第三章 山の研究者
翌朝、一人で飛んだ。ロアンは局の前までは出てきた。見送るわけでも、最後の指示を出すわけでもなく、ただかまどの火を確認しながら外の空気を吸いに出てきただけ、という様子だった。ミリアが箒にまたがってポストを背負うと、ロアンは一度だけこちらを見て、それから空を見上げた。
「風は西から。昼前に少し強くなる」
それだけ言って、中に戻った。
ミリアは空へ飛んだ。
昨日と同じ路線、同じ順番。地図は上着の内ポケットに入れてある。今日の配達は五通と小包一つ。朝の仕分けはミリアが一人でやった。ロアンは手を出さなかった。順番を間違えていても何も言わなかった。間違えていなかったのかもしれないし、間違えても黙っていたのかもしれない。
北方の空は今日も澄んでいた。山が近かった。分局のある村から北東の方角に、稜線がはっきりと見える山脈があり、その手前の斜面に小さな集落が点在している。昨日の路線はそこを通らなかったが、今日の配達にはその山沿いの集落への一通が含まれていた。
昨日通らなかった道だ。地図を確認した。山の斜面を上がっていくと、小さな建物の記号がある。集落ではなく、一軒だけ離れた場所に建つ建物。地図には何の説明もなかった。
「ポスト」
「なんだ」
「山の手前の、一軒だけある建物、地図に何も書いてないんだけど」
「竜研究所だ」
「竜の研究?」
「この山には竜が棲んでいる。正確には棲んでいたと言うべきか。数が減った。昔は麓の村が竜に牛を献上していたが、今はそれも途絶えた。研究者が一人でその記録をしている」
「竜がいるんだ」
「お前は驚かないのか」
「魔女がいる世界だから、竜もいるかなと思って」
ポストは少し間を置いてから、「そうだな」と言った。
最初の三通を届けてから、山へ向かった。高度を上げるにつれて気温が下がった。上着の前を合わせ、手袋を確認した。革手袋は今日も問題なかった。朝から三通届けて、一度も記憶は見えていない。手袋がずれなければ大丈夫だ。
山の斜面は木が深かった。針葉樹の林が続き、その間を獣道のような細い筋が走っている。人が歩く道というよりも、何か大きなものが通った跡のような道だった。
「竜の道かぁ」
「かもしれない」
山腹に、石造りの小さな建物が見えてきた。二階建てで、一階部分の窓が大きく開いている。屋根には観測用らしい筒が設置されていた。周囲は開けており、山の稜線が正面によく見えた。降り立った時、建物の中から音がした。何かを引きずる音、紙の束が倒れる音。それからしばらく静かになり、男が出てきた。
五十代くらいの男だった。背が高く、白髪交じりの無精ひげ、丸眼鏡をかけていた。着ているものはよれよれで、右肘に染みがついている。右手にはペンを持ったままだった。
「郵便か」
男の声は低く、感情がなかった。驚いている様子でも、喜んでいる様子でもない。ただ確認する、という声だった。
「はい。一通お届けに来ました。ヴェルナー・クロイツ様でいらっしゃいますか」
「そうだ」
ミリアはポストから封筒を取り出した。取り出した瞬間、手袋の端が封筒の角に引っかかった。ほんの一瞬だった。手袋の革が薄く折れて、指の側面が封筒に触れた。
記憶が来た。
女の人がいた。
テーブルの前に座って、ペンを走らせている。部屋は小さく、窓から光が入っていた。窓の外に山が見えた。この山だ、とミリアはどこかで思った。
女の人の横顔は穏やかで、しかし疲れていた。手が細かった。ペンを持つ右手が、ゆっくりと動いている。急いでいない。丁寧に、一文字ずつ書いていた。
感情が流れ込んできた。
愛情だった。ミリアには分かった。誰かに向けた、長年かけて積み重なった愛情。それと一緒に、別の感情も来た。
痛みだった。
身体の痛みではない。何かを残していかなければならない者の、その痛みだった。
