第五章 港町の少女
北方十三分局に、週に一度、本局からの郵便便が届く。
木曜日の朝に馬車が来て、各地から集められた郵便物を届けていく。ミリアが分局に来てから初めての木曜日、馬車の荷台から下ろされた郵便物の束を見て、思わず声が出た。
「多い」
「週に一度まとめて来るからな」
ポストが言った。
ロアンは黙って荷物を受け取り、サインをして、馬車を見送った。それから束を机の上に置いて、ミリアを見た。
「仕分けをしろ」
「全部ですか」
「全部だ」
ミリアは地図と仕分け台帳を広げて、作業を始めた。封筒、小包、証書の類、数種類の形の郵便物が混在している。差出人も受取人も、ミリアにはまだ馴染みのない名前が多かった。地図と照らし合わせながら、路線ごとに分けていく。
その中に、一通、様子の違う封筒があった。
他のものより厚い封筒で、宛先が北方ではなかった。南西の港町、という地名が書いてあった。
「ロアンさん、これは他の分局宛てですか」
ロアンが手を伸ばし、封筒を見た。
「いや。うちの配達だ。港町のヴァレン家宛て」
「港町は北方路線じゃないですよね」
「そうだ。長距離になる。一泊必要かもしれない」
ミリアは封筒を見た。厚みがある。差出人の名前は書いてなかった。宛先の名前は「ヴァレン家 エリス様」とあった。
「わしが飛べた頃は長距離も担当した。今は難しい。お前が行け」
「一人でですか!?」
「他に誰がいる」
ロアンがきっぱりと言ったあと、ポストが助言した。
「港町への路線は地図に載っている。一泊する場所は途中の中継局に頼めばいい。難しいことはない」
「難しいことはない、って随分あっさり言うね」
「難しくないからだ」
翌朝、ミリアは港町へ向けて飛んだ。
北方の路線とは方角が違う。南西へ向けて飛ぶ。山を背にして、平野に出て、それから海岸線へ向かう。地図によれば、途中に川が二本、大きな森が一つ、小さな町がいくつかあった。
空が広かった。
北方は山が近いせいで空の広さに限界がある。しかし南西へ向かうと平野になり、遮るものがなくなる。どこまでも続く空が、ミリアの前に広がった。
「気持ちいい」
「浮かれるな。風向きに集中しろ」
「分かってる」
ポストはこういう時、少し過保護だ、とミリアは思った。しかし声には出さなかった。
昼過ぎに中継局に立ち寄り、水と軽食を補給した。中継局の魔女は三十代の女性で、愛想がよかった。
「北方十三局から? 珍しい。ロアンさんはお元気?」
「元気です。足腰が弱ったとは言っていますが」
「あの人は昔から強がりだから。気をつけて行ってね。午後は海からの風が強くなるから、高度を下げた方がいいわ」
女性はそう言って微笑む。
午後の空路は言われた通り風が強かった。海が近づくにつれて塩の匂いが混じってくる。風の中に潮の気配がある。
港町が見えてきたのは夕方だった。
小高い丘を越えた時、急に視界が開けて、海が現れた。
灰色の海だった。
夕暮れの光を受けて、波が鈍く光っている。港には船が何隻か停まっていた。大きな帆船、小さな漁船、荷を下ろされた貨物船。桟橋に人影がいくつか見えた。
港町は丘の斜面に沿って建てられていた。石造りの家が段々に並び、坂道が縦横に走っている。ミリアは高度を下げながら、宛先の住所を地図と照らし合わせた。
ヴァレン家は港の近くだった。
石造りの二階建ての家だった。
白い壁に青い窓枠。他の家と同じような造りだが、庭に錨の形の飾りがあった。航海士の家によく見られる装飾だ、とポストが教えた。
扉をノックした。
返事が少し遅れた。
扉を開けたのは少女だった。
十歳くらいだろうか。黒い髪を二つに束ねて、茶色い瞳をしていた。背は低く、頬にそばかすがあった。
少女はミリアを見て、それからポストを見て、それからミリアの顔に戻った。
「郵便魔女?」
「はい。ヴァレン家のエリスさんはいらっしゃいますか」
少女の顔が変わった。
ほんの少し、表情が固まった。期待と、何か別のものが混ざった顔だった。
「私がエリス」
ミリアは少し驚いた。エリス様、という宛名から、もう少し年上の人を想像していた。
「お手紙をお届けに来ました」
封筒を取り出した。エリスは両手を伸ばした。受け取る時、やはり両手だった。他の誰よりも、真剣な両手だった。
エリスは封筒の表を見た。
見た瞬間、顔が曇った。
ミリアには分かった。差出人の名前を確認して、それが望んでいた名前ではなかった、という顔だった。
「ありがとう。中に入りますか?」
エリスの声は小さかった。
「少しだけ、いいですか。長距離で疲れたので」
「どうぞ」
居間に通された。
