第十九章 未来の意味
六月になった。北方の春は夏へ向かっていた。緑が濃くなり、川の水が温んだ。朝の空気から冷たさが消えて、代わりに草と土の匂いが来るようになった。
ミリアは飛んでいた。
毎日飛んだ。アルトの死から二週間が経ち、三週間が経ち、一ヶ月が経った。辛さは消えなかった。しかし飛ぶことは続けられた。辛さと、飛ぶことは、同時に本当だった。
南の状況は動いていた。
本局からの通達が毎週来るようになった。和平交渉が続いている。アルトの署名した草稿を基に、隣国の和平派閣僚が動いている。この国の和平派も呼応している。まだ合意には至っていないが、話し合いが続いている。
戦争にはなっていなかった。
ミリアはその通達を読むたびに、アルトの顔を思い出した。決意を持った目を。地上にいる人間にしかできないことがある、と言った時の声を。
残したものが、届いている。
六月の第二週、珍しい郵便が来た。
本局便の中に、隣国の消印の封筒があった。
差出人の欄には名前がなかった。住所だけがあった。南の城の住所。
しかし宛先がいつもと違った。
宛先は、北方十三分局のミリア・ヴェルン宛だった。
アルトからではなかった。アルトはもういない。
ミリアは封筒を持ったまま、しばらく動かなかった。
「ポスト」
「見えている」
「差出人の住所は」
「南の城だ。王族か、あるいは城に住む者からだ」
「アルトさんからじゃない」
「そうだな」
ロアンが振り返った。何も言わなかった。ミリアが決めることだ、という顔だった。
ミリアは封を切った。中に二枚の紙が入っていた。
一枚は短い手紙だった。もう一枚は、別の紙だった。厚みのある、質の良い紙だった。
短い手紙を先に読んだ。
北方の郵便魔女へ。
私はセレナ・フォン・ライゼンと申します。あなたのことは、アルトから聞いていました。北方から手紙を届けに来た郵便魔女がいると。
アルトが亡くなりました。あなたも知っていると思います。
アルトは死ぬ前に、私への手紙を残していました。その中に、あなたへの伝言がありました。届けてくれてありがとう、と。もう一度会えたなら、そう伝えてほしいと書いていました。直接お伝えすることがせめてもと思い、この手紙を書きました。
もう一枚、同封しています。アルトが署名した和平宣言の草稿の写しです。原本は交渉の場にありますが、写しをあなたに持っていてほしいと、アルトが書いていました。
遠いところから届けてくれた人に、渡してほしいと。
セレナ・フォン・ライゼン
ミリアは手紙を置いた。もう一枚の紙を手に取った。
和平宣言の草稿の写しだった。アルトの字で書かれていた。整った、丁寧な字だった。内容は外交的な文書で、ミリアには細部は分からなかった。しかし最後の署名の部分は読めた。
アルト・フォン・アルトベルク、と書いてあった。
その下に日付があった。
五月十四日。
暗殺された日の日付だった。
ミリアは、すぐには口を開かなかった。
手紙を持つ指先に、紙の重さが残っていた。紙そのものは軽いはずなのに、そこに書かれていた言葉は軽くなかった。遠い場所で書かれて、いくつもの時間を渡ってきた重さがあった。
最初の夜のことを思い出した。
北方十三分局の二階。星の多い、眠れない夜だった。枕元に置いた鞄が喋って、自分はそれに驚いて、それでも訊いた。
この仕事、できると思う?
