第十三章 国境
十二月になった。北方の冬は深くなり、空気が研ぎ澄まされた。朝に飛ぶと、遠くの山の稜線が手で触れられそうなほどはっきり見えた。空気に余分なものがなくなる季節だった。
配達の数は増えていた。ロアンの言っていた通りだった。雪で馬車が動けなくなった地域の手紙が、空路に回ってくる。本局便の束が厚くなり、ミリアの一日の飛行距離が伸びた。
体が慣れてきていた。秋の初めに北方に来た時、長距離を飛ぶと翌日に疲れが残った。今は二泊の距離を飛んでも、翌日の配達に影響がなくなっていた。箒への魔力の流し方が体に馴染んで、無駄な消費が減った。ロアンは何も言わなかった。
しかし木曜日の仕分けを終えた時、一度だけ「飛び方が変わった」と言った。それだけで、また棚の整理に戻った。
その週の本局便に、一通、南方の消印がついた手紙があった。
宛先はこの国の北方の村だった。路線の範囲内で、ミリアが担当する届け先だった。差出人は南の城下町の住所。仕分けをしながら、ミリアはその手紙を少し長く見た。
南の城下町。アルトへの手紙を届けに行った時、国境を越えた。あの緊張感を思い出した。兵士の顔、台帳への記録、封筒の確認。
「ポスト、最近、南の方の様子はどうなの」
「緊張が続いている。小競り合いが増えていると聞いた」
「手紙は届いているの、国境を越えて」
「今のところは届いている。しかし止まるかもしれない」
ロアンが手紙の束から顔を上げた。
「南の話か」
「はい。最近、情報が入ってきますか」
「本局からの通達が増えた。国境付近の配達について、注意するよう書いてあった」
「どんな注意ですか」
「国境を越える手紙は、検問で止まる可能性がある。無理に届けようとするな、と」
ロアンの忠告。ミリアは少し考えた。
「アルトさんへの手紙は、届いているんだろうか」
「さあな、それはわしらには分からない」
その日の配達に出た。南方の消印の手紙を含む六通を持って飛んだ。北の集落、東の農家、山の研究者。いつもの路線を回って、最後に南方からの手紙の届け先へ向かった。
届け先は北方の村の端にある小さな家だった。石造りの一階建てで、庭に干し草が積んであった。扉をノックすると、中年の女性が出てきた。
「郵便です」
女性は封筒を受け取った。表を見た。顔が複雑に動いた。嬉しさと、心配が混ざった表情だった。
「南から、ですね」
「はい。南の城下町からの消印です」
「息子からです。兵士をしているので」
「そうですか」
「元気でいると思うんですが、最近手紙が減っていて」
ミリアは何も言えなかった。
「これで今月は一通。先月は二通でした。その前は三通だったので」
減っている、ということは言わなかった。しかし数えていた。毎月、届いた手紙の数を。
「ありがとう。遠くから届けてくれて」
「届けるのが仕事ですので」
女性は封筒を胸に当てて、家の中に戻った。ミリアは飛び立った。
帰り道、ミリアは今日の配達を頭の中で振り返りながら飛んだ。
「ポスト」
「なんだ」
「あの人、毎月の手紙の数を数えていた」
「そうだな」
「三通が二通になって、一通になった。それが何を意味するか、分かっているんだと思う」
「分かっているだろうな」
「それでも数えている」
「そうだ」
ミリアは前を向いた。冬の空が白く広がっていた。南の方角に雲が厚く集まっていた。
「南の方で、戦争になりそうなの?」
「本局の通達が増えている。ロアンが言っていた通りだ」
「戦争になったら、手紙が届かなくなる」
「国境が閉まれば止まる。戦場になれば届けられなくなる」
「あの人の息子さんも」
「最前線にいれば、手紙を書く余裕もなくなる。書けても、届かなくなる」
ミリアは下を見た。白い雪の平野が続いていた。どこまでも続いていた。その南の端のどこかで、今、何かが起きている。手紙の数が減っていく理由がある。
「郵便魔女は、戦争中でも飛ぶの?」
「飛ぶ魔女もいる。飛べなくなる魔女もいる。戦場の近くへは行けない」
「ロアンさんは戦争中に手紙を届けたって言ってた」
「言っていた」
「どうやって届けたんだろう」
「それはロアンに聞け。ただ、あの人が若い頃の話だ。今のロアンには飛べない距離がある」
局が近づいてきた。ロアンが縁側にいた。いつものように空を見ていた。しかし今日は南の方角を見ていた。ミリアが降り立つと、ロアンはゆっくりとこちらを向いた。
「全部届けたか」
「全部届けました。北の集落の奥さんへの手紙も」
「そうか」
「息子さんが兵士だそうです。手紙の数が減っているって」
「知っている。去年は毎月四通来ていた」
「今年は?」
「今年は月に一通か二通になった」