狭い部屋だった。テーブルと椅子が二つ、棚に食器が並んでいる。壁に古い地図が貼ってあった。海の地図で、船の航路らしい線がいくつか引かれていた。
エリスはお茶を出してくれた。
ミリアはカップを手袋越しに持った。温かかった。
「遠くから来たの?」
「北方から」
「北方って、山の近くの?」
「そうです。一泊かけて来ました」
エリスはテーブルの向こうに座った。届いた封筒は膝の上にあった。まだ開けていない。
「お父さんはいますか?」
ミリアは聞いてから、聞くべきでなかったかもしれないと思った。
エリスは膝の封筒を見た。
「いないわ」
「旅に出ているんですか?」
「航海士だから。海に出ていたの」
過去形だ、とミリアは気づいた。
「船が沈んだって、聞いた」
エリスは淡々とした声だった。感情を抑えているのか、それとも何度も繰り返し言ってきて慣れてしまったのか、判断がつかない声だった。
「八ヶ月前。嵐で」
「……」
「だから、手紙が来るたびに」
エリスは封筒を指でなぞりながら呟く。
「お父さんからじゃないかって思う。でも違う」
ミリアはお茶を飲んだ。
何か言うべきかどうか分からなかった。郵便魔女の仕事は届けるだけだ、とポストは言う。しかしこの少女の前に座って、何も言わないのは違う気がした。かといって、何を言えばいいのかも分からない。
「毎日、手紙を待っているの?」
ミリアは尋ねた。
「毎日じゃないけど。郵便が来る日は」
「何通くらい来ますか、ここへは」
「週に二回くらい。お母さんの姉から来たり、お母さんの仕事関係から来たり。お父さんからは来ない」
「お母さんは?」
「お母さんは港で働いてる。今日は遅い。もうすぐ帰ってくると思う」
ミリアはエリスの顔を見た。
十歳の子どもが、八ヶ月間、父親からの手紙を待ち続けている。船が沈んだと聞いても、それでも待っている。手紙が来るたびに封筒を見て、違うと分かって、それでも受け取る。
その気持ちが、ミリアには重かった。
ポストを担いでいるのとは別の重さだった。
その夜は中継局ではなく、港町の宿に泊まることにした。
エリスの母親が帰ってきて、一晩泊まっていくよう勧めてくれた。宿代を出すと言ったが断った。近くの安宿に部屋を取って、窓から港の灯りを見ながら、ミリアはポストと話した。
「ポスト」
「なんだ」
「エリスちゃんのお父さん、本当に死んだのかな」
「船が沈んだなら、乗組員が全員死んだとは限らない」
「生き残った人もいるかもしれない」
「可能性はある。嵐で船が沈んだ時、漂流して別の港に流れ着いた者の話は珍しくない」
「でも八ヶ月、手紙も何も来ていない」
「来ていないとも言えるし、届いていないとも言える。住所が分からなければ届けられない。漂流した先がどこかも分からない」
ミリアは港の灯りを見た。黒い海に、船の灯りがいくつか浮かんでいた。
「もしどこかで生きていたとして、手紙を書いていたとして、届いていないだけかもしれない」
「そうかもしれない」
「そういう手紙って、どこに行くの。届かなかった手紙は」
「郵便局の倉庫に保管される。宛先不明で戻ってきた手紙、届けられなかった手紙。一定期間保管して、それ以上は処分されることもある」
「処分」
「全ての手紙を永遠に保管することはできない」
ミリアは窓から離れて、ベッドに腰を下ろした。
「港町の郵便局に、未配達の手紙の倉庫はある?」
「あるはずだ。どの局にもある」
「そこに、エリスちゃんのお父さんからの手紙があるかもしれない」
ポストは少し黙った。
「あるかもしれない。ないかもしれない。しかしお前は何をしようとしている」
「明日、局に寄ってみようと思う」
「それはお前の仕事の範囲外だ」
「郵便魔女は、届けるのが仕事でしょ」
「届け先が決まっている手紙を届けるのが仕事だ。届け先を探して手紙を発掘するのは仕事の範囲外だ」
「でも」
「でも、何だ」
ミリアはポストを見た。古い革鞄が、宿の灯りの中で鈍く光っている。
「あの子は八ヶ月待っている」
「知っている」
「手紙があるかもしれないのに、確認しないのは」
「魔女の仕事は届けるだけだ、と私は何度も言った」
「うん。でも」
ミリアは言葉を探した。
「届けるために、見つける必要があることもあるんじゃないか、って」
ポストはしばらく黙っていた。
港の音がした。波の音と、船が桟橋に当たる低い音。遠くで誰かが話している声。
「明日の朝に動け。帰りの時間に余裕はない」
ポストにゆっくりとした口調で言われ、ミリアは少し笑った。
「それ、調べてもいいってこと?」
「そうは言っていない。ただ、明日の朝に動けと言った」
翌朝、ミリアは港町の郵便局へ行った。
