第二章 空の仕事
北方十三分局の朝は早い。ミリアが目を覚ました時、窓の外はまだ薄暗かった。空の端がようやく白み始めた頃で、鳥の声がまだ少ない時間帯だった。階下からかまどの火を起こす音がして、薪の弾ける匂いが二階まで上がってきた。
枕元の鞄は静かだった。昨夜はあれきり何も言わなかった。鞄がしゃべったという事実を、ミリアは朝の光の中で改めて確認するように見つめた。黒い革、くすんだ金具、使い込まれた縫い目。見た目はただの古い郵便鞄だ。
「起きているなら早く下へ降りろ」
鞄から声がした。やはりしゃべった。
「……起きてる」
「顔を洗え。ロアンが仕事の説明をする」
ミリアは着替えを済ませ、手袋をはめて鞄を持ち、階段を降りた。ロアンはかまどの前で粥を温めていた。二人分の椀が木の台に並んでいる。
「座れ」
ロアンは振り向きもせずに命令した。ミリアは椅子に腰を下ろし、ポストを膝の上に置く。テーブルには昨日の配達路線の地図と、紙の束が置かれていた。
「今日は最初の配達だ。わしと一緒に行く」
「はい」
「手紙の扱い方から教える。飛行の作法、路線の確認、受取人への対応。一通ずつ覚えろ」
粥は麦と豆が入った素朴なものだったが、温かかった。ミリアは手袋をはめたままスプーンを持った。
「手袋をはめたまま食うのか」
「はずすと椀に触れて記憶が見えるので」
「椀の記憶か」
「物にも染み込みます。人が長く使ったものには特に」
ロアンは自分の粥を静かにすくいながら、少し考えるようにしてから言った。
「この局の椀は、わしが二十年使っている」
「だから外せないんです」
ロアンはそれ以上何も言わなかった。
食後、ロアンは棚から郵便物を取り出して机に並べた。今日の配達分だった。封筒が六通、小包が二つ。封筒はそれぞれ宛先の村の名前が書かれた仕分け札がついていた。
「まず仕分けを確認する。路線の順番に並べ替えろ。地図を見ながらでいい」
ミリアは壁の地図を確認しながら、封筒を並べ直した。北から南へ、山沿いの集落を順番に回る路線だった。
「次に重さを測る」
ロアンは古い天秤を取り出した。
「重量によって飛行の調整が必要だ。荷物が重ければ魔力消費が増える。特に長距離では、序盤に飛ばしすぎると後半で魔力切れを起こす」
「どのくらいが目安ですか?」
「自分の感覚で覚えろ。わしは若い頃に三回魔力切れで落ちた」
「落ちた、というのは」
「空から落ちた」
ミリアは地図から目を上げた。
「大怪我はしなかった。運よく木の上に引っかかった。二回目は川に落ちた。三回目は畑に落ちた。農夫に怒られた」
ロアンはあっさりと言った。自慢でも反省でもなく、ただの事実として。
「それで覚えたわけだ、調整の仕方を。身体で覚えると忘れない」
ポストがミリアの膝の上で、小声で言った。
「あの人は無茶なことを軽く言うが、参考にしすぎるな。落ちたのは計算が足りなかっただけだ」
ロアンは聞こえていたようだったが、特に反論しなかった。
出発は朝の中頃だった。ロアンはゆっくりと箒にまたがった。動きに無駄がなかった。若い魔女のような跳び乗る感じではなく、長年の動作が体に染み込んだ、静かで確かな乗り方だった。ミリアも箒にまたがり、ポストを背中に担いだ。鞄は背負うと重さが変わる気がした。前に持つよりも、背中に乗せると馴染む。
「行くぞ」
ロアンが先に飛んだ。ミリアは後を追った。空に出た瞬間、北方の風がミリアの頬を打った。街の空気とは違う、山からの冷えた風で、深く吸うと肺の奥まで澄んでいく感覚があった。眼下に村が広がる。小さな家々と畑と、細い道。人が歩いているのが見えた。荷車を引く馬が一頭、道をゆっくり進んでいる。
空の高さから見ると、地上のあらゆるものが静かに見えた。
「最初の配達先は東の村だ。ついてこい」
ロアンが風に乗せて言った。
ミリアはロアンの後ろを飛んだ。ロアンの飛び方は速くなかった。しかし安定していた。風向きを自然に読んで、抵抗の少ない空路を選んで飛んでいる。何年も同じ空を飛んできた者の飛び方だった。