書きながら女の人は時々止まった。窓の外を見た。山を見てから再びペンを動かした。
もう少しで書き終わる、という気配があった。最後の一行を書く時、女の人の手が少し震えた。震えを堪えながら書いた。書き終えた。
ペンを置いた。
ゆっくりと紙を折った。封筒に入れた。
それから一度だけ、封筒をそっと両手に包んだ。
ミリアは手袋を直した。
一秒にも満たない接触だったが、全身に残像があった。女の人の横顔。震える手。山を見た目。
ヴェルナーはミリアが封筒を差し出すのを待っていた。
ミリアは渡した。
ヴェルナーは封筒の表書きを見た。
その瞬間、ヴェルナーの表情が変わった。
感情のなかった顔に、何かが滲んだ。表情と呼べるほど大きな変化ではなかった。眉が少し動いた。口が少し引き結ばれた。丸眼鏡の奥の目が、封筒の文字を一度、二度と読んだ。
「……筆跡が」
ヴェルナーは小声で呟く。
ミリアには聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
ヴェルナーは封筒を持ったまま動かなかった。ミリアは一歩引いて、離れた場所に立った。急かすつもりはなかった。ただ、その場から消えることもできなかった。
ヴェルナーがゆっくりと封を破いた。
中の紙を取り出し、読み始めた。
どのくらいの時間が経ったか分からない。山の風が吹いた。針葉樹の梢が揺れた。ヴェルナーはその風の中で、紙を持ったまま立っていた。
ヴェルナーは紙を畳んで、封筒に戻すと、ゆっくりと胸のポケットに入れた。
もう一度、手紙を見た。
泣いていた。
声を出して泣くわけではなかった。涙が一筋、眼鏡の縁を伝って落ちた。ヴェルナーはそれを拭わなかった。ただ山の方を向いて、稜線を見ていた。
ミリアは何も言えなかった。
ポストも黙っていた。
しばらくして、ヴェルナーは伝えた。
「妻が書いた手紙だ」
「……はい」
「半年前に死んだ」
ミリアは答えなかった。答え方が分からなかった。
「俺が竜の研究をしていることを、妻はあまり好きではなかった。こんな山奥に籠って、竜などという、会えるかどうかも分からないものを追いかけているとな」
ヴェルナーは眼鏡を外して、袖で拭いた。そしてかけ直した。
「しかし何も言わなかった。ずっと何も言わなかった。文句も、苦情も。ただここで一緒に暮らした」
「……」
「書いていた時の様子は、分かるのか?」
「はい」
「教えてくれるか」
ミリアは少し迷った。
郵便魔女の仕事は届けることだ。とロアンも、ポストも言っていた。手紙の中身に踏み込むことは仕事ではない。
しかしミリアには見えていた。
女の人が書いていた。震える手で、最後の一行を書いていた。
「私には、手紙に触れると記憶が見える能力があります。取り出す時に少し触れてしまって」
ヴェルナーは黙って聞いていた。
「書いている場面が見えました。窓の外に山が見える場所で、丁寧に書いていました。最後の一行を書く時、少し手が震えていました。でも書き終えて、封筒に入れて」
ミリアは少し止まった。
「封筒を、両手で包んでいました。しばらくの間」
ヴェルナーは山を見ていた。
「内容までは分かりません。でも書いている時の気持ちは」
「分かるのか」
「愛情でした」
ヴェルナーは何も言わなかった。
「それと、残していかなければならないことへの、痛みのような気持ちも」
風が吹いた。
ヴェルナーは一度だけ、深く息を吸った。
「研究を続けてくれ、と書いてあった。竜を見つけるまで諦めるな、と」
「……」
「俺が研究をやめようとしていたのを、知っていたのだろう。妻が死んで、もう何のために続けるのか分からなくなって、道具を片付け始めていた」
ヴェルナーは山の稜線を見た。
「あの山のどこかに、まだ竜がいるかもしれない。妻はそれを信じていた。俺以上に」
ミリアはヴェルナーの横顔を見た。
「続けますか、研究を」
