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空を渡る魔女と、遅れて届く手紙  作者: 明石竜


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20/20

最終章 空を渡る魔女

 秋になった。北方の秋は短い。夏の緑が色づき始めたと思ったら、あっという間に赤と黄に変わる。その鮮やかさが二週間ほど続いて、それから葉が落ちる。冬になる前の、短い贈り物みたいな季節だった。ミリアがこの分局に来て、一年が経とうとしていた。


 九月の終わりに、ロアンが言っていた。

「お前に話したいことがある」

 夕飯の後だった。かまどの前で茶を飲んでいた。いつもの時間だった。

「はい」

「ポストのことだ」

 ミリアはポストを見た。古い革鞄が、机の上で静かにしていた。

「ポストのこと?」

「そのことを話す前に、一つ聞く。お前は今、一人前の郵便魔女だと思うか」

 ミリアは少し考えた。

「一人前かどうかは、まだ分からないです。でも半人前ではなくなったと思っている」

「そうか」

ロアンはそう言って、ポストに向けて尋ねた。

「どう思う」

「立派な魔女になった」

 ミリアは少し驚いた。

 ポストがそういう言い方をするのは、初めてだった。半人前だと言い続けていたポストが、立派な魔女と言った。

「ポスト」

「なんだ」

「今、立派な魔女になったって言った」

「言った」

「最初に来た時、半人前だと言っていた」

「言った。今は違う」

「いつから変わった?」

「峠を越えた時。怖い、しかし届けなければならない、という感情を自分のものにした時。それから少しずつ変わって、あの春の日、お前が言った時、決まった」

「あの春の日?」

「届けたいから届ける、と言った時」

 ミリアは少し間を置いた。

「その時から?」

「その時から半人前ではなくなった」

「なんで今まで言わなかったの?」

「まだ旅が終わっていなかったから。言葉にするのは、全部を見てからでいい。お前は今日、本当の一人前になった」

 ロアンが茶を飲んだ。

「ポストのことを話す。お前には話す時期だ」


 ロアンはゆっくりと話し始めた。

「その鞄は、元はわしの祖母の鞄だった」

 ミリアは息を止めた。

「祖母も郵便魔女だった。百年近く前の話だ。この国に郵便制度ができた最初の頃に飛んでいた魔女だった」

「百年前」

「鞄に古い魔法が宿っている。祖母が長年使ったことで、鞄に記憶と意志が積み重なった。最初にポストが声を出したのは、祖母が死んだ後だったそうだ」

 ミリアはポストを見た。

「ポストは、祖母の鞄だった。わしが郵便魔女になった時、祖母からの形見として受け取った。何十年も一緒に飛んだ」

「ロアンさんと一緒に飛んでいた」

「そうだ。しかし足腰が弱くなって、遠くへ飛べなくなった。ポストには、もっと広い空を飛べる魔女が必要だ、とわしは思っていた」

「それで私に渡した」

「最初の日に、お前が重いと言った。手袋越しでも感じた。同じ感応の能力を持つお前が来た。それでいいと思った」

 ミリアはポストを持った。

 重かった。いつも重かった。

 百年分の手紙の重さだった。

「……また、空を渡れると思った」

ポストが言った。

「ポスト」

「なんだ」

「百年近く、色々な人が使ってきたんだね」

「そうだ」

「ロアンさんの祖母から、ロアンさんへ、そして私へ」

「そうだ」

「それで重かったんだ。最初から」

「最初から重かった。しかしお前は逃げなかった」

「逃げるという選択肢はなかったし」

「あった最初の日、重いと感じた時、置いていくこともできた。しかし持って帰った。それがお前の最初の選択だった」

 ミリアは一年前の夜を思い出した。

 初めてポストを持ち上げた夜。重かった。空っぽの鞄なのに重かった。

 あの重さが、百年分の重さだったとは知らなかった。

 しかし逃げなかった。持って帰った。

「ポスト、ロアンさんの祖母のことを、覚えてる?」