「ロアンさん、ここをいつから飛んでいるんですか?」
「三十年以上」
「同じ路線を?」
「大体は。少し変わった部分もある。昔は西の村がもっと大きかった。今は縮んだ」
ミリアは眼下の景色を見た。
森と畑と川。それが繰り返す。その中に点在する村。人が暮らしている場所。
「同じ空を三十年飛んでいて、飽きませんか?」
ロアンはしばらく答えなかった。
「飽きるとはどういうことだ」
「同じ景色ばかりだと……」
「景色は同じでも、手紙は毎日違う。届け先の人間も変わる。子どもが生まれ、老人が死に、恋人が別れ、旅に出た者が帰ってくる。手紙はその全てに関わっている。飽きる暇がない」
風が強くなった。ミリアは前傾姿勢で箒に力を込めた。
ポストが背中で揺れながら言った。
「ロアンの言う通りだ。手紙は毎日違う。同じ手紙は一通もない」
「なんで鞄がそれを知っているの?」
「長く見てきたからだ」
「どのくらい」
ポストは答えなかった。
最初の配達先は東の村の鍛冶師だった。鍛冶場の前に降り立つと、作業中の男が顔を上げた。四十代くらい、腕の太い、煤けた前掛けをした男だった。
「郵便か」
「はい。一通お預かりしています」
ロアンが封筒を取り出してミリアに渡した。ミリアは手袋越しに受け取り、男へ差し出した。男は封筒を受け取り、表書きを確認してから懐に入れた。
「ありがとう」
それだけだった。飛び立ってから、ミリアは尋ねた。
「あれだけですか」
「それで十分だ。届けることが仕事だ。相手がその場で読もうと、押入れにしまおうと、わしらの仕事ではない」
「でも、どんな手紙か気にならないですか?」
「気になっても届けるだけだ」
そのあと、ポストが言った。
「お前は気になるだろうが」
「……うん」
「それはお前の能力だ。見えてしまうことと、踏み込むことは別だ」
ミリアは考えながら次の村へ向かった。
三通目の配達で、ミリアが手紙を取り出す際に、手袋の端がずれた。
封筒の紙に、指の腹が直接触れた。
一瞬だった。しかし記憶は来た。女の人の声。泣き声ではなく、笑い声だった。誰かの名前を呼んでいる。風の中で、遠い場所で、呼び続けている声。それと一緒に、懐かしさという感情。胸の中が温かくなるような、しかし少し痛いような、そういう感情。
ミリアは手袋を直した。息を一つ吐いて、封筒を宛先の老婆に渡した。老婆は封筒を両手で受け取り、封を破かずにそっと胸に当てた。
飛び立つ前に、老婆が言った。
「娘から、かね」
「差出人は確認していないんですが」
「分かる。重さが違う」
老婆は封筒を胸に当てたまま、家の中へ戻っていった。
ミリアはしばらくそれを見ていた。
「見えたか」
ポストが尋ねる。
「少し。笑い声と、懐かしい気持ち」
「それが手紙に染み込んでいたものだ」
「差出人の感情、ってこと?」
「書いた時の気持ちが残る。嬉しい時に書いた手紙は嬉しさが残る。悲しい時に書いた手紙は悲しさが残る」
ミリアは飛び上がりながら、今の感覚を思い返した。温かくて少し痛い感情。
「懐かしさって、何の懐かしさだろう?」
「さあな。それはお前には分からなくていい」
「なんで?」
「届けるだけでいいからだ」
ポストはそう答える。
ロアンが前方から振り返った。
「次は北の農家だ。急げ、昼になる」
午後の配達が終わったのは、日が西に傾いた頃だった。
六通と二つの小包を届けた。一件は留守で、扉の脇の郵便箱に入れた。一件は受取人が子どもで、子どもは走って封筒を持って家の中に入っていった。
局へ帰る空路で、ミリアは少しだけ慣れた気持ちがあった。最初の一通を渡した時の緊張が、六通目には消えていた。届ける、受け取られる、それだけの動作だが、繰り返すと身体が覚えてくる。
「今日はどうだった」
ロアンが訊いた。
「想像していたよりは、できました」
