第十四章 王子
一月になった。新年が来ても北方の冬は変わらなかった。むしろ深くなった。一月の寒さは十二月より厳しく、朝に水を汲もうとすると桶に氷が張っていた。ロアンは起き抜けに必ず外の空気を確認して、今日は飛べると判断してからミリアに配達を出した。飛べない日が、月に二、三日あった。
その飛べない日に、ミリアは局の中で過ごした。
倉庫の整理は三箱全部終わっていた。台帳の書き写しをしたり、路線の地図を書き直したり、ロアンが古くなって読みにくくなった配達記録を清書したりした。それが終わると、ポストと話した。南の状況は変わらなかった。
本局からの通達は月に一度来るようになっていた。国境付近の緊張が続いている。一時的な衝突があった。双方に死者が出た。しかし全面的な戦争にはまだなっていない。
ミリアは通達を読むたびに、北の集落の女性の顔を思った。息子の手紙を毎月数えている女性。今月は何通来たのだろう、と思った。
一月は一通だった。
その週の木曜日の本局便に、一通だけ国境を越えてきた手紙があった。
隣国の消印がついていた。ミリアは仕分けをしながら、その封筒を見た。
宛先は北方十三分局のミリア・ヴェルン宛だった。
差出人はアルト・フォン・アルトベルク。
「ポスト」
「見えた」
「どうして届いた。国境を越える配達は停止しているのに」
「外交郵便の経路を使ったのだろう。王族の手紙は別の経路がある」
「開けろ」
ロアンに言われ、ミリアは封を切った。中に一枚の紙があった。アルトの字は整っていた。急いで書いた様子はなかった。丁寧に、しかし短く書かれていた。
ミリアへ。先日は手紙を届けてくれてありがとう。届いた手紙のことは、あなたに話せる段階ではないが、届いてよかったと思っている。国境の状況は知っているだろう。こちらからそちらへの手紙も、通常の経路では届かない。この手紙が届くかどうか分からないまま書いている。届いたなら、それだけで十分だ。一つだけ伝えたいことがある。空を飛べる人は羨ましいと言った。今もそう思っている。しかし同時に、地上にいる人間にしかできないことがある、とも思うようになった。あなたが届けてくれた手紙が、それを教えてくれた。
どうか元気でいてほしい。
アルト
ミリアは手紙を膝の上に置いた。
「読めたか」
ポストが尋ねる。
「読めた」
「どんな内容だった」
ミリアは手紙をロアンに渡した。ロアンが読んだ。読み終えて、返した。
「地上にいる人間にしかできないことがある、と書いてあった」
「届けた手紙が、何かを変えたのかもしれない」
「そうかもしれない。でも何を変えたのかは書いていない」
「それはあちらの事情だ。分からなくていい」
「うん。でも」
「でも?」
「なんか、続きが気になる。アルトさんが地上でどういう動きをしているのか」
「それは郵便魔女の仕事の範囲外だ」
「分かってる。でも思ってしまう」
「それはお前が丁寧に届けたからだ」
「またそれを言う」
「事実だからだ」
二月に入った。本局から、南方への長距離配達の制限が一部解除されたという通達が来た。一部、というのは国境のこちら側についてだった。国境を越える配達はまだ停止したままだったが、南方の町や城下町への配達は再開された。その週に、南方からの手紙が二通、ミリアの路線に届いた。一通は北の集落の女性への、息子からの手紙だった。
女性は封筒を受け取った時、泣いた。玄関先で、声を出して泣いた。
「生きていた」
女性はそれだけ言って、家の中に入った。
ミリアは飛び立ちながら、鼻の奥が熱くなるのを感じた。泣かなかった。しかし熱かった。
「ポスト」
「なんだ」
「よかった」
「そうだな」
「手紙が届いて、よかった」
「そうだ」
二月の半ばに、本局から招集の通達が来た。
南方の中継局での会議に、各分局の担当魔女が集まることになった。南の状況について、配達の調整をするためだという。ロアンは行けなかった。
「足腰が」
ロアンはそれ以上言わなかった。
「私が行きます」
「そうしろ。ただし、一人で長距離を飛ぶのは慣れているが、会議は別だ。余計なことは言うな」
「余計なことって」
「保留の手紙を届けたこと、倉庫の手紙を探したこと、そういうことだ」
「規則外のことをした、ということですか」
「本局によってはそう判断する者もいる。お前のやったことは間違っていない。しかし会議の場で説明する必要はない」
「分かりました」
南方の中継局までは一日の距離だった。飛んでいると、景色が変わっていった。北方の針葉樹の森が広葉樹に変わり、雪が減り、空気が少し温かくなった。南に行くほど春が近かった。
中継局は大きな建物だった。北方十三分局の何倍もある石造りの局で、多くの魔女が出入りしていた。会議室に通されると、すでに十数人の魔女が座っていた。ミリアより年上の魔女がほとんどだった。五十代、六十代の魔女が多く、ミリアが一番若かった。
