第十八章 暗殺
五月の第三週だった。本局からの通達が来た。ミリアは仕分けをしながら、いつもの通達と並んでいたその封筒を見た。封筒の色が違った。白ではなく、灰色だった。緊急通達に使われる色だとポストが教えたことがあった。
ロアンが受け取って、封を開けた。
ロアンの手が、少し止まった。
一瞬だけ、止まった。それからゆっくりと文書を机の上に置いた。
「ロアンさん」
ロアンはミリアに文書を渡した。
ミリアは読んだ。
隣国において、和平派の王族、アルト・フォン・アルトベルクが暗殺された。
五月十四日、王城内において。犯人は特定されていない。
これに伴い、和平交渉は一時停止。国境の緊張が再び高まっている。
各分局は配達の安全を最優先とし、南方への配達を再度制限する。
ミリアは文書を読み終えた。
読み終えても、意味が頭に入ってこなかった。
もう一度読んだ。
暗殺された。アルト・フォン・アルトベルクが。五月十四日。
今日は五月二十日だった。六日前のことだった。六日前に、アルトが死んだ。
ミリアは文書を机の上に置いた。手袋をはめた手が、机の表面に触れた。ロアンが二十年使ってきた机。記憶が少し流れ込んできた。しかし今は感じなかった。感じる余裕がなかった。
「ポスト」
声が出た。自分でも驚くほど、普通の声が出た。
「聞こえていた」
ポストは伝える。
「アルトさんが」
「聞こえていた」
ミリアは立ち上がろうとした。立てなかった。椅子に座ったまま、動けなかった。
ロアンが湯を沸かし始めた。何も言わずに、かまどに火をつけた。やかんを置いた。
音だけがした。
どのくらいそうしていたか分からない。
ロアンが茶を持ってきた。ミリアの前に置いた。
ミリアはカップを両手で持った。温かかった。
「飲め」
ロアンが命令した。
飲むと、温かい液体が喉を通った。それだけのことが、少しだけ現実に引き戻してくれた。
「届けた。あの手紙を届けた。アルトさんが動いた。交渉が始まった。だから」
声が続かなかった。
「だから、何かが変わると思っていた。戦争が止まると思っていた」
「そうだな」
ロアンが言う。
「なのに」
「そうだな」
「なんで?」
ロアンは答えなかった。
答えない方がいい問いというものがある、とミリアは以前ポストから教わった。しかし今は、答えがほしかった。答えがなければ、どこにも行けない気がした。
「ポスト」
「なんだ」
「未来の手紙、読んでもいい?」
「お前の手紙だ。お前が読むものだ」
ミリアは内ポケットから手紙を取り出した。
未来の自分の字。届けてはいけない、大切な人が死ぬ、という警告。
最後の一行を見た。
それでも、届けてよかった。
「大切な人、というのはアルトさんのことだった」
「そうかもしれない」
「私が届けなければ、アルトさんは動かなかった。動かなければ、狙われなかった」
「そうかもしれない」
「私が、殺したかもしれない」
「そうは言えない」
ポストが言う。
「でも」
「届けなければ、アルトは動かなかった。しかし動かなければ、戦争になっていたかもしれない。戦争になれば、もっと多くの人が死んでいた。どちらが正しかったかは、誰にも言えない」
「そんな話じゃない」
ミリアの声が震えた。
「アルトさんが死んだ。会った人が死んだ。手紙を渡した人が死んだ」
「そうだ」
「それが辛い」
「そうだ」
ポストは穏やかに言った。
「辛くて当然だ」
その言葉を聞いた瞬間、ミリアの目から涙が出た。
声は出なかった。声を出したら止まらない気がした。だから声を出さないまま、ただ涙が出た。ロアンは何も言わなかった。ただそこにいた。
翌日も、ミリアは飛べなかった。
体が動かなかった。箒にまたがることができなかった。
ロアンは何も言わなかった。配達はロアンが近場のものだけ担当した。遠いものは本局に問い合わせた。
ミリアは局の中で、窓の外の春の景色を見ていた。
緑の木と、花と、明るい空。全部が、今日は遠かった。
「ポスト」
「なんだ」
「未来の手紙の最後の一行。それでも届けてよかった、って書いてあった。あれは本当のことなの?」
「未来のお前が書いた言葉だ」
「今の私には信じられない」
「今は信じられなくていい」
「でも未来の私は信じている」
「そうだ」
「どうしてそう思えるんだろう。アルトさんが死んでも」
「今の時点では分からない」
「分からないまま、信じる?」
「未来のお前はそうしたようだ」
ミリアはポストを見た。古い革鞄が、春の光の中で静かにしていた。