「覚えている。初めて飛んだ日のことも。最後に飛んだ日のことも」

「どんな人だったの?」

「強い人だった。お前に似ていた」

「私に?」

「怖くても飛んだ。迷いながら届けた。手紙の重さを感じた。そういう人だった」

 ミリアは少し間を置いた。

「その人が最初に使って、ロアンさんが使って、今私が使っている」

「そうだ」

「郵便魔女が三人、繋がっている」

「繋がっている」


 ロアンが立ち上がった。二階へ向かいながら、扉の前で止まった。振り向かずに言った。

「ポストは、お前のものだ。もらってくれ」

「ロアンさんの鞄じゃないですか」

「わしはもう遠くへは飛べない。近場の配達なら箒に鞄を括りつければいい。ポストは広い空が必要だ。それに、祖母の鞄がこの分局の倉庫で眠っているのは、よくない」

「でも」

「もらってくれ。それが一番いい」

 扉が閉まった。

 二階への足音が聞こえた。ミリアはポストを持ったまま、しばらく動かなかった。

「ポスト」

「なんだ」

「もらっていいの?」

「私が決めることではない。しかしロアンがそう言った。そして私も、お前と飛びたいと思っている」

「それは」

「私の意見だ。珍しいだろうが」

「珍しい」

「一年飛んだ。お前と飛ぶのは、悪くなかった」

「悪くなかった、という言い方だね」

「いい、と言えばいいか」

「その方がいい」

「では、お前と飛ぶのは、よかった」

 ミリアは笑った。

「私も、ポストと飛ぶのはよかった」

「ならいい」


 十月に入った。南からの通達が来た。和平条約が正式に締結された。両国の代表が署名した。国境の緊張が解消される。郵便配達の制限が全面解除される。

 ミリアは通達を読んで、机の上に置いた。

 ロアンが棚の整理をしながら言った。

「南への配達が再開できる」

「はい」

「お前の路線が増える」

「増やします」

「長距離も出てくる」

「飛びます」

 ロアンは棚の整理を続けた。

 ミリアはポストを見た。

「ポスト、南への路線も飛べる」

「そうだな」

「アルトさんの届け先には、もう届けられないけど」

「そうだ」

「セレナさんに、何か届けられる日が来るかもしれない」

「来るかもしれない」

「その日が来たら、届けに行く」

「そうだろうな」


 十月の末に、もう一通、手紙が来た。

 差出人はセレナ・フォン・ライゼンだった。

 ミリアは封を切った。読んだ。


 ミリアさんへ。

 和平条約が締結されました。あなたも知っていると思います。

 アルトの署名した草稿が、最後まで交渉の基礎になりました。アルトの意志が、ここまで届きました。

 一つ報告したいことがあります。

 私は来年、この国へ和平の使節として来ることになりました。外交の仕事です。アルトがしようとしていたことを、私が続けます。

 北方を通ることがあれば、あなたに会いに行きたいと思っています。

 もし手紙を届ける機会があれば、また頼みたいと思っています。

 手紙は遅れても届く、とアルトから聞きました。あなたからそう教わった、と。

 そうだといいと思います。遅れても、届けば。

 セレナ


 ミリアは手紙を読み終えた。

 手紙は遅れても届く。アルトがそれをセレナに伝えていた。ミリアから教わった言葉として。しかしその言葉は、もともとロアンの言葉だった。ポストの言葉だった。郵便魔女たちが百年かけて積み重ねてきた言葉だった。

 それがミリアを通じてアルトに届き、アルトからセレナに届き、今ミリアの手に戻ってきた。

「ポスト」

「なんだ」

「手紙は遅れても届く、という言葉が、一番遠回りして届いてきた」

「そうだな」

「ロアンさんからポストへ、ポストからミリアへ、ミリアからアルトへ、アルトからセレナへ、セレナからミリアへ」

「長い旅だ」

「でも届いた」

「届いた」


 十一月になった。北方の冬が来る前の、最後の穏やかな日だった。

ロアンが縁側に出ていた。いつものように空を見ていた。しかし今日は少し様子が違った。遠くを見ているのではなく近くを見ていた。局の前の木が、最後の葉を落とすのを見ていた。

