉が古くて歪んでいる。ロアンが重い鍵を取り出して扉を開けた。
中は薄暗かった。
棚が並んでいた。
棚には郵便物が積まれていた。整理された箱の中に、封筒や小包が収まっている。古いものは紙が黄ばんでいた。新しいものは白い。大量の郵便物が、ひっそりと棚の中に収まっていた。
「未配達の郵便だ。この局が担当してきた、届けられなかった手紙」
ミリアは棚を見た。
「どのくらいありますか」
「数えたことはない。長年分だ。宛先不明、受取人死亡、住所変更で追えなくなったもの、様々ある」
ロアンは棚の奥へ歩いた。一つの箱の前で止まった。
「港町の郵便局に手紙を探しに行ったと聞いた」
「はい」
「それをヒントに思い出した。ここにも似たようなものがあるかもしれない」
ロアンは箱を取り出した。ミリアの前に置いた。箱の側面に日付が書いてあった。五年前から七年前の日付だった。
「ここ数年分だ。わしが仕分けした記憶がある」
「この中に、届けられるものがあるかもしれない」
「あるかもしれない。ないかもしれない。ただ、お前が港町でやったことが、ここでもできる可能性がある」
ミリアは箱の中を見た。封筒が何十通も入っていた。
「配達の合間にやれ。急ぎではない。できる分だけやればいい」
「やります」
「ただし、全部届けられるとは思うな。届けられないものの方が多い。それでも確認する価値はある」
ロアンはそう伝えて、倉庫を出た。
ミリアは箱を持って後に続いた。
重かった。配達物の重さと、また別の重さだった。
その夜から、ミリアは箱の中の手紙を一通ずつ確認し始めた。
テーブルに手袋をはめた手で取り出して、差出人と宛先と日付を台帳に書き写す。それから地図と照らし合わせて、届けられる可能性を考える。
最初の十通を確認した段階で、すでに状況が分かってきた。
宛先不明が三通。受取人が亡くなっていると台帳に記録されているものが二通。住所は合っているが転居したらしいものが二通。残り三通は、理由が記録されていなかった。
「理由が書いていないものは、どういう状況なんだろう」
「届けようとして届けられなかったか、届ける前に何かがあったか。当時の担当魔女が記録を残していないということは、急いでいたか、あるいは理由が分からなかったか」
ポストが呟く。
「当時の担当って、ロアンさん?」
「この局の担当はずっとロアンだ」
ミリアはロアンを見た。ロアンは向かいの椅子で茶を飲みながら、古い地図を広げていた。
「ロアンさん、理由が書いていない未配達手紙があるんですが」
「そうか」
「当時、何があったか覚えていますか」
「五年以上前のことは細かくは覚えていない。記録がないなら、当時のわしも分からなかったのだろう」
ミリアは三通の封筒を手に取った。手袋越しに持ち、表を確認する。
一通目。差出人の名前は消えかかっていた。宛先は山の集落の農家だった。
二通目。差出人は王都の商人らしい名前。宛先は北方の村の宿屋だった。
三通目。
差出人の欄が空白だった。
宛先は、北方十三分局の、ロアンという名前だった。
ミリアは目を上げた。
「ロアンさん」
「なんだ」
「これ」
封筒を差し出した。
ロアンは茶のカップを置いて、封筒を受け取った。
見た瞬間、ロアンの手が止まった。
止まった、というよりも、固まった。封筒を持ったまま、しばらく動かなかった。
「……これは」
「知っていますか」
ロアンは封筒を裏返した。また表に戻した。それから封筒を持ったまま、しばらく黙っていた。
「差出人の名前がないな」
「はい。なぜかこの一通だけ」
「ミリア」
「はい」
「これはわしが受け取ることにする」
ミリアは一瞬だけ迷った。郵便物の扱いとしてそれでいいのか、という迷いだった。しかしロアンの顔を見て、迷いを引っ込めた。
「分かりました。受取確認書に記録しておきます」
「頼む」
ロアンは封筒を持って立ち上がった。二階へ上がっていった。足音が階段を上がり、廊下を進み、部屋の扉が閉まった。
静かになった。
ミリアはポストを見た。
「ポスト、あの手紙、知ってる?」
「さあな」
「さあな、って」
「お前が確認することではない」
