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空を渡る魔女と、遅れて届く手紙  作者: 明石竜


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第十六章 決断

 翌朝、夜明け前に飛んだ。

 空はまだ暗かった。星が残っていて、東の端だけが白くなり始めていた。三月の朝の空気は二月より少しだけ柔らかかったが、高度を上げると冷えた。ミリアは防寒の上着を着込んで、耳当てをして、手袋を二重にした。

 ロアンはまた縁側に出て見送っていた。

 今回も何も言わなかった。

 ミリアも何も言わなかった。

 飛び立つ前に一度だけ振り返った。ロアンの顔が、夜明け前の薄暗さの中でも分かった。心配している顔ではなかった。ただ、見送っている顔だった。

 それで十分だった。


 南へ向かった。昼前に国境の手前まで来た。峠への分岐点で、一度止まった。

 検問を通っていくか、峠を越えていくか。

 前回は検問を通った。しかし今回は状況が違う。国境の緊張が高まっている。郵便魔女の証明書があっても、止められるかもしれない。止められた時、この手紙を見せれば、没収される可能性があった。

「ポスト」

「なんだ」

「峠を行く」

「そうか」

「検問は通らない。止められて手紙を取られるより、遠回りでも届けたい」

「正しい判断だ。峠は北から入れ。南から入ると気流が正面から来る。ロアンが言っていた通り、斜めから入れ」

「分かった」

 峠に向けて高度を上げた。

 試験塔で魔力を乱した日のことを、不意に思い出した。

あの時の私は、乱れた先で何も届けられなかった。

でも今は違う。乱れても、届けたい場所がある。

 山が近づいた。冬の終わりの山は、雪がまだ残っていた。頂上付近は白く、斜面の途中から雪が消えて茶色い岩肌が見える。峠はその中腹にあった。地図で確認した場所に、岩が削れた細い隙間が見えた。

 気流が来た。横から強い風が当たった。箒が揺れた。ミリアは低く姿勢を落として、風に対して斜め四十五度の角度で箒を向けた。ロアンのアドバイスを思い出した。正面から入るな。斜めから。入った。峠の中は風の通り道だった。両側から岩が迫って、風が圧縮されて速くなっていた。ミリアは速度を落として、岩壁に近づきすぎないように慎重に進んだ。

 ポストが揺れた。

「揺れるな」

「揺れているのは箒だ」

「しっかり掴め」

「掴んでる」

 峠の最も狭い部分を通過する時、横風が急に強くなった。箒が右に流された。ミリアは反射的に魔力を左側に集めて、軌道を戻した。一秒もかからなかった。

 抜けれた。峠の向こう側に出た瞬間、景色が変わった。

 隣国の側の斜面は、こちら側より緑が多かった。雪が少なく、低い木が斜面を覆っていた。遠くに平野が見えた。

「越えた」

「越えた。よくやった」

「褒めてくれるの、珍しい」

「褒めていない。事実を言った」


 午後、王都への空路に入った。しかし様子がおかしかった。

 上空から見る景色が、前回と違っていた。街道を行き来する人の数が多かった。馬車だけでなく、荷を背負った人の列が、王都から外へ向かっていた。

「ポスト、人が移動している」

「見える。避難しているのかもしれない」

「避難」

「戦争になりそうな気配があれば、人は動く。街の外へ出ようとする」

 ミリアは高度を落とした。街道の人の流れを見た。家族連れが多かった。子どもを連れた母親、荷車を引く老人、急ぎ足の若者。みんな同じ方向へ向かっていた。王都から離れる方向へ。

「もうすぐ戦争になるの?」

「分からない。しかし人が動き始めた。それは何かが近いということだ」

 ミリアは急いだ。

 王都の屋敷街に近づいた時、以前と違う雰囲気があった。門に立つ兵士が増えていた。通りを行く人が少なかった。静かすぎる静かさがあった。

 アルトベルク家の前に降り立った。

 門番が今回は二人いた。前回の若い兵士ともう一人の年配の兵士。二人ともミリアを見た。

「郵便です。アルト・フォン・アルトベルク様宛の手紙をお届けに参りました」

 年配の兵士が前に出た。

「郵便魔女か。どこから来た?」

「北方から参りました」

「北方から、今この時期に、わざわざ来たのか」

「はい。お届けすべき手紙がありましたので」

 兵士は少し間を置いた。

「アルト様はお会いになれる状況ではないかもしれない。待てるか」

「待てます」

 門の中に入れてもらった。前回通された中庭ではなく、門の内側の小さな詰め所のような部屋に案内された。椅子が一つあった。

 