「ロアンさん」

ミリアは隣に立った。

「なんだ」

「一年前の今頃、ここに来ました」

「そうだな」

「あの時、落第した魔女が来た、と思いましたか」

「思わなかった。来た、と思っただけだ」

「それだけ?」

「それだけだ」

 ミリアは木を見た。最後の一枚の葉が、風もないのにゆっくり落ちていった。

「ロアンさん、一つ聞いてもいいですか?」

「なんだ」

「最初に来た日、倉庫の手紙を整理しろと言いましたね。私がヒントになったと言って」

「そうだ」

「あれは、最初から分かっていたんじゃないですか」

「何が」

「ロアン宛の手紙が倉庫にあることを」

 ロアンは少し間を置いた。

「あったかもしれない、とは思っていた。しかし自分では探せなかった」

「なぜ」

「怖かった」

 ミリアはロアンを見た。

「差出人が誰か、分かっていましたか?」

「分かっていた」

「誰から」

「祖母からだ。祖母が死ぬ前に、わしに手紙を書いたと聞いていた。しかし届いたという記憶がなかった。ずっと気になっていたが、探せなかった」

「怖くて」

「そうだ。届いていなければそれまでのことだ、と思うこともできた。しかし届いていたとしたら、倉庫で眠っていたとしたら、それは辛いことだとも思った」

「それで探せなかった」

「お前が来た。お前が港町で手紙を探した。それを見て、わしも踏ん切りがついた」

 ミリアは少し黙った。

「手紙には何が書いてありましたか、聞いてもいいですか?」

 ロアンはしばらく、木の最後の葉が落ちた場所を見ていた。

「飛び続けろ、と書いてあった。空が向いているから、飛び続けろ、と。それだけだった」

ロアンはすぐには続きを読まなかった。

指先が、紙の端を押さえたまま止まっていた。

「……短かった」

少し間を置いて、ロアンは言った。

「しかし、それで十分だった」

「……待っていたんですね」

「そうだな。遅れたが、よかった」

 

 その夜、ミリアは机の上にポストを置いて、一年間を振り返った。

 最初の配達。ヴェルナーへの手紙。エリスの父親の手紙。カレンへの手紙。保留の手紙、国境を越えた配達、峠を越えた配達。アルトへの手紙、二度。アルトの死。セレナからの手紙。和平条約の締結。多くのことがあった。多くの手紙を届けた。多くの人の顔を見た。

「ポスト」

「なんだ」

「一年間、ありがとう」

「礼を言うことではない」

「言いたいから言う」

 ポストは何も言わなかった。

「ポストと飛んで、色々なことが分かった。手紙の重さが分かった。届けることの意味が分かった。迷いながら飛ぶことも覚えた」

「そうだな」

「全部、ポストがいたから分かったことだ」

「ロアンもいた」

「ロアンさんもいた。受取人たちもいた。エリスちゃんも、ヴェルナーさんも、カレンさんも、アルトさんも、王女さんも、みんないた」

「そうだ」

「みんなから、手紙の先で何かが起きることを教わった」

「そうだな」

「それが全部、ここでの一年だった」


 翌朝、木曜日だった。本局便が来た。ミリアは仕分けをした。北の集落への二通、東の農家への一通、山の研究者への一通。それと、南方への手紙が二通。和平条約の締結で、南方への配達が再開されていた。仕分けを終えた時、ロアンが言った。

