第四章 空の帰り道
郵便魔女の仕事には、移動の時間が長い。
配達そのものは短い。降り立って、封筒を渡して、受け取られて、飛び立つ。長くても数分だ。しかし次の届け先までの空路が長い。山を越え、森を渡り、川に沿って飛ぶ。その間、ミリアとポストの二人きりになる。
ロアンは一緒に飛ばなくなっていた。
三日目から、完全に一人で路線を回るようになった。ロアンは局に残り、郵便物の受け取りと仕分けをしている。ミリアが戻ると、明日の分が整理されて机の上に並んでいた。
何も言わなかった。よかったとも、問題があったとも。
ただ飯を出した。
その日の午前中、ミリアは東の路線を飛んでいた。
空は高く、雲が少なかった。秋の始まりの空で、青の色が深い。夏より空気が澄んでいて、遠くの山の輪郭がくっきりと見えた。
配達は順調だった。三通届けて、残りは二通と小包一つ。午後には局に戻れる。
何も急ぐことのない空路で、ミリアは箒の上でゆっくりと背を伸ばした。前傾姿勢が続くと背中が固まる。伸びをすると、ポストが揺れた。
「揺らすな」
「揺れただけで揺らしてない」
「同じことだ」
ミリアは前を向いた。眼下に広がる景色を見た。
森が続いていた。北方の森は針葉樹が多く、緑が濃い。その中を細い川が走っていた。光を受けて、川面が白く光っている。川沿いに道が一本あり、荷馬車が一台ゆっくり進んでいた。馬が一頭、荷を引いている。
小さな世界だ、と思った。
空から見ると、地上のあらゆるものが小さく見える。家も、人も、馬も。それぞれが自分の場所で動いている。荷馬車は荷馬車の目的地へ向かい、川は川の流れる方向へ流れる。
「ポスト」
「なんだ」
「郵便魔女って、今この国に何人いるの」
「正確な数は知らない。百人前後だろう。主要な都市に局があって、そこに一人から数人の魔女がいる。僻地の分局は一人のことが多い」
「ロアンさんみたいに」
「そうだ」
「百人で、この国全体の手紙を運んでいるの」
「飛べる魔女は少ない。街道を使う郵便馬車もある。手紙によって使い分けている。急ぎの手紙、遠い場所への手紙、特別な配慮が必要な手紙、そういうものが魔女の仕事になる」
ミリアは川を見ながら尋ねた。
「魔女郵便制度って、いつからあるの?」
「古い。百年以上前からある」
「百年」
「最初は王族や貴族だけが使える制度だった。戦争の指令を伝えるために使われた。それが民間に広がった。今は誰でも使える」
「戦争のために始まったんだ」
「多くの制度がそうだ。しかし今は違う使い方をしている。それでいい」
ミリアは少し考えた。
「ポストは百年以上前から存在しているの?」
間があった。
「そんなに古くはない」
「じゃあどのくらい」
「必要なことではない」
話を終わらせる言い方だった。ミリアは深く追わなかった。ポストには聞いても答えない話題がいくつかある。
自分の年齢と、誰が最初に使っていたかと、ロアンとどういう関係なのか。
いつか分かるかもしれない、と思っていた。
昼過ぎの空路で、ミリアは少し遠回りをした。
理由は単純で、川の上流がどうなっているのか気になったからだ。路線から外れない範囲で、川に沿って少し北へ飛んだ。
川が細くなっていった。森が深くなった。人の気配が薄くなる。
上流に小さな滝があった。
高さは十メートルほど。岩の間から白い水が落ちていた。滝壺には深い緑色の水が溜まっていて、その周囲に苔が生えていた。人がいなかった。道もなかった。ただ滝と水と苔と、それを取り巻く森があった。
ミリアはその上空で止まった。
「きれい」
「寄り道するな」
「路線を外れていない」
「外れていない、というのは路線の近くにいるということで、路線を飛んでいるということではない」
「細かい」
「郵便の仕事は時間通りに動く。どこかで止まれば次の配達が遅れる。受取人が待っている」
ミリアはもう少しだけ滝を見た。水の落ちる音が上まで届いた。涼しかった。
「ポスト、こういう場所に郵便が届くことってある?」
「ない。住所がなければ届けられない」
「じゃあ、住所のない人には手紙が届かないんだ」
「届けようがない」
「でもその人にも、手紙を受け取りたい気持ちはあるかもしれない」
ポストは少し黙った。
「住所のない人間は少ない。旅をしている者、逃げている者、選んで離れた者。そういう人間に届けた記録も、昔はあった」
「どうやって」
「会いに行く。探して届ける」
「そんなことができるの?」
「今はほとんどしない。費用と時間がかかりすぎる。しかし昔の魔女はやった者もいた」
ミリアは滝から離れた。路線へ戻る。
「ロアンさんはやったことがある?」
「あの人のことは、あの人に聞け」
午後の配達で、ミリアは一つ気づいたことがあった。
手紙を渡す時の受取人の手だ。
今日だけで五人の受取人がいた。その全員が、手紙を受け取る時、少しだけ両手で包むような受け方をした。人によって度合いが違ったが、全員がそうした。片手でひょいと取る人は一人もいなかった。
封筒を、一瞬だが、大切に扱った。
「ポスト」
「なんだ」
「みんな手紙を受け取る時、両手で持つね」
「そうか」
「意識しているの? みんな」
「していないだろう。自然にそうなる」
「なんで?」
「大切なものは両手で持つものだからだ。子どもでも知っている」
