最終章 空を渡る魔女
秋になった。北方の秋は短い。夏の緑が色づき始めたと思ったら、あっという間に赤と黄に変わる。その鮮やかさが二週間ほど続いて、それから葉が落ちる。冬になる前の、短い贈り物みたいな季節だった。ミリアがこの分局に来て、一年が経とうとしていた。
九月の終わりに、ロアンが言っていた。
「お前に話したいことがある」
夕飯の後だった。かまどの前で茶を飲んでいた。いつもの時間だった。
「はい」
「ポストのことだ」
ミリアはポストを見た。古い革鞄が、机の上で静かにしていた。
「ポストのこと?」
「そのことを話す前に、一つ聞く。お前は今、一人前の郵便魔女だと思うか」
ミリアは少し考えた。
「一人前かどうかは、まだ分からないです。でも半人前ではなくなったと思っている」
「そうか」
ロアンはそう言って、ポストに向けて尋ねた。
「どう思う」
「立派な魔女になった」
ミリアは少し驚いた。
ポストがそういう言い方をするのは、初めてだった。半人前だと言い続けていたポストが、立派な魔女と言った。
「ポスト」
「なんだ」
「今、立派な魔女になったって言った」
「言った」
「最初に来た時、半人前だと言っていた」
「言った。今は違う」
「いつから変わった?」
「峠を越えた時。怖い、しかし届けなければならない、という感情を自分のものにした時。それから少しずつ変わって、あの春の日、お前が言った時、決まった」
「あの春の日?」
「届けたいから届ける、と言った時」
ミリアは少し間を置いた。
「その時から?」
「その時から半人前ではなくなった」
「なんで今まで言わなかったの?」
「まだ旅が終わっていなかったから。言葉にするのは、全部を見てからでいい。お前は今日、本当の一人前になった」
ロアンが茶を飲んだ。
「ポストのことを話す。お前には話す時期だ」
ロアンはゆっくりと話し始めた。
「その鞄は、元はわしの祖母の鞄だった」
ミリアは息を止めた。
「祖母も郵便魔女だった。百年近く前の話だ。この国に郵便制度ができた最初の頃に飛んでいた魔女だった」
「百年前」
「鞄に古い魔法が宿っている。祖母が長年使ったことで、鞄に記憶と意志が積み重なった。最初にポストが声を出したのは、祖母が死んだ後だったそうだ」
ミリアはポストを見た。
「ポストは、祖母の鞄だった。わしが郵便魔女になった時、祖母からの形見として受け取った。何十年も一緒に飛んだ」
「ロアンさんと一緒に飛んでいた」
「そうだ。しかし足腰が弱くなって、遠くへ飛べなくなった。ポストには、もっと広い空を飛べる魔女が必要だ、とわしは思っていた」
「それで私に渡した」
「最初の日に、お前が重いと言った。手袋越しでも感じた。同じ感応の能力を持つお前が来た。それでいいと思った」
ミリアはポストを持った。
重かった。いつも重かった。
百年分の手紙の重さだった。
「……また、空を渡れると思った」
ポストが言った。
「ポスト」
「なんだ」
「百年近く、色々な人が使ってきたんだね」
「そうだ」
「ロアンさんの祖母から、ロアンさんへ、そして私へ」
「そうだ」
「それで重かったんだ。最初から」
「最初から重かった。しかしお前は逃げなかった」
「逃げるという選択肢はなかったし」
「あった最初の日、重いと感じた時、置いていくこともできた。しかし持って帰った。それがお前の最初の選択だった」
ミリアは一年前の夜を思い出した。
初めてポストを持ち上げた夜。重かった。空っぽの鞄なのに重かった。
あの重さが、百年分の重さだったとは知らなかった。
しかし逃げなかった。持って帰った。
「ポスト、ロアンさんの祖母のことを、覚えてる?」
「覚えている。初めて飛んだ日のことも。最後に飛んだ日のことも」
「どんな人だったの?」
「強い人だった。お前に似ていた」
「私に?」
「怖くても飛んだ。迷いながら届けた。手紙の重さを感じた。そういう人だった」
ミリアは少し間を置いた。