 どのくらい待ったか、十分か二十分か。扉が開いた。

 アルトだった。前回より疲れた顔をしていた。目の下に影があった。服装は前回と同じ軽装だったが、少し乱れていた。急いで来た様子だった。

 ミリアを見た瞬間、表情が動いた。

「来たのか」

「お手紙をお届けに参りました」

「よく来られた。国境の状況は」

「峠を越えてきました。検問は通らずに」

 アルトは少し目を細めた。

「峠を、一人で?」

「はい」

「それは……ありがとう」

 ミリアはポストから封筒を取り出して、アルトに渡した。

 アルトは両手で受け取った。

「また届いた」

「差出人不明でしたが、本局経由で届きました」

「そうか」

 アルトは封蝋を見たまま動かなかった。

 ミリアは少し離れた場所に立って、待った。

「あなたに聞いてもいいか?」

「はい」

「前回届けてくれた手紙。あなたは記憶が見えると言っていた」

「少し見えました」

「今回も?」

「見えました。差出人の方が、雨の夜に書いていました。何度も書き直して、最後の一行を書いた時、少し笑っていました」

 アルトは封蝋から目を上げてミリアを見た。

「笑っていたか」

「はい。最後の一行だけ、少しだけ」

 アルトは封筒を持ったまま、ゆっくりと深く息を吐いた。

「封を切ってもいいか。ここで」

「もちろんです」

 アルトは封蝋を丁寧に外した。破かないように、蝋の部分だけを剥がした。大切にしている仕草だった。

 紙を取り出すと、読み始めた。

 ミリアは視線を外した。窓の外の中庭を見た。噴水の台座が、前回と同じ場所にあった。しかし今日は人が通り過ぎていた。使用人が急ぎ足で行き来していた。

 部屋の外で、遠くに声が聞こえた。

 ざわめきのような声だった。何かが起きているような気配があった。

 アルトが読み終えると紙を持ったまま、しばらく動かなかった。

「これは……勇気のある手紙だ」

 ミリアは振り返った。アルトの顔に、前回なかったものがあった。決意のようなものだった。疲れた目の奥に、何かが灯った顔だった。

「届けてくれてありがとう」

「届けるのが仕事ですので」

「いや、あなたが届けなければ、今日ここに届かなかった。それは仕事以上のことだ。前回も、今回も」

 ミリアは何も言えなかった。

「あなたに言いたいことがある。郵便魔女に言うべきことではないかもしれないが」

「聞きます」

「この手紙に書いてあることを、私はやろうと思っている。和平のための動きを、正式に始める。今日の午後、動く」

「そうですか」

「うまくいくかどうか分からない。反対する人間は多い。危険もある」

「分かっています」

「それでも、この人が、遅れてもいい、届きますように、と言って出した手紙が届いた。それを受け取って、動かなければ、私はこの人に顔向けができない」

 ミリアは目の奥が熱くなった。

 三月の朝に感じた熱さが、また来た。今度はもっと強かった。

「差出人の方の気持ちが、届きました」

「届いた。確かに届いた」


 帰り際、アルトが門まで送ってきた。前回と同じだった。しかし今回のアルトは、前回より何かが違った。表情に重さがあった。決意を持った人間の重さだった。

「また手紙が来たら届けてくれるか」

「来たら届けます」

「お願いしたい」

 ミリアは飛び立った。高度を上げながら振り返った。

 アルトが門の前に立って、空を見上げていた。前回と同じように。しかし今日の立ち方は前回と違った。まっすぐ立っていた。空を見上げる目に、前回なかった光があった。

 ミリアはそれを見て、今日来てよかったと思った。

 迷った。怖かった。未来の手紙の警告もあった。それでも届けた。

 アルトが動く。和平のために動く。それがどういう結果になるかは、まだ分からない。

 しかし届けなければ、何も始まらなかった。


 峠の手前まで来た時、ポストが呼んだ。

「ミリア」

「珍しい。名前で呼んだ」

「たまには呼ぶ」

「何?」

「よくやった」

 ミリアは少し笑った。

「さっきも言った。事実を言っただけだって言うんでしょ」

「今回は違う。褒めている」

 ミリアは少し驚いた。

「本当に?」

「本当だ」

 ミリアは前を向いた。峠が近づいていた。夕暮れの光が山の稜線を染めていた。

「ポスト」

「なんだ」

「届けてよかった。今日は、特にそう思う」

「そうだな」

「エリスちゃんのお父さんの手紙を届けた時、ヴェルナーさんに届けた時、カレンさんに届けた時。全部、届けてよかったと思った」

「そうだな」

「でも今日は、それが全部一緒に来た感じがする」

「どういう意味だ」

 ミリアは考えながら言った。

「あの人たちの顔を見てきた。手紙を受け取った時の顔を。それが今日、アルトさんの顔を見た時に、全部思い出された」

「そうか」

「手紙が人を変えるのを見た。遅れて届いた手紙が、人を前に進ませるのを見た。だから」

「だから?」

「だから私は届ける。仕事だからじゃなくて。郵便魔女の原則だからじゃなくて。それを見てきたから、届けたいと思う」

 ポストは黙っていた。

 しばらく、峠の風の音だけがした。

「それが答えだ」

「うん」

「最初にここに来た時、お前は届けるしかないから届けると思っていた」

「そうだった」

「今は違う」

「違う。届けたいから届ける」

 峠に入った。気流が来た。横風が強かった。ミリアは体を低くして、斜めに角度をつけて入った。揺れた。

 しかし前回より安定していた。体が覚えていた。

 抜けた。こちら側の空に出た。北方の冷たい空気が頬に当たった。

 星が出始めていた。

「帰れる」

「帰れる」

 ミリアとポストは、そう呟いて、北へ向けて飛んだ。

 ロアンが待っている。帰る場所がある。

 今日届けた手紙が、アルトを動かした。

 それがどういう結果になるかは、まだ分からない。

 しかし未来の手紙の最後の一行が、今日のミリアには少しだけ近く感じられた。

 それでも、届けてよかった。その意味が、今日は少しだけ分かった。

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