「ポスト、アルトさんは死ぬ前に何かを残したの?」
「通達には書いていなかった」
「でも何か残したかもしれない。和平のために動いていたから」
「そうかもしれない」
「残したものが、誰かに届くかもしれない」
「そうかもしれない」
ミリアは窓の外を見た。
「手紙みたいに」
「そうだな」
三日目の朝、ロアンがミリアの部屋の扉をノックした。
「入ります」
ロアンが入ってきた。手に文書を持っていた。
「本局からだ。お前に見せるべきだと思った」
ミリアは文書を受け取った。
アルト・フォン・アルトベルクの死に際して、隣国政府より発表があった。
アルト・フォン・アルトベルクは暗殺される直前、和平宣言の草稿に署名していた。和平派の閣僚数名がこれを保管していた。
現在、その草稿を基に、和平派閣僚が交渉を継続している。
アルトの意志を継いで、和平交渉は続く。
ミリアは文書を読み終えた。
もう一度読んだ。
暗殺される直前に、署名していた。
「知っていたんだ。アルトさん、自分が狙われているのを知っていた」
「知っていたかもしれない。それでも署名した」
「だから死ぬ前に残した。和平宣言を」
「そうだ」
「届けた手紙が、アルトさんを動かした。アルトさんが動いて、署名した。署名が残った。それが今、交渉に繋がっている」
「そうだ」
ミリアは文書を持ったまま、少し泣いた。
今度は昨日と違う涙だった。辛いだけではなかった。何かが混じっていた。うまく言葉にならなかったが、辛さとは別の何かが混じっていた。
「ロアンさん」
「なんだ」
「アルトさんは、会った時言っていた。地上にいる人間にしかできないことがある、って」
「覚えているか」
「覚えている。あの時意味が分からなかった。今は少し分かる」
「何だと思う」
「残すこと。地上にいるから残せる。手紙も、署名も、意志も。残したものが、後から届く」
ロアンは静かに聞いていた。
「アルトさんは残した。暗殺される前に残した。それが今届いている。遅れて届く手紙みたいに」
「そうだな」
「手紙は書いた人が死んでも届く、ってポストが言ってた。アルトさんの署名も同じだ」
「同じだ」
ミリアは涙を拭いた。文書を丁寧に折って、内ポケットに入れた。未来の手紙と、エリスの手紙と、アルトの手紙と、一緒に。
「明日、飛びます」
「そうか」
「今日はまだ、飛べない。でも明日は飛ぶ」
「急がなくていい」
「急がない。でも飛ぶ。手紙が待っているから」
その夜、ミリアはポストに聞いた。
「ポスト」
「なんだ」
「未来の手紙の最後の一行。それでも届けてよかった、って」
「なんだ」
「少し、分かってきた」
「そうか」
「アルトさんが死んで、辛い。それは変わらない。でも届けてよかったというのも、少し分かる。矛盾しているけど、両方が本当だ」
「カレンの手紙の時に言ったな。怒りも届いてよかったという気持ちも、同時に本当だ、と」
「あの時と同じだ」
「そうだな」
「人の気持ちは、矛盾したまま本当でいられる」
「そうだ」
ミリアは天井を見た。春の夜は明るかった。窓の外に星が見えた。
「ポスト、アルトさんに会えてよかった」
「そうか」
「峠を越えて、届けに行ってよかった。怖かったけど」
「そうだな」
「怖い、しかし届けなければならない、って感情があると言っていた。王女さんと同じ感情だって」
「言った」
「今も同じ感情がある。怖い、辛い、しかしそれでも届ける」
「そうか」
ポストは少し間を置いた。そしてゆっくりと言う。
「そうだな。それがお前だ」
翌朝、ミリアは飛んだ。春の空に出た。
青かった。高かった。冷たくなかった。いつもの路線を飛んだ。北の集落、東の農家、山の研究者。受取人の顔が見えた。手紙を渡した。両手で受け取られた。
ヴェルナーは山の稜線をよく見ていた。竜の気配がする、と相変わらず嬉しそうに言った。
北の集落の女性には、今日は手紙がなかった。
ミリアは届けられる手紙がないことを告げた。
「来週にはあるかもしれません」
「そうね」
女性は朗らかな表情で言う。
「待っていますよ。それが私の仕事だから」
ミリアは飛び立った。
帰り道、ポストが言った。
「飛べたな」
「飛べた」
「明日も飛ぶか」
「飛ぶ! 手紙がある限り」
北方の春の空が広がっていた。アルトはもういない。しかしアルトが残したものが、今も動いている。王女が書いた手紙が、遅れながら世界を変えている。
ミリアはその空の下を飛んだ。
重い鞄を背負って。届けるべき手紙を持って。