「想像では、できないと思っていたか」
「能力のことがあるので」
「手袋がずれたか」
「三通目で少し」
「それで配達できたか」
「できました」
ロアンは前を向いたまま言った。
「それでいい」
それ以上は言わなかった。褒めるわけでも、励ますわけでも、厳しく評価するわけでもない。ただ「それでいい」とだけ言って、空を飛んでいる。
ポストがミリアの背中でゆっくりと揺れた。
「ロアンはあまり教えない師匠だ」
「そうだね。もう少し詳しく教えてくれたら助かるんだけど」
「あの人の考え方がある。魔女は自分で決めるものだ、という」
「何を自分で決めるの」
「何もかもを。届けるか届けないか。どう届けるか。受取人に何を言うか。手紙から見えたものをどう扱うか。魔女はそれを全部、自分で判断する」
「それって、教えてもらった方が楽じゃない?」
「楽だが、それはロアンの答えだ。お前の答えではない」
ミリアは黙って考えた。今日の三通目の封筒。温かくて少し痛い懐かしさ。あれは差出人の感情だったのか、それとも手紙そのものが持っていた何かだったのか。ミリアには分からない。届けてよかったのかどうかも、本当は分からない。受け取った老婆が封筒を胸に当てた時、その表情には何があったのか。
でも老婆は言った。「娘から、かね」と。
重さで分かると言った。手紙の重さで、誰からかが分かる。
「ポスト」
「なんだ」
「手紙の重さって」
「なんだ」
「想いが入っているから重いって、昨日言ったけど」
「言った」
「老婆さんは重さで差出人が分かるって言ってた。それって、娘さんの想いの重さを知っているってこと?」
ポストはしばらく答えなかった。
風が吹いた。夕方の風は朝より温かく、森の上を渡って来る香りがあった。
「手紙はな、だいたい重いものだ」
「紙なのに?」
「想いが入っている」
ミリアはポストのその言葉を、空の上で受け取った。
答えになっているような、なっていないような言い方だった。しかしミリアにはなぜか、それ以上聞く気が起きなかった。
局が見えてきた。木立の向こうの小さな建物。夕暮れの光の中で、窓から灯りが漏れていた。ロアンが先に降り立った。ミリアも続いて降りた。地面に足がついた瞬間、今日一日の空の感覚が身体に残っているのが分かった。六通の手紙。六人の受取人。六つの、それぞれ違う場所。
「明日は一人で行け」
「え、もう?」
「今日見た路線だ。同じ順番で回れ」
「地図を確認しながらでも?」
「好きにしろ。ただ、全部届けてこい」
ロアンは扉を開けて中に入った。
ミリアは夕空を見上げた。西の空が橙色に染まっていた。雲が二つ、その色を受けて金色に縁取られている。明日も晴れそうな空だった。
「明日、一人で飛べると思う?」
「さあな」
「さあなって、不安なんだけど」
「不安なら地図を見ろ。迷ったら降りて人に聞け。魔力が切れそうになったら早めに降りろ。それだけのことだ」
「それだけって言うけど」
「お前は今日、六通届けた」
「届けた」
「それができた」
ミリアは鞄を下ろした。重い鞄を両手で持ち直した。
「ポスト」
「なんだ」
「あなたは私が一人前になると思う?」
今日も、昨日と同じように間があった。ポストは急いで答えなかった。
「まだ分からん。ただ今日、手袋がずれた時」
「うん」
「それでも届けた」
ミリアはポストを持ったまま、しばらく立っていた。
夕空の橙が少しずつ暗くなっていく。最初の星が、東の空の端に見え始めていた。
明日、一人で飛ぶ。手紙を持って、空を行く。誰かの想いを背負って、届け先を目指す。途中で記憶が見えるかもしれない。手袋がずれるかもしれない。迷うかもしれない。
それでも届ける。それだけのことだ、とポストは言った。
ミリアはそれが簡単なことだとは思わなかった。しかし、できないことだとも、もう思っていなかった。
局の中からロアンの声がした。
「飯ができたぞ」
ミリアは扉を開けた。