ミリアは自分の手袋の手を見た。今日も五通届けた。五人の手に封筒が渡った。それぞれの手が、それぞれの受け方で受け取った。
「私は手袋をしているから、手紙を渡す時少し不便なんだけど」
「不便か」
「直接渡せない感じがして。なんか、ワンクッションある感じ」
「手袋をはめているからといって、届けたことに変わりはない」
「そうなんだけど、もっと上手く渡せたらって思う」
「上手く渡すとはどういうことだ」
「直接、手から手へ渡す感じ」
「お前の能力がなければそうできたのか」
「できた、と思う」
「そうか」
ポストはそれ以上言わなかった。ミリアも続けなかった。
風が出てきた。ロアンが言っていた、昼前に強くなる西風だ。午後になってもまだ残っていた。向かい風になると速度が落ちる。ミリアは少し高度を上げ、風の弱い層を探した。
高いところへ行くと、景色がさらに広がった。
東に海が見えた。細い銀色の線が、地平の向こうにあった。
「海だ」
ミリアは呟く。
「見えたか」
「見えた。来て初めて見えた。いつもは低く飛んでいるから」
「北方の空から晴れた日に高度を上げると見える。この国の東端まで飛べば半日かかるが」
「行ったことある?」
「ある」
「ポストが?」
「私を持っていた者が行ったということだ」
ミリアは海の方角を見た。銀の線は細く、風があるせいか少しかすんでいた。
「この国の外にも、郵便制度はあるの?」
「ある。制度の形は違うが、どこの国でも手紙は届ける必要がある。国境を越える手紙は、国境の検問で確認される。戦時には止まることもある」
「今、戦争をしている国はある?」
ポストはすぐに答えなかった。
「南の方で、二つの国が緊張している。今すぐ戦争というわけではないが」
「手紙は届くの、そこには」
「今のところは届く」
今のところ、という言い方が少し引っかかった。しかしミリアは深く聞かなかった。
局への帰り道、夕日が西に傾いた頃のことだった。
いつもの路線を飛んでいて、下に見慣れた森が来て、その向こうにロアンの局が見えてくる。毎日の帰り道で、もう目を閉じていても分かるくらいだった。
その森の上を飛んでいた時、ポストが言った。
「手紙というものはな」
唐突だった。ミリアは前を向いたまま聞いた。
「なに」
「急いで届くこともある。遅れて届くこともある。嵐で止まることもある。戦争で止まることもある。差出人が死んでも残ることもある。受取人が引っ越して届かないこともある」
「うん」
「しかし書かれた時点で、その手紙には何かが入っている。誰かの気持ちが入っている。それは時間が経っても消えない」
ミリアは黙って聞いた。
「研究者への手紙もそうだったな。半年前に書かれて、今日届いた。時間が経っても、あの奥さんの気持ちはそのままそこにあった」
「あった」
「それが手紙だ。時間を越える」
ミリアは考えた。
「じゃあ、手紙って、書いた人がいつまでもそこにいるみたいなものだ」
「そうも言える」
「受取人が百年後に読んでも、書いた人の気持ちがある」
「そうだ」
「それはすごいことだね」
「当たり前のことだ。しかし、当たり前のことがすごいことでもある」
局が見えてきた。夕暮れの光の中で、古い木造の建物が橙色に染まっていた。ロアンが縁側にいた。今日も外に出ていた。空を見ていた。
降り立つと、ロアンが振り向いた。
「全部届けたか」
「はい」
「問題はなかったか」
「滝に少し寄り道しました」
ロアンは特に怒った顔をしなかった。
「北の上流の滝か」
「はい。きれいでした」
「わしも若い頃はよく寄った。今は足腰が落ちたから降りていけない。上から見るだけだ」
「上からでも十分きれいですよ」
「そうだな」
ロアンは空を見た。ミリアも見た。
西の空が赤く、東の空が深い青になっている。その境目の空が、紫がかった不思議な色をしていた。毎日見ているはずなのに、同じ色が二度来ない。
「ロアンさん、昔、住所のない人に手紙を届けたことがありますか?」
ロアンは少し間を置いた。
「ある」
「どんな人でしたか?」
「逃げていた人だ。遠い話だ」
「届きましたか」
「届いた」
それ以上は話さなかった。ミリアも訊かなかった。
夕風が吹いた。
「飯にする。今日は麦と根菜の炒め物だ」
ロアンが立ち上がった。
「また質素な」
「質素が体に良い」
「昨日も一昨日も質素でした」
「毎日体に良い」
ロアンは扉を開けて中に入った。ミリアはポストを持って後に続いた。
扉を閉めながら、もう一度だけ外を見た。
空の紫がかった色がまだ残っていた。
今日、海が見えた。南の国の緊張を聞いた。住所のない人へ届いた手紙の話を聞いた。滝があった。受取人たちが両手で手紙を受け取った。
たくさんのことがあった。
配達は六時間ほどだったのに、ずいぶん長い一日のように感じた。
「ポスト」
ミリアは部屋に入りながら呼びかける。
「なんだ」
「今日は楽しかった」
ポストは少し黙った。
「そうか」
「明日も飛ぶのが楽しみ」
「手紙が待っている」
「うん、届けに行く」
かまどの火が部屋を温めていた。ロアンが無言で鍋をかき混ぜていた。窓の外の空が少しずつ暗くなって、最初の星が見え始めていた。
どこかに、誰かが書いた手紙がある。
明日、それを届ける。
それだけのことが、今のミリアには十分だった。