本局の担当者が説明をした。南の状況。国境の緊張。配達可能な経路と、不可能な経路。戦争になった場合の対応。ミリアは聞きながら、地図を確認した。国境のこちら側の経路と、向こう側の経路。向こう側はほとんどが赤く塗られていた。配達不能区域だった。
説明の後、質問の時間があった。ミリアは手を挙げた。
「国境を越えての配達は、全面停止のままですか」
「現状はそうです」
担当者は答えた。
「外交郵便の経路は」
「それは外交担当の管轄になります。郵便局の範囲外です」
「戦争になった場合、こちら側の南方の配達も止まりますか」
「戦況によります」
隣に座っていた年配の魔女が、ミリアを見た。
「北方から来たの?」
「はい。北方十三分局のミリア・ヴェルンです」
「ロアンの局か。ロアンは元気?」
「足腰が弱っていますが、元気です」
「あの人が来られないほどになったか。長く飛んでいた人だからな」
魔女は寂しそうに呟く。
「ロアンさんを知っているんですか?」
「昔、同じ時期に飛んでいた。あの人は長距離が得意で、わしらが行けないところまで飛んでいた」
「戦争中も飛んでいたと聞きました」
魔女は少し黙った。
「聞いたか。あの話は」
「少しだけ。和平を求める手紙を届けたと」
「あの頃は無茶をした魔女が多かった。ロアンだけじゃない。戦場の近くまで飛んだ魔女もいた。帰ってこなかった魔女もいた」
「帰ってこなかった」
「戦争中の空は、今より危険だった。今も十分危険だが」
会議が再開された。ミリアは地図を見ながら、帰ってこなかった魔女のことを考えた。
会議が終わったのは夕方だった。翌日に帰る予定で、中継局の近くの宿を取った。
夕食を終えて部屋に戻った時、ポストが言った。
「会議で聞いたことを整理しろ」
「今日聞いたことで、一番気になったのは、帰ってこなかった魔女のことです」
「そうだな」
「戦争中の空を飛んで、帰ってこなかった。それは、死んだということ?」
「そうだろうな」
「手紙を届けるために死んだ」
「そうかもしれない。あるいは届けようとして、届けられなかったかもしれない」
ミリアは窓の外を見た。南方の夜は北方より暗さが柔らかかった。星の数も多く見えた。
「ロアンさんは帰ってきた」
「帰ってきた」
「なぜ帰ってこれたんだろう」
「さあな。運もあっただろう。判断もあっただろう。それはロアンに聞け」
「聞けない」
「なぜ」
「まだ聞く時期じゃない気がして」
「それもお前の判断だ」
ミリアはポストを見た。
「ポスト、今の状況で、南に飛ぶことになったらどうする」
「なったらなった時だ」
「怖くない?」
「私は鞄だ。怖いという感情があるかどうか分からない」
「でも今まで、危険な場所に飛んだことはある?」
「ある」
「怖かった?」
ポストは少し間を置いた。
「帰らなければ、という気持ちはあった。帰るべき人間を、帰らせなければという気持ちが」
「それが、ポストの怖さ」
「そう呼べるかもしれない」
ミリアは少し考えた。
「ロアンさんに頼まれたって言ってたね。無事に帰すことを」
「言った」
「ロアンさんはなぜポストに頼んだんだろう。ポストが一緒にいれば帰れると思ったから?」
「さあな」
「さあなばかり」
「分からないことはそう言うしかない」
ミリアは横になった。
天井を見た。
明日、北方に帰る。また手紙を届ける。南の状況は変わらない。いつか全面的な戦争になるかもしれない。ならないかもしれない。
その間も、手紙は来る。
届けるべき手紙が、毎日来る。
「ポスト」
「なんだ」
「未来の手紙の警告。あれが何を指しているのか、少しずつ分かってきた気がする」
「どういう意味だ」
「南の状況と、アルトさんのことと、ロアンさんの話と。全部が繋がっている気がする」
「繋がっているかもしれない」
「届けてはいけない手紙。大切な人が死ぬ」
「それが何なのかは、まだ分からない」
「まだ分からない。でも近づいている気がする」
「近づいているかもしれない。しかし今夜は眠れ」
「うん」
「明日も飛ぶ。明日も飛ぶ」
ミリアは繰り返した。
目を閉じた。
南方の夜は静かだった。北方より柔らかい静かさだった。
眠れた。
翌日、北方へ帰る空路で、ミリアは一度だけ南の方角を見た。
遠く、雲が厚く重なっていた。
その下のどこかに、アルトがいる。
地上にいる人間にしかできないことがある、と書いてきた人が、今何かをしている。
ミリアには見えない。
しかし確かに、何かが動いている。
「ポスト」
「なんだ」
「帰ったら、ロアンさんにお土産を買ってくればよかった」
ポストは少し間を置いた。
「それだけか」
「それだけ」
「呑気だな」
「呑気じゃないと、怖くて飛べない」
ポストはそれ以上何も言わなかった。
ミリアは北へ向けて飛んだ。
北方の冬の空が、前方に広がっていた。針葉樹の濃い緑と、白い雪と、深い青の空。
帰る場所がある、とミリアは思った。
それが今は、十分だった。




