第十七章 最後の配達
北方に戻ったのは翌日の夕方だった。
峠を越えて、平野を飛んで、山を越えて、針葉樹の森が見えてきた時、体の中で何かが緩んだ。緊張していたのだと、帰り道に気づいた。行きは緊張していることにも気づかないほど、気持ちが前を向いていた。
局に降り立つと、ロアンが縁側にいた。
今日は空を見ていなかった。扉の方を向いて、待っていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました。届けてきました」
「そうか」
それだけだった。
ロアンは扉を開けて中に入った。夕飯の準備をする音が聞こえた。
ミリアはポストを下ろして、縁側に腰を下ろした。
空が暗くなっていた。星が出始めていた。三月の星は、冬の星より少し高い場所にある気がした。
「ポスト」
「なんだ」
「届けた」
「届けた」
「アルトさんが動く。今日の午後から、和平のための動きを始めると言っていた」
「そうか」
「うまくいくといいんだけど」
「うまくいくかどうかは分からない」
「分かってる」
ミリアは星を見た。
未来の手紙が内ポケットにあった。
届けてはいけない、という警告。それでも届けてよかった、という結論。
警告の方はもう来た。届けてしまった。しかし結論の方の意味は、まだ完全には分かっていなかった。
翌週から、日常の配達が続いた。
北の集落、東の農家、山の研究者。いつもの路線をいつもの順番で回った。受取人の顔が分かった。どの家に犬がいて、どの家の主人が話し好きで、どの家が留守がちか。半年近く通ってきて、路線がすっかり体に馴染んでいた。
南の状況は続いていた。
本局からの通達は来ていた。緊張が続いている、衝突があった、外交交渉中、という内容だった。しかし全面的な戦争にはまだなっていなかった。
アルトが動いているのかもしれない、とミリアは思った。しかし確認する術はなかった。
北の集落の女性への手紙は、三月に入って一通来た。
女性は封筒を受け取った時、前回のように泣かなかった。ただ静かに、両手で持って、「ありがとう」と言った。
その顔が、前より落ち着いていた。待つことに慣れた顔だった。
三月の終わりに、ロアンが珍しいことを言った。
夕飯の後、かまどの前で茶を飲んでいた時だった。
「ミリア」
「はい」
「来月で半年になるな」
ミリアは少し考えた。
「そうですね。九月の終わりに来たから」
「半年、ここで飛んだ」
「飛びました」
「どうだった」
ミリアはお茶をすすった。
すぐに答えが出なかった。半年間の配達が、頭の中を流れていった。ヴェルナーへの手紙、エリスの父親の手紙、カレンへの手紙、保留の手紙、王女からアルトへの手紙。
「想像していなかったことが、たくさんありました」
「想像していなかった、というのは」
「こんなに色々な手紙があるとは思っていなかった。こんなに色々な人がいるとは思っていなかった。手紙を届けるたびに、知らない人の人生に少しだけ触れる。それが毎回、違う」
「そうだな」
「最初は、能力のせいで郵便魔女になるしかなかったと思っていた。今は、この仕事に向いていたのかもしれないと思ってます」
ロアンは茶を飲んだ。
「向いている。最初から思っていた」
「え」
「お前が来た日に、鞄を渡した。あの鞄を持った時、重いと言った。手袋越しでも感じた」
「はい」
「接触感応の能力を持つ魔女が、手紙の重さを感じる。それは、郵便に向いている証拠だ」
「最初からそう思っていたなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「言っても信じなかっただろう。自分で知るまでは、言葉では届かない」
ミリアはそれを聞いて、少し笑った。
「それも、手紙みたいですね。受け取る準備ができていないと、届かない」
「そうだな」
ロアンは珍しく、少し笑った。皺だらけの顔に、柔らかい笑みが浮かんだ。
その夜、ミリアはポストに尋ねた。
「ポスト、私はもう一人前?」
「覚悟はできた。だが経験が足りん」
ポストはそれだけ言った。
四月になった。北方にも春が来た。雪が解けて、土が出てきた。木の芽が出始め、朝の空気が柔らかくなり、鳥の声が増えた。
飛びやすくなった。気流が安定して、視界が開けた。冬の間縮こまっていた空が、春になって広がった気がした。
配達の量は春になって増えた。冬の間、馬車が止まっていた地域の手紙が一度に来た。春の最初の週は、毎日いつもの倍の量を飛んだ。
ミリアは疲れなかった。疲れないわけではなかったが、飛んでいる時の充実感が疲れを上回っていた。
四月の第二週の木曜日だった。本局便の仕分けをしていると、ポストが伝えた。
「来ている」
「何が」
「見ろ」
ミリアは仕分けの手を止めた。束の中を確認した。
一通、隣国の消印の封筒があった。
宛先はミリア・ヴェルン宛だった。
差出人は、アルト・フォン・アルトベルク。
「アルトさんから」
「そうだ」
ミリアは封を切った。
読んだ。
ミリアへ。
手紙が届いているといい。外交経路を使っているが、確実ではないので。
先月、和平交渉を正式に提案した。父である王に直接話した。最初は反対された。しかし話し合いは続いている。まだ結論は出ていない。
反対する勢力は強い。しかし賛成する人間も、少しずつ出てきた。
一つだけ、あなたに話したいことがある。
あの手紙を届けてくれた日、あなたは言った。書いた人が、それだけの覚悟で書いたと思ったから届けた、と。
その言葉が、わたしの支えになっている。
誰かが覚悟を持って書いた言葉は、届いた後も生き続ける。あなたはそれを知っていて、届けた。
私も、覚悟を持って動こうと思っている。
結果がどうなるかは分からない。しかし動かなければ、何も変わらない。