ヴェルナーはゆっくりとミリアを見た。
「続ける」
短い言葉だったが、揺るぎなかった。さっきまでの声とは違う重さがあった。何かが決まった、という声だった。
「妻に言われたからではない。妻が俺を信じていたのが分かったから、俺も俺を信じてみようと思う」
飛び立つ時、ヴェルナーは建物の前に立って見送った。
ミリアは高度を上げながら、山の稜線を見た。どこかにいるかもしれない竜を、ヴェルナーは何年も待っている。妻が死んでもやめなかった。やめようとしたが、やめなかった。一通の手紙で、やめなかった。
「ポスト」
「なんだ」
「手紙が届いて、よかった」
「そうだな」
「半年前に亡くなった人の手紙が、今日届いた。なんで今日なの?」
「さあな、遅れたのかもしれない。あの人に会う前に郵便局に別の経路で届いていて、転々として、最終的に今日の私たちのところに来たのかもしれない」
「遅れて届いた手紙」
「手紙はよく遅れる。嵐の時、戦争の時、届け先が変わった時。それでも届けばいい」
ミリアは山を見た。
ヴェルナーの姿はもう小さくなっていた。建物の前に立って、山を見上げているのが見えた。
「ロアンさんが言ってた。手紙は遅れて届くこともあるって」
「あの人はよく知っている」
「経験から?」
「長く届けてきたからだ」
ミリアは残りの配達へ向かいながら、今朝見た記憶を思い返した。女の人が封筒を両手に包んでいた場面。届け先の顔を思い浮かべながら、どうか届きますようにと思いながら包んでいたのかもしれない。
手紙を書く人は、読む人の顔を思いながら書く。
ミリアはそれを今日初めて、記憶として見た。頭で知っていたことを、感情として知った。
手袋の端が折れていた。直しながら、しかしミリアは今日の接触を後悔していなかった。
夕方、局に戻ると、ロアンが縁側に座っていた。
珍しく外にいた。空を見ていた。
ミリアが降り立つと、ロアンはこちらを見た。
「全部届けたか」
「はい。山の研究者への一通も」
「ヴェルナーか」
「知ってるんですか?」
「長く担当していた。わしには遠くなった」
ロアンは縁側に視線を戻した。夕空は今日も橙色だった。
「どんな様子だった」
ミリアはポストを下ろして、隣に座った。縁側の板が古くて、少し軋んだ。
「手紙を読んで、泣いていました。声を出さずに」
「そうか」
「奥さんが書いた手紙だって。半年前に亡くなったって」
「知っている」
「研究を続けてくれって書いてあったそうです。続けると言っていました」
ロアンは何も言わなかった。
しばらく二人で夕空を見ていた。
「ロアンさん」
「なんだ」
「手紙を届けて、人が変わるのを見ると、どんな気持ちになりますか?」
ロアンは少し考えた。
「特別な気持ちにはならない」
「そうですか」
「ただ、届けてよかったとは思う。毎回、それだけだ」
「三十年、毎回そう思ってきたんですか」
「さあな。最初の頃は覚えていない」
ロアンは立ち上がった。膝を軽く叩き、関節を鳴らしてから扉を開けた。
「飯にする。今日は豆のスープだ」
中に入っていった。
ミリアはもう少し縁側に残った。
ポストが膝の上でゆっくりと言った。
「お前は今日、何かを知った」
「うん」
「何を知った」
「手紙は、書いた人が死んでも届く、ということ」
「それだけか」
ミリアは夕空を見た。最初の星が出始めていた。昨日と同じ場所に、同じ星が出ている。
「書いた人の気持ちも一緒に届く、ということ」
「そうだな」
「だから重いんだ、手紙は」
ポストは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
ミリアは立ち上がった。ポストを持ち上げると、やはり重かった。いつも重い。空っぽでも重い。何百通もの手紙を見てきた古い鞄の、その重さ。
扉を開けると、豆のスープの匂いがした。