「その人が最初に使って、ロアンさんが使って、今私が使っている」
「そうだ」
「郵便魔女が三人、繋がっている」
「繋がっている」
ロアンが立ち上がった。二階へ向かいながら、扉の前で止まった。振り向かずに言った。
「ポストは、お前のものだ。もらってくれ」
「ロアンさんの鞄じゃないですか」
「わしはもう遠くへは飛べない。近場の配達なら箒に鞄を括りつければいい。ポストは広い空が必要だ。それに、祖母の鞄がこの分局の倉庫で眠っているのは、よくない」
「でも」
「もらってくれ。それが一番いい」
扉が閉まった。
二階への足音が聞こえた。ミリアはポストを持ったまま、しばらく動かなかった。
「ポスト」
「なんだ」
「もらっていいの?」
「私が決めることではない。しかしロアンがそう言った。そして私も、お前と飛びたいと思っている」
「それは」
「私の意見だ。珍しいだろうが」
「珍しい」
「一年飛んだ。お前と飛ぶのは、悪くなかった」
「悪くなかった、という言い方だね」
「いい、と言えばいいか」
「その方がいい」
「では、お前と飛ぶのは、よかった」
ミリアは笑った。
「私も、ポストと飛ぶのはよかった」
「ならいい」
十月に入った。南からの通達が来た。和平条約が正式に締結された。両国の代表が署名した。国境の緊張が解消される。郵便配達の制限が全面解除される。
ミリアは通達を読んで、机の上に置いた。
ロアンが棚の整理をしながら言った。
「南への配達が再開できる」
「はい」
「お前の路線が増える」
「増やします」
「長距離も出てくる」
「飛びます」
ロアンは棚の整理を続けた。
ミリアはポストを見た。
「ポスト、南への路線も飛べる」
「そうだな」
「アルトさんの届け先には、もう届けられないけど」
「そうだ」
「セレナさんに、何か届けられる日が来るかもしれない」
「来るかもしれない」
「その日が来たら、届けに行く」
「そうだろうな」
十月の末に、もう一通、手紙が来た。
差出人はセレナ・フォン・ライゼンだった。
ミリアは封を切った。読んだ。
ミリアさんへ。
和平条約が締結されました。あなたも知っていると思います。
アルトの署名した草稿が、最後まで交渉の基礎になりました。アルトの意志が、ここまで届きました。
一つ報告したいことがあります。
私は来年、この国へ和平の使節として来ることになりました。外交の仕事です。アルトがしようとしていたことを、私が続けます。
北方を通ることがあれば、あなたに会いに行きたいと思っています。
もし手紙を届ける機会があれば、また頼みたいと思っています。
手紙は遅れても届く、とアルトから聞きました。あなたからそう教わった、と。
そうだといいと思います。遅れても、届けば。
セレナ
ミリアは手紙を読み終えた。
手紙は遅れても届く。アルトがそれをセレナに伝えていた。ミリアから教わった言葉として。しかしその言葉は、もともとロアンの言葉だった。ポストの言葉だった。郵便魔女たちが百年かけて積み重ねてきた言葉だった。
それがミリアを通じてアルトに届き、アルトからセレナに届き、今ミリアの手に戻ってきた。
「ポスト」
「なんだ」
「手紙は遅れても届く、という言葉が、一番遠回りして届いてきた」
「そうだな」
「ロアンさんからポストへ、ポストからミリアへ、ミリアからアルトへ、アルトからセレナへ、セレナからミリアへ」
「長い旅だ」
「でも届いた」
「届いた」
十一月になった。北方の冬が来る前の、最後の穏やかな日だった。
ロアンが縁側に出ていた。いつものように空を見ていた。しかし今日は少し様子が違った。遠くを見ているのではなく近くを見ていた。局の前の木が、最後の葉を落とすのを見ていた。
「ロアンさん」
ミリアは隣に立った。
「なんだ」
「一年前の今頃、ここに来ました」
「そうだな」
「あの時、落第した魔女が来た、と思いましたか」
「思わなかった。来た、と思っただけだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