あの時の自分は、何も知らなかった。手紙を届けた先で何が起きるのかも、遅れて届いた一通が誰かの人生を動かすことも、自分がこの場所で何を知るのかも。ただ、他に行くところがなくて、それでも空を飛ぶことだけは好きで、ここへ来た。
半人前だということは分かる。
あの夜のポストの声まで、はっきり思い出せた。
あの時は、その言葉が少しだけ悔しかった。
図星だったからだ。
けれど今は、あの言葉がそこで終わっていなかったことを知っていた。半人前だった自分が、一通ずつ運んで、一通ずつ受け取る顔を見て、遅れて届くものの重さを知ってきたのだと。
遅れて届いたのは、手紙だけではなかった。
ロアンの言葉も、ポストの言葉も、これまで届けてきた無数の想いも、少しずつ自分の中に残っていたのだと思った。北方へ来た意味も、この一年の意味も、今ようやく届いた気がした。
私は手紙を届けてきたのだと思っていた。
けれど、届いていたのは私の方でもあった。
ミリアは二枚の紙を膝の上に置いた。
泣かなかった。
泣くよりも先に、何かが腹の底に落ちてきた感覚があった。重くて、温かいものがあった。
少しのあいだ、誰も何も言わなかった。
「届けてくれてありがとう、と言っていた」
「そうだな」
「死ぬ前に、残していた」
「そうだ」
「遠いところから届けてくれた人に、渡してほしいと」
「そうだ」
ミリアはアルトの署名を見た。五月十四日。その日、アルトは何をしていたか。署名をして、手紙を残して、それからどうなったか。
「怖かっただろうな」
「そうかもしれない」
「でも署名した。残した」
「そうだ」
「届けてくれてありがとう、という言葉も残した」
「そうだ」
ミリアは紙を折った。
丁寧に、破かないように折った。
封筒に戻して、内ポケットに入れた。エリスの手紙と、未来の手紙と、アルトからの手紙と、一緒に。ポケットが少し重くなった。
その日の夜、ミリアは内ポケットの手紙を全部取り出した。
机の上に並べた。
エリスからの手紙。父親が帰ってきたことを知らせる、歪んだ字の手紙。
アルトからの手紙。空を飛べる人は羨ましいと言った人の、整った字の手紙。
未来の自分からの手紙。届けてはいけない、という警告と、それでも届けてよかった、という結論が同じ紙に書かれた手紙。
セレナからの手紙と、アルトの署名の写し。
四通が机の上に並んだ。
「ポスト」
「なんだ」
「全部読んでいいか」
「お前の手紙だ」
ミリアは一通ずつ読んだ。
エリスの手紙を読んだ。父親が帰ってきた。三人で泣いた。また手紙を書きます。
アルトの手紙を読んだ。空を飛べる人は羨ましい。地上にいる人間にしかできないことがある。どうか元気でいてほしい。
セレナの手紙と草稿の写しを読んだ。届けてくれてありがとう。五月十四日の署名。
最後に、未来の自分からの手紙を読んだ。
届けてはいけない。大切な人が死ぬ。
それでも、届けてよかった。
読み終えた。
全部読んで、机の上に並べたまま、しばらく見ていた。
「ポスト、未来の手紙の意味が、今夜全部分かった気がする」
「どういう意味だ」
「未来の私は知っていた。アルトさんが死ぬことを。届けた結果を。それでも届けてよかったと思っていた」
「そうだな」
「それは、アルトさんが残したものを知っていたからだと思う。署名を残したことを。セレナさんからの手紙が来たことを。和平交渉が続いていることを」
「そうかもしれない」
「未来の私は全部を見た上で、それでもよかったと思った」
「そうだな」
「今の私は、まだ全部は見えていない。和平交渉がどうなるかも、まだ分からない。でも」
「でも?」
「今日、セレナさんからの手紙が届いた。アルトさんの署名の写しが届いた。それを見て、届けてよかったという気持ちが、今日初めて本当になった」
「初めて」
「今まではそう思おうとしていた。未来の手紙にそう書いてあったから、そう思わなければと思っていた。でも今日は、自分からそう思えた」