局は港の近くにある石造りの建物だった。朝早かったが、郵便局は開いていた。中年の男性職員が対応してくれた。
「未配達郵便の確認をしたいんですが。北方十三分局のミリア・ヴェルンです」
職員は少し怪訝な顔をした。
「未配達郵便ですか。それはどういった」
「港町に、ヴァレン家という家があります。そこのお父さん、航海士の方が八ヶ月前の嵐で行方不明になった。もし別の港から手紙を出していて、届けられないまま保管されている可能性があるかと思って」
「差出人名は分かりますか」
「ヴァレン、という名前だと思います。航海士で」
職員は少し考えてから、「少々お待ちを」と奥に入った。
ミリアはカウンターの前で待った。ポストを前に抱えて、窓の外の港を見た。
朝の光の中で、船が静かに浮かんでいた。
しばらくして職員が戻ってきた。
手に、封筒を持っていた。
「ありました。三通。宛先は同じヴァレン家ですが、住所の番地が一つ違っていて、配達不能で戻ってきていたものです」
ミリアは封筒を見た。
三通。
差出人の名前が書いてあった。「ヴァレン・ハンス」。
ミリアは息を一度止めた。
「届けてもいいですか、私が」
「本来の手続きとしては……」
職員は言いかけた。しかし封筒を見て、少し考えてから続けた。
「書いて下さい、受取確認書に。分局に書類を回します」
「ありがとうございます」
ヴァレン家の扉をノックした。
エリスが出てきた。学校に行く前の時間らしく、鞄を持っていた。
ミリアを見て、首を傾けた。
「また来たの?」
「昨日の続きで。少しだけいいですか」
「お母さん、もう仕事に行った」
「エリスさんに渡したくて」
ミリアは三通の封筒を取り出した。
エリスの目が止まった。
「これは」
「港の郵便局に、未配達で保管されていました。住所が一番地違っていて、戻ってきていたそうです」
エリスは動かなかった。
封筒を見たまま、動かなかった。
ミリアは封筒を差し出した。
エリスはゆっくりと手を伸ばした。両手で受け取った。昨日よりもゆっくりと、もっと大切に、両手で包むように受け取った。
表の差出人名を見た。
「お父さんの字だ」
エリスの声が震えていた。
「三通あります。日付を見ると、二ヶ月ごとに書いたようです」
エリスは封筒を胸に押し当てた。そのまま動かなかった。
泣くかと思ったが、泣かなかった。ただ目を閉じて、封筒を胸に当てたまま立っていた。
少しして、エリスが尋ねた。
「生きてる?」
ミリアには分からなかった。
「手紙の中身は、私には」
「読んでいい?今すぐ」
「もちろんです」
エリスは扉の脇に腰を下ろした。石の段に座って、最初の封筒を開けた。丁寧に、破かないように開けた。
ミリアは少し離れたところに立って待った。
エリスは読んだ。
読みながら泣いた。今度は声を出して泣いた。子どもの泣き声で、しゃくり上げながら読んだ。
読み終えると、顔を上げた。泣いた顔のまま、しかし笑っていた。
「生きてる。南の港にいる。帰れなかったって。でも帰るって書いてある」
「よかった」
「三通目の日付が、二ヶ月前。だからもうすぐ帰ってくるかもしれない」
エリスは残りの二通も開けた。読みながら、ずっと泣いていた。
ミリアも何かが胸に来ていた。泣くほどではなかったが、目の奥が温かくなる感覚があった。
ポストが背中で小さく言った。
「ほらな」
「うん」
「手紙は遅れて届く」
「届いた」
港町を飛び立つ時、エリスが桟橋まで見送りに来た。
朝の光の中で、エリスは三通の封筒を胸に抱えて立っていた。目が赤かった。しかし顔は昨日と全然違った。
「ありがとう」
「届けるのが仕事なので」
「でも倉庫まで探してくれたのは仕事じゃないでしょ」
ミリアは少し迷ってから、
「そうですね」と言った。
「また来る?」
「この路線に手紙があれば来ます」
「お父さんが帰ってきたら、知らせたい」
「その時は、ロアンさんの局に手紙を出して下さい」
エリスはうなずいた。
ミリアは飛び上がった。高度を上げながら、桟橋を見下ろした。エリスが手を振っていた。三通の封筒を持ったまま、力いっぱい手を振っていた。
風が来た。
塩の匂いのする、海からの風だった。
「ポスト」
「なんだ」
「仕事の範囲外だったけど」
「そうだな」
「よかった」
ポストは少し間を置いた。
「ロアンには内緒にしておけ」
「怒りますか」
「怒らない。ただ、何も言わず笑う。それが一番困る」
ミリアは笑った。
北へ向けて飛んだ。海が後ろに遠ざかる。塩の匂いが薄れ、代わりに草と土の匂いが来る。
空は高く、青く、どこまでも続いていた。