ミリアは木を見た。最後の一枚の葉が、風もないのにゆっくり落ちていった。
「ロアンさん、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「最初に来た日、倉庫の手紙を整理しろと言いましたね。私がヒントになったと言って」
「そうだ」
「あれは、最初から分かっていたんじゃないですか」
「何が」
「ロアン宛の手紙が倉庫にあることを」
ロアンは少し間を置いた。
「あったかもしれない、とは思っていた。しかし自分では探せなかった」
「なぜ」
「怖かった」
ミリアはロアンを見た。
「差出人が誰か、分かっていましたか?」
「分かっていた」
「誰から」
「祖母からだ。祖母が死ぬ前に、わしに手紙を書いたと聞いていた。しかし届いたという記憶がなかった。ずっと気になっていたが、探せなかった」
「怖くて」
「そうだ。届いていなければそれまでのことだ、と思うこともできた。しかし届いていたとしたら、倉庫で眠っていたとしたら、それは辛いことだとも思った」
「それで探せなかった」
「お前が来た。お前が港町で手紙を探した。それを見て、わしも踏ん切りがついた」
ミリアは少し黙った。
「手紙には何が書いてありましたか、聞いてもいいですか?」
ロアンはしばらく、木の最後の葉が落ちた場所を見ていた。
「飛び続けろ、と書いてあった。空が向いているから、飛び続けろ、と。それだけだった」
ロアンはすぐには続きを読まなかった。
指先が、紙の端を押さえたまま止まっていた。
「……短かった」
少し間を置いて、ロアンは言った。
「しかし、それで十分だった」
「……待っていたんですね」
「そうだな。遅れたが、よかった」
その夜、ミリアは机の上にポストを置いて、一年間を振り返った。
最初の配達。ヴェルナーへの手紙。エリスの父親の手紙。カレンへの手紙。保留の手紙、国境を越えた配達、峠を越えた配達。アルトへの手紙、二度。アルトの死。セレナからの手紙。和平条約の締結。多くのことがあった。多くの手紙を届けた。多くの人の顔を見た。
「ポスト」
「なんだ」
「一年間、ありがとう」
「礼を言うことではない」
「言いたいから言う」
ポストは何も言わなかった。
「ポストと飛んで、色々なことが分かった。手紙の重さが分かった。届けることの意味が分かった。迷いながら飛ぶことも覚えた」
「そうだな」
「全部、ポストがいたから分かったことだ」
「ロアンもいた」
「ロアンさんもいた。受取人たちもいた。エリスちゃんも、ヴェルナーさんも、カレンさんも、アルトさんも、王女さんも、みんないた」
「そうだ」
「みんなから、手紙の先で何かが起きることを教わった」
「そうだな」
「それが全部、ここでの一年だった」
翌朝、木曜日だった。本局便が来た。ミリアは仕分けをした。北の集落への二通、東の農家への一通、山の研究者への一通。それと、南方への手紙が二通。和平条約の締結で、南方への配達が再開されていた。仕分けを終えた時、ロアンが言った。
「ミリア」
「はい」
「一つ話がある」
ミリアは手を止めた。
「わしはそろそろ、この分局を引退する」
穏やかな声だった。
「いつですか」
「年内だ。本局に後任を頼んである。来月には引継ぎができる」
「そうですか」
「お前に選択肢がある」
「何ですか?」
「一つは、後任の魔女と一緒にここに残ること。もう一つは、別の分局に移ること。南方の路線が再開した。長距離の担当が必要な局がある」
ミリアは少し考えた。
「ロアンさんはどう思いますか?」
「お前が決めることだ」
「意見を聞きたいです」
「お前はここ以外の空を知った方がいい。北方は狭い。お前の飛び方には、もっと広い空が合っている」
「南方への路線ですか?」
「南方だけではない。この国全体を飛んでもいい。国境の外を飛んでもいい。郵便魔女は空路があれば飛べる。お前には今、どこでも飛べる力がある」