ポストは黙っていた。
ミリアは続けた。
「アルトさんが署名を残した。その意志が、今交渉に使われている。王女さんが雨の夜に書いた手紙が、アルトさんを動かした。アルトさんが動いて、署名した。署名が残った。それが今届いている」
「手紙が時間を越えた」
「越えた。王女さんの手紙が、アルトさんを動かして、アルトさんの署名が、今の交渉を動かしている。全部が繋がっている」
「そうだな」
「届けた手紙が、世界に残っている」
「そうだ」
ミリアは四通の手紙を見た。
「ポスト、ロアンさんが若い頃届けた手紙も、世界のどこかに残っているんだろうな」
「そうだろうな」
「その手紙を受け取った人の心に残っている。あるいは、その人が動いた結果として残っている」
「そうだ」
「手紙は届いた後も消えない」
「消えない」
翌朝、ミリアはロアンに話した。
セレナからの手紙のことを。アルトの署名の写しのことを。
ロアンは黙って聞いた。
話し終えると、ロアンはしばらく外の景色を見た。窓の外に、六月の緑が広がっていた。
「署名が残っていた」
「はい」
「それが今動いている」
「そうです」
「届けた手紙が、それを引き出した」
「そう思います」
ロアンは少し間を置いて、
「似ている」
とゆっくり言った。
「ロアンさんが若い頃届けた手紙と?」
「そうだ。あの時も、手紙が誰かを動かした。その人が動いて、残したものが世界を変えた。手紙は一通だったが、その先で何かが起きた」
「手紙の先で、何かが起きる」
「手紙は届いて終わりではない。届いた先で、受け取った人が何かをする。その何かが、また誰かに届く」
「連鎖する」
「そうだ。郵便魔女はその連鎖の最初の一手を担う。見えるのは最初だけだ。その先は見えない。しかし確かに続いている」
ミリアはその言葉を頭の中に置いた。
連鎖の最初の一手。
見えない先に続く何か。
「ロアンさん」
「なんだ」
「三十年間、その連鎖の最初の一手を担い続けたんですね」
「そうだ」
「見えない先を信じて」
「信じるというより、届けるだけだ。先は見えなくていい。届けることが仕事だ。その先で何が起きるかは、受け取った人間が決める」
「でも信じているから届けてきたんじゃないですか」
ロアンは少し考えた。
「そうかもしれない。手紙は届けるだけ、と言い続けてきたが、その底には何かを信じていたかもしれない」
「何を?」
「手紙が届けば、何かが変わる可能性がある、ということを。可能性だ。確実ではない。変わらないこともある。しかし届けなければ、その可能性もない」
「可能性のために届ける」
「そうだな」
その週の木曜日、本局便に一通の手紙があった。
差出人はエリス・ヴァレンだった。
ミリアは思わず笑った。エリスからの手紙はいつも、何か温かいものを運んでくる。
封を切って読んだ。
ミリアさんへ。
お元気ですか。私は元気です。
お父さんが帰ってきてから、もう一年近くになります。お父さんはまた航海に出ました。今度は近い海です。三ヶ月で帰ってくると言いました。
一つ教えたいことがあります。
私、郵便局でお手伝いをするようになりました。週に二日、配達物の仕分けを手伝っています。手紙をたくさん触りました。
触った時、少し分かる気がするんです。誰かの気持ちが入っているって。ミリアさんが言っていた「重さ」が、少し分かりました。
私も郵便魔女になりたいと思っています。飛べるかどうかまだ分かりませんが、なりたいと思っています。
またお手紙書きます。
エリス
ミリアは手紙を読み終えた。
「重さが分かった、と書いてある」
「そうだな」
「エリスちゃんが、郵便の仕事をしたいと思っている」
「そうだ」
「あの子の父親の手紙を届けた時、エリスちゃんと会った。それがこうなった」
「連鎖だ。ロアンが言っていた通りだ」
ミリアはエリスの手紙を内ポケットに入れた。
ポケットがまた少し重くなった。
「ポスト」