「ミリア」

「はい」

「一つ話がある」

 ミリアは手を止めた。

「わしはそろそろ、この分局を引退する」

 穏やかな声だった。

「いつですか」

「年内だ。本局に後任を頼んである。来月には引継ぎができる」

「そうですか」

「お前に選択肢がある」

「何ですか?」

「一つは、後任の魔女と一緒にここに残ること。もう一つは、別の分局に移ること。南方の路線が再開した。長距離の担当が必要な局がある」

 ミリアは少し考えた。

「ロアンさんはどう思いますか?」

「お前が決めることだ」

「意見を聞きたいです」

「お前はここ以外の空を知った方がいい。北方は狭い。お前の飛び方には、もっと広い空が合っている」

「南方への路線ですか?」

「南方だけではない。この国全体を飛んでもいい。国境の外を飛んでもいい。郵便魔女は空路があれば飛べる。お前には今、どこでも飛べる力がある」

 ミリアはポストを見た。

「世界のどこでも」

 ミリアは少し笑った。

「ポストがそれを言うんだ」

「前から思っていた」

「最初に来た時、次はどこって聞いたら、世界のどこでも行けると言ってくれたら良かったのに」

「あの時は半人前だった」

「今は?」

「今は言える。世界のどこでも」

 ミリアはロアンを見た。

「ロアンさん、私、もっと遠くまで、手紙を届けてみたいです」

「そうか」


 出発の日が来た。十一月の終わりだった。北方の初雪が来る直前の、最後の晴れた日だった。ミリアは荷物をまとめた。一年前と同じ、鞄一つ分だった。本と、着替えと、手袋が五組。エリスの手紙、アルトの手紙、セレナの手紙、未来の手紙。全部が内ポケットに入った。

 ポストを背負った。背中に馴染んだ重さだった。百年分の手紙の重さが、そこにあった。


ロアンが局の前に立っていた。古い魔女帽子をかぶって、使い込まれた着古した服を着ていた。一年前と同じ格好だった。ミリアはロアンの前に立った。

「行ってきます」

「気をつけて行け」

「はい」

「戻ってくる時は、手紙を持ってこい」

「届けに来ます」

 ロアンは少し笑った。皺だらけの顔に、柔らかい笑みが浮かんだ。

 ミリアはそんなロアンを見て言った。

「ロアンさん、私はここを出ます。でも時々、戻って来てもいいですか?」

「好きにしろ。ここはいつでもある」


 ミリアは箒にまたがった。

 飛び立つ前に、一度だけ局を見た。古い木造の建物。軒先に氷柱が始まりかけていた。壁が冬の光を受けて、朝の色に染まっていた。一年間、帰ってくる場所だった建物。

 ロアンが手を上げた。見送りでも、挨拶でもない、ただ手を上げた。ミリアも手を上げた。飛んだ。空に出た。北方の冬の手前の空は、澄んでいた。遠くまで見えた。山の稜線がはっきりと見えた。南の方に平野が広がっていた。その先に、届けるべき場所があった。

「ポスト」

「なんだ」

「次はどこ?」

 ポストは少し間を置いた。

「世界のどこでも」

「じゃあ、行こう」

 南へ向けて飛んだ。

 風が来た。冬の手前の、少し冷たい風だった。頬に当たって、耳の横を過ぎていった。

背中のポストが、いつもより深く感じられた。

百年分の手紙がそこにあった。

ロアンの祖母からロアンへ、ロアンからミリアへ。

そうして渡ってきたものが、今は自分の背中にある。

温かかった。

眼下に北方の森が広がっていた。針葉樹の深い緑が、朝の光を受けて輝いていた。どこかにヴェルナーがいる。どこかに北の集落の女性がいる。どこかに今日も手紙を待っている人がいる。

遠くに海が見えた。あの海の向こうに、エリスがいる。郵便局の手伝いをして、重さを感じながら、いつか飛ぼうとしている少女が。

 さらに遠くに、南の方角に、セレナがいる。アルトの意志を継いで、和平のために動いている人が。全部が繋がっていた。手紙で繋がっていた。

「ポスト」

「なんだ」

「手紙は遅れても届く」

「そうだ」

「時間を越えることもある」

「そうだ」

「書いた人が死んでも届く」

「そうだ」

「だから、届ける」

「そうだ」

 風が強くなった。ミリアは前傾姿勢になって、箒に力を込めた。速度が上がった。空が広がった。どこまでも続く空が、ミリアの前に開けていた。届けるべき場所がある。届けるべき手紙がある。まだ会ったことのない受取人がいる。まだ知らない人生がある。それが怖くなかった。怖くないわけでもなかった。しかし一年前と違って、怖さが足を止めなかった。

 怖い、しかし届けたい。それが今のミリアの飛び方だった。

「遅れても、手紙は届く」

 声に出して言った。風の中で言った。誰に言ったわけでもなかった。しかしどこかに届く気がした。ロアンに。ポストの最初の持ち主に。アルトに。王女に。エリスに。まだ会ったことのない、次の受取人に。

 空を渡る魔女が、今日も飛ぶ。手紙を持って。想いを持って。遅れても届けるという意志を持って。ミリアは空へ飛んだ。


今日もまた、誰かの想いが空を渡っていく。


                                         完

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