それはそうだ、とミリアは思った。宛先がロアンで、ロアンが受け取った。それで完結している。
しかしポストの「さあな」は、知らないという意味ではないような気がした。
ミリアは台帳に受取記録を書いた。受取人:ロアン・ハーベル。配達日:本日。状態:保管中より本人へ。
記録を書きながら、少し考えた。
倉庫の中に、ロアン宛の手紙が未配達のまま眠っていた。何年も。差出人の名前がない手紙が、届け先の本人がいる局の倉庫に入ったまま、ずっとあった。
どういう経緯でそうなったのかは分からない。
ただ今夜、届いた。
翌朝、ロアンはいつも通りだった。
かまどの前で粥を作り、ミリアに椀を渡し、今日の配達の確認をした。何も言わなかった。昨夜の手紙について、一言も触れなかった。
ミリアも触れなかった。
出発前に、ポストが小さく言った。
「残りの未配達、続けるか」
「続ける。あと二十通以上ある」
「届けられないものもある」
「分かってる。でも確認だけでもする」
ポストは何も言わなかった。
ミリアは箒にまたがった。今日の配達物を確認した。六通と小包二つ。普通の一日の仕事だ。
飛び立つ前に、ロアンが縁側から言った。
「未配達の箱、他にも二つある。奥の棚だ」
「全部やります」
「急がなくていい」
「でもやります」
ロアンは少し黙ってから、「そうか」と言った。
ミリアは空へ飛んだ。
その日の夕方、帰り道の空路で、ミリアは昨夜から考えていたことをポストに話した。
「ポスト、倉庫の手紙をこれから少しずつ届けていくとして」
「なんだ」
「届けられないものの方が多いと思う。宛先が変わっていたり、受取人がもう亡くなっていたり」
「そうだろうな」
「届けられないものは、どうすればいいんだろう」
「処分するか、保管し続けるかだ」
「処分は嫌だ」
「では保管し続けるしかない」
「でも、倉庫がいっぱいになる」
「なる」
ミリアは前を向いたまま考えた。
「受取人が死んでいても、その人の家族に届けることはできる?」
「できないことはない。ただ、手紙は宛先の人物に届けるものだ。別の人に渡すのは、本来の配達ではない」
「でも、残された人に渡した方がいい手紙もあるかもしれない」
「あるかもしれない。それをどう判断するんだ」
ミリアは答えられなかった。
「それがお前の判断だ。誰も教えてくれない。お前が決める」
「難しい」
「そうだ」
「でも考える」
「それでいい」
局が見えてきた。夕暮れの光の中で、古い木造の建物が今日も橙色に染まっていた。
倉庫の中に、まだ手紙がある。
届けられるものと、届けられないものが混ざって、棚の中で眠っている。
ミリアには全部届ける力はない。しかし一通ずつ確認することはできる。届けられる一通を見つけることはできる。
エリスの父親からの三通の手紙を思い出した。住所の番地が一つ違っていただけで、届かなかった手紙。
そういう手紙が、この倉庫にもあるかもしれない。
ポストが尋ねた。
「今日の配達は全部届けたか」
「全部は無理だった」
「それでいい。一日に全部はできない」
「うん。一通ずつだね」
「そうだ。郵便はいつも、一通ずつだ」
ミリアは降り立った。
ロアンが縁側に出ていた。空を見ていた。いつものように。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
この分局に来てから初めて、ロアンが「おかえり」と言った。
今まではいつも「全部届けたか」だった。
ミリアは少し驚いて、「はい」と言答えた。
ロアンは空を見たまま、小さく笑った。皺だらけの顔に浮かぶ、小さな笑みだった。
扉を開けて中に入った。
ミリアはポストを抱えたまま、その笑みをしばらく頭の中に残していた。
「ポスト」
「なんだ」
「ロアンさんが笑った」
「そうか」
「珍しい」
「そうでもない。ただ、お前がまだ知らないだけだ」
ポストは穏やかな声で言う。
かまどに火が入っていた。今夜の夕飯の匂いが漂っていた。
倉庫の手紙がまだある。明日も配達がある。未配達の箱がまだ二つ、奥の棚に残っている。
一通ずつ。
それだけのことだ、とミリアは思った。
しかしそれだけのことが、今夜も少し重く、少し温かかった。