ミリアはポストを見た。
「世界のどこでも」
ミリアは少し笑った。
「ポストがそれを言うんだ」
「前から思っていた」
「最初に来た時、次はどこって聞いたら、世界のどこでも行けると言ってくれたら良かったのに」
「あの時は半人前だった」
「今は?」
「今は言える。世界のどこでも」
ミリアはロアンを見た。
「ロアンさん、私、もっと遠くまで、手紙を届けてみたいです」
「そうか」
出発の日が来た。十一月の終わりだった。北方の初雪が来る直前の、最後の晴れた日だった。ミリアは荷物をまとめた。一年前と同じ、鞄一つ分だった。本と、着替えと、手袋が五組。エリスの手紙、アルトの手紙、セレナの手紙、未来の手紙。全部が内ポケットに入った。
ポストを背負った。背中に馴染んだ重さだった。百年分の手紙の重さが、そこにあった。
ロアンが局の前に立っていた。古い魔女帽子をかぶって、使い込まれた着古した服を着ていた。一年前と同じ格好だった。ミリアはロアンの前に立った。
「行ってきます」
「気をつけて行け」
「はい」
「戻ってくる時は、手紙を持ってこい」
「届けに来ます」
ロアンは少し笑った。皺だらけの顔に、柔らかい笑みが浮かんだ。
ミリアはそんなロアンを見て言った。
「ロアンさん、私はここを出ます。でも時々、戻って来てもいいですか?」
「好きにしろ。ここはいつでもある」
ミリアは箒にまたがった。
飛び立つ前に、一度だけ局を見た。古い木造の建物。軒先に氷柱が始まりかけていた。壁が冬の光を受けて、朝の色に染まっていた。一年間、帰ってくる場所だった建物。
ロアンが手を上げた。見送りでも、挨拶でもない、ただ手を上げた。ミリアも手を上げた。飛んだ。空に出た。北方の冬の手前の空は、澄んでいた。遠くまで見えた。山の稜線がはっきりと見えた。南の方に平野が広がっていた。その先に、届けるべき場所があった。
「ポスト」
「なんだ」
「次はどこ?」
ポストは少し間を置いた。
「世界のどこでも」
「じゃあ、行こう」
南へ向けて飛んだ。
風が来た。冬の手前の、少し冷たい風だった。頬に当たって、耳の横を過ぎていった。
背中のポストが、いつもより深く感じられた。
百年分の手紙がそこにあった。
ロアンの祖母からロアンへ、ロアンからミリアへ。
そうして渡ってきたものが、今は自分の背中にある。
温かかった。
眼下に北方の森が広がっていた。針葉樹の深い緑が、朝の光を受けて輝いていた。どこかにヴェルナーがいる。どこかに北の集落の女性がいる。どこかに今日も手紙を待っている人がいる。
遠くに海が見えた。あの海の向こうに、エリスがいる。郵便局の手伝いをして、重さを感じながら、いつか飛ぼうとしている少女が。
さらに遠くに、南の方角に、セレナがいる。アルトの意志を継いで、和平のために動いている人が。全部が繋がっていた。手紙で繋がっていた。
「ポスト」
「なんだ」
「手紙は遅れても届く」
「そうだ」
「時間を越えることもある」
「そうだ」
「書いた人が死んでも届く」
「そうだ」
「だから、届ける」
「そうだ」
風が強くなった。ミリアは前傾姿勢になって、箒に力を込めた。速度が上がった。空が広がった。どこまでも続く空が、ミリアの前に開けていた。届けるべき場所がある。届けるべき手紙がある。まだ会ったことのない受取人がいる。まだ知らない人生がある。それが怖くなかった。怖くないわけでもなかった。しかし一年前と違って、怖さが足を止めなかった。
怖い、しかし届けたい。それが今のミリアの飛び方だった。
「遅れても、手紙は届く」
声に出して言った。風の中で言った。誰に言ったわけでもなかった。しかしどこかに届く気がした。ロアンに。ポストの最初の持ち主に。アルトに。王女に。エリスに。まだ会ったことのない、次の受取人に。
空を渡る魔女が、今日も飛ぶ。手紙を持って。想いを持って。遅れても届けるという意志を持って。ミリアは空へ飛んだ。
今日もまた、誰かの想いが空を渡っていく。
完