「なんだ」
「手紙は、届いた後も続く。見えない先で、誰かが動く。また誰かに届き、また誰かが動く」
「そうだ」
「私が届けた手紙も、その先で続いている。見えないけど」
「見えなくていい」
七月になった。北方の夏は短い。しかし鮮やかだった。緑が最も濃くなり、花が咲き、川が輝いた。空が高く、青が深くなった。
南からの通達が来た。和平交渉が、大きく進展した。双方の政府間で、基本合意が成立した。細部の調整が残っているが、戦争は回避される見通しになった。
ミリアは通達を読んだ。読み終えて、机の上に置いた。
泣くかと思ったが、泣かなかった。代わりに、深く息を吸った。
夏の空気が肺に入った。草と土と、北方の夏の匂いがした。
「ポスト」
「聞こえていた」
「戦争にならなかった。アルトさんの署名が、役に立った。王女さんの手紙が、遅れても、届いた」
「そうだな」
ミリアは窓の外を見た。
北方の夏の空が広がっていた。青く、高く、どこまでも続いていた。
ロアンが通達を読んで、棚にしまった。
「よかったな」
「はい」
「お前が届けてよかった」
ミリアはロアンを見た。
ロアンは棚に向かったまま、振り向かなかった。しかしその背中が、いつもより少し柔らかかった。
「ロアンさん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「何に対して」
「ここに来て、飛ぶ場所をもらって。最初の鞄を渡してもらって」とミリアは言った。「何も教えてくれなかったけど、それが一番の教えだったと思っています」
ロアンは振り向かなかった。
「大げさだ」
「大げさじゃないです」
少しの沈黙があった。
「魔女は自分で決める。お前は自分で決めてきた。それだけだ」
その夜、眠る前にミリアはポストに聞いた。
「ポスト、未来の手紙をもう一度読んでいいかな」
「何度でも読め」
取り出して読んだ。
届けてはいけない。大切な人が死ぬ。
それでも、届けてよかった。
「今は全部分かる」
「そうか」
「届けてはいけない、という部分の意味も分かる。未来の私は、本当に届けるなと思っていた。アルトさんを失いたくなかった。だから警告した」
「そうだろうな」
「でも最後に書いた。それでも届けてよかった、と」
「そうだ」
「届けなければ、アルトさんは動かなかった。動かなければ、署名は残らなかった。署名が残らなければ、和平交渉は続かなかった」
「そうだな」
「アルトさんを失ったことは、今でも辛い。それは変わらない。でもアルトさんが残したものが、世界を変えた。その最初の一手を、私が担った」
「そうだ」
「だから届けてよかった、という意味だった」
「そうだな」
ミリアは手紙を折った。丁寧に畳んで、ポケットに戻した。
「ポスト」
「なんだ」
「未来の私に、一つだけ言いたいことがある」
「なんだ」
「届けてよかった。あなたが警告してくれたおかげで、ちゃんと迷えた。迷ったから、丁寧に届けられた」
ポストは何も言わなかった。
しばらして、ゆっくりと言った。
「届いていると思う」
「そうかな」
「時間を越える手紙もある、と話したことがある。お前の能力は時間に触れる。今お前が思ったことは、未来のお前に届くかもしれない」
「そうだといいな」
「そうだといい」
翌朝、ミリアは飛んだ。夏の空に出た。青が深く、高く、広かった。
いつもの路線を飛んだ。北の集落、東の農家、山の研究者。
北の集落の女性への手紙があった。
息子からだった。
女性は受け取って、重さを確認して、笑った。
「厚い。今日は厚い」
ミリアも笑った。
「よかったです」
「あなたが毎回届けてくれるから、安心して待っていられる。ありがとう」
ミリアは飛び立った。
次の届け先へ向かいながら、今日もらった「ありがとう」を思った。
この言葉も、どこかに届くかもしれない。
見えない先で、誰かが受け取るかもしれない。
手紙みたいに。