どうか元気でいてほしい。また手紙を書く。
アルト
ミリアは手紙を膝の上に置いた。
「和平交渉を始めた」
「そうだ」
「王に直接話した」
「なかなかできることではない」
「反対されながら、続けている」
「続けているようだ」
ロアンが棚から振り返った。ミリアに手紙を見せた。ロアンは黙って読んで、返した。
「届けてよかった」
ミリアは呟く。
「そうだな」
ロアンは反応する。
「あの手紙が、アルトさんを動かした。アルトさんが動いて、交渉が始まった」
「手紙が世界を動かすことがある。わしが若い頃に知ったことだ」
「ロアンさんの手紙も、そうだったんですね」
「そうだった。一通の手紙が、最初の一手になった」
ミリアはアルトの手紙を大切に折って、内ポケットに入れた。エリスの手紙と、未来の手紙と、同じポケットに。
その週の最後の配達日、ミリアは東の路線を飛んでいた。
春の空は高く、青が深かった。白い雲が遠くに浮かんでいた。
ポストが突然呼んだ。
「ミリア」
「なんだ」
「一つ聞く」
「うん」
「届けない方がよかった手紙があったと思うか」
ミリアは少し考えた。
「今まで届けてきた全部を振り返ると?」
「そうだ」
「ないと思う。後悔した手紙はない」
「カレンへの手紙も」
「カレンさんは怒っていた。でも届いてよかったと言った」
「老婆の手紙は」
「あれは届けられなかった手紙だ。届けようとして、届けられなかった」
「届けようとしたことは後悔しているか」
「していない。受け取って、保管した。それが今できることだった」
「王女の手紙は、未来の警告があったのに届けた。それは後悔していないか」
ミリアは少し間を置いた。
「まだ結果が出ていない。アルトさんは動いている。交渉中だ」
「結果によっては後悔するかもしれない」
「するかもしれない。でも今の時点では、届けてよかったと思ってる」
「それでいい」
「なんでそれを聞いたの?」
ポストは少し間を置いた。
「お前が半年でどう変わったか、確認したかった」
「確認して、どうだった」
「変わった」
「どう変わった」
「最初は届けるしかないから届けていた。今は届けたいから届けている。それが一番大きな変化だ」
「前に私が言ったことだ」
「お前が言ったことが、本当にそうなっているか確認した」
ミリアは少し笑った。
「ポスト、なんか最近、話し方が変わった」
「そうか」
「最初より、少し柔らかくなった」
「そんなことはない」
「ある。最初は半人前だって言ってた」
「言った」
「今は?」
ポストは間を置いた。
「まだ半人前だ」
「それは変わらないんだ」
「しかし、いい半人前になった」
ミリアは笑った。
空の上で、声に出して笑った。久しぶりに、腹の底から笑った。
ポストは何も言わなかった。しかし少し、満足しているような気配があった。
四月の末、南からの通達が来た。内容は短かった。
隣国において、和平派の王族が正式な和平提案を行った。双方の政府間で協議が始まっている。国境の緊張は依然として続いているが、全面戦争は回避される可能性が出てきた。
ロアンはその通達を読んで、棚にしまった。
「アルトさんだ」
ミリアは呟く。
「そうかもしれない」
「和平派の王族が動いた。提案を正式にした」
「そうだな」
「届けた手紙が、これに繋がった」
「そうかもしれない。しかし一通の手紙が全てを動かしたわけではない。多くのことが重なって、提案が出た」
ロアンは伝える。
「でも、最初の一手は」
「あるいはそうだ」
ミリアは通達を見た。
短い文書だった。しかしその背後に、多くの人の動きがあった。王女が雨の夜に書いた手紙。アルトが受け取って決意した手紙。ミリアが峠を越えて届けた手紙。
「ロアンさん」
「なんだ」
「手紙が世界を変えることがある、って言っていましたね。若い頃に知ったって」
「言った」
「今も、変えているかもしれない」
「そうかもしれない」
「ロアンさんはそれを、何度も見てきたんですね」
「三十年の間に、何度か。大きなことは少ない。しかし誰かの人生を変える手紙は、毎回ある」
「毎回」
「毎日届けていれば、毎回だ」
ミリアはその言葉を聞いて、少し黙った。
毎日届けている。毎回、誰かの人生に触れている。それが半年続いた。
「もう少し続けたいと思います、ここで」
「そうか」
「追い出しますか」
「追い出さない。ここの路線の手紙は、お前の方がわしより速く届けられるようになった。追い出す理由がない」
五月になった。北方は完全に春になった。緑が増えて、川の水量が増えた。牧草地に花が咲いた。空が明るくなった。ミリアは今日も飛んでいた。
いつもの路線。いつもの受取人。いつもの手紙。
東の農家への一通を届けて、次は北の集落へ向かった。
北の集落の女性への手紙が今日の束の中にあった。
息子からだった。
女性は封筒を受け取った。両手で持った。表書きを確認した。
「元気だって、分かりますか?」
ミリアは思わず聞いた。
女性は封筒を見たまま、少し間を置いた。
「重さで分かる。厚い手紙の月は、元気なんです」
「今日は?」
「厚い。今日は、厚い」
女性はそう言って微笑む。
ミリアは飛び立った。
高度を上げながら、春の北方を見下ろした。緑の森と、花の咲く牧草地と、増水した川と、点在する村。その全部に、今日も手紙が届く。
「ポスト」
「なんだ」
「今日も飛んでいる」
「そうだ」
「明日も飛ぶ」
「そうだろうな」
「それだけで、十分だ」
ポストは何も言わなかった。
言わなかったが、重さが少し変わった気がした。背中のポストの重さが、今日は特別に感じられた。
届けるべき手紙がある。届けたい人がいる。空がある。
それだけが、今のミリアには十分だった。
しかしそれは、続かなかった。