ミリアは南の空を見た。
「ロアンさん、戦争になりそうですか」
「なりそうだ」
「手紙は」
「止まるかもしれない。国境が閉まれば止まる」
「止まったら」
「止まったら、届けられない手紙が増える。それだけのことだ」
それだけのことだ、という言い方が、今日はいつもより重く聞こえた。三十年間、ロアンが届けてきた手紙の重さが、その一言に込もっているような気がした。
夕飯の後、ミリアはかまどの前に座ってポストと話した。
ロアンは早めに二階に上がった。最近は夜が早い。
「ポスト」
「なんだ」
「南の様子を、もう少し教えて」
「私が知っていることは多くない。本局からの通達と、ロアンが話していたことから推測できることだけだ」
「それでいい」
「この国と隣国の間で、国境の小競り合いが続いている。どちらの国にも、戦争を望む勢力がある。和平を望む勢力もある。今はその綱引きをしている状況だ」
「和平を望む勢力の中に、アルトさんがいる」
「そうかもしれない。次男だが、王家の血がある。発言力はある」
「あの手紙が、和平に関わる手紙だったとしたら」
「そうだとしたら、届けてよかったことになる」
「でもまだ分からない」
「まだ分からない」
ミリアは内ポケットの手紙を意識した。未来の自分の警告。届けてはいけない手紙がある。大切な人が死ぬ。その手紙が何なのか、まだ分からない。
「ポスト、未来の手紙に書いてあった特定の手紙って、この状況と関係があるのかな」
「あるかもしれない」
「南の状況が、これからもっと緊迫していく。その中で、ある手紙が届けられることになる」
「そうなるかもしれない」
「そしてその手紙を届けることで、大切な人が死ぬ」
「未来のお前はそう書いた」
ミリアはかまどの火を見た。炎が揺れていた。
「怖い」
「そうだな」
「大切な人が誰なのかも分からないまま、近づいていく感じがする」
「近づいていくのは止められない」
「止められない」
「時間は進む。手紙は届く。それが止まることはない」
ミリアは立ち上がった。窓の外を見た。雪が降り始めていた。静かな雪だった。風がなく、真っ直ぐ落ちてくる雪が、夜の暗さの中で白く見えた。
「ポスト」
「なんだ」
「今できることをやる」
「そうだ」
「南の状況が悪くなるかもしれない。手紙が届かなくなるかもしれない。大切な人が死ぬかもしれない。でも今は、今の手紙を届けるしかない」
「それだけのことだ」
「それだけのことだ」
ミリアは繰り返した。自分で言って、少し落ち着いた。今できることをやる。今の手紙を届ける。分からないことは、分かった時に考える。ロアンが三十年やってきたこと。分からないまま飛ぶこと。それがミリアの飛び方でもあった。
翌朝、本局から通達が来た。ロアンが受け取って、ミリアに見せた。
短い文書だった。国境付近の配達を一時的に制限する。南方への長距離配達は本局の許可が必要になる。国境を越える配達は当面停止する。
ミリアは文書を読んだ。
「国境を越えられなくなった」
「当面は、そうだ」
「アルトさんへの手紙が来ても、届けられない」
「そうなる」
「アルトさんから手紙が来ても、こちらには届かない」
「そうなる可能性がある」
ミリアは文書を机に置いた。南の空を見た。雪が止んで、晴れていた。遠くまで見えた。しかしどれだけ見えても、国境の向こうは分からなかった。
「ポスト」
「なんだ」
「アルトさん、今どうしているんだろう」
「さあな」
「和平のために動いているのかな」
「動いているかもしれない。しかし私には分からない」
「届けた手紙が、何かの役に立っているといいんだけど」
「届けた後はあちらの仕事だ」
「分かってる。でも思ってしまう」
ポストは少し間を置いた。
「それでいい。思ってしまうのは、丁寧に届けたからだ」
ミリアはその言葉を聞き少しだけ笑った。ポストがそういう言い方をするのは珍しかった。
「ポストが慰めてくれた」
「慰めていない。事実を言った」
「そういうことにしておく」
ロアンが文書を棚にしまいながら伝えた。
「南への長距離は止まった。しかし北方の配達は続く。今日も手紙がある」
「はい」
「飛べるか」
「飛べます」
「ならいい。今できることをやれ」
ミリアはポストを背負った。今日の配達物を確認した。北の集落への三通、山の研究者への一通。いつもの路線だ。飛び立つ前に、一度だけ南の空を見た。
遠くに雲が見えた。厚い雲が、南の地平に沿って広がっていた。
その向こうに、アルトがいる。その向こうで、何かが動いている。ミリアにはまだ分からない。しかし確かなことが一つある。今日も、手紙がある。
届けに行く。ミリアは空へ飛んだ。




