第十二章 迷い
雪が積もった。十一月の終わりに、本格的な雪が来た。一晩で膝の高さまで積もり、翌朝に外へ出るとロアンの局の周りが白い平面になっていた。木の枝が雪の重さで垂れ下がり、屋根から氷柱が下がり始めていた。飛行への影響は大きかった。雪の中を飛ぶこと自体は問題なかった。しかし視界が悪くなった。地上の目印が雪に埋もれて分からなくなった。路線を体で覚えていなければ迷う。ミリアは最初の雪の日、東の集落への帰り道で少し迷った。雪の中を低く飛んで、川を見つけて、川沿いに戻った。
「焦るな。雪の中では焦ると余計に迷う」
「分かってる。でも川が見えなくなると不安で」
「川は消えない。雪に埋もれるのは岸だけだ。川面は白くならない。低く飛んで探せ」
ポストからの助言で、それからミリアは雪の日に迷わなくなった。
十二月の最初の週、ミリアのところへ相談が来た。村人ではなく、隣村の郵便を取り次いでいる雑貨屋の主人からだった。男は分局まで歩いてきて、帽子の雪を払いながら扉を開けた。
「郵便のことで相談がある」
ロアンが対応した。ミリアは横で聞いていた。
「うちの村に、息子に出す手紙を毎月書いている老婆がいる。もう五年になる」
「届けている。知っている」
「その息子が、去年死んだ」
「知っている」
「老婆はまだ知らない。遠い村に住んでいる親戚から連絡が来たが、老婆に伝えた者がいない。それで」
「老婆の手紙は今後も届けるのか、という相談か」
「そうだ。息子の住所に届けても、今は別の人間が住んでいる。受取人がいない」
ロアンは少し考えた。
「老婆が手紙を出してきたら受け取れ。配達はわしらがする」
「しかし息子はもういない」
「受取人がいない住所への手紙は、保管になる」
「保管」
「老婆が知るまでは、そうするしかない。老婆に伝えるかどうかは、村の人間が決めることだ。わしらが決めることではない」
男は少し納得しない顔をしていたが、「分かった」と言って帰っていった。
ミリアはその背中を見送りながら、ロアンに小声で話しかけた。
「老婆が手紙を書き続けることを、止めないんですね」
「止める権限がない。老婆は手紙を出す。わしらはそれを受け取る。届け先の状況を老婆に伝えることも、わしらの仕事ではない」
「でも」
「届けない手紙になる。それは苦しいことだ。しかし老婆が知るまでは、そういう手紙だ」
ミリアは黙った。老婆が毎月書く手紙。届かない住所へ。それを知らないまま書き続ける老婆。それを受け取り続ける郵便局。何かが引っかかった。しかしうまく言葉にならなかった。
その夜、ミリアはポストに話しかけた。
「ポスト」
「なんだ」
「届けない方がいい手紙って、あると思う?」
ポストは少し間を置いた。
「何を考えている」
「今日の老婆の話もそうだけど。未来の手紙のことも。届けないという選択が、誰かを守ることになる場合もあるんじゃないかと思って」
「それは、ずっと考えてきた問いだな」
「答えは出てる?」
「郵便魔女の原則では、届けない手紙はない」
「原則は知ってる。でも原則が正しいとは限らない」
「そうだな。ただ聞け。郵便魔女が届けないという選択をする場合を考えてみろ。誰がその判断をする?」
「配達する魔女が」
「そうだ。魔女が手紙の内容を見て、届けない方がいいと判断する。そういうことになる」
「それの何が問題なの」
「手紙の内容を知る権限が、魔女にはない。書いた人の気持ちを、配達人が勝手に判断する。届けない方がいいと魔女が思っても、それは魔女の判断だ。書いた人の意志ではない」
ミリアは少し考えた。
「でも私は記憶が見える。感情が分かる。それを判断材料にすることは」
「できる。お前はそうしてきた。カレンの時、ヴェルナーの時。ただ、それは迷うための材料だ」
「迷うための、材料」
「届けるかどうか迷う。その迷いの中で、見えた記憶が判断の材料になる。しかし最終的に届けるという選択をしてきた」
「うん」
「迷うことと、届けないことは違う。迷うのは、配達の前の話だ。その迷いがあるから、お前は丁寧に届けてきた。しかし届けないという結論には、郵便魔女は辿り着かない」
「それはなぜ」
「手紙は書いた人のものだからだ。書いた人が、届けてくれと思って出した。その意志を、配達人が握り潰す権限はない」
ミリアは黙って聞いた。
「老婆の手紙も同じだ。老婆は息子に届けてほしいと思って書いている。その意志は本物だ。息子がいなくなっても、書いた瞬間の意志は変わらない」
「だから保管する」
「届け先がなくなっても、手紙は保管する。老婆の意志を、消すことはできない」
ミリアはかまどの火を見た。
炎が揺れていた。
「じゃあ未来の手紙は。届けるなという警告は、どう考えればいい」
「それは郵便の話ではない。それはお前個人への、未来のお前からの警告だ。郵便魔女としての判断ではなく、ミリアという人間への言葉だ」
「別のこととして考えるの」
「別のことだ。郵便魔女として届けるかどうかという問いと、ミリアとして警告を信じるかどうかという問いは、違う問いだ」
ミリアは少し整理した。郵便魔女として、届けない手紙はない。しかしミリア個人として、迷うことはある。警告を受け取ることもある。それは別の話だ。
「ロアンさん」
ロアンは向かいの椅子で目を閉じていた。眠っているかと思ったが、目を開けた。
「聞こえていた」
「どう思いますか」
「ポストの言う通りだ」
「それだけですか」
「それだけだ。ただ一つだけ付け加えるなら」
「はい」
「迷うことを、悪いことだと思うな。迷わない魔女は、手紙を軽く扱っている。迷うから、丁寧に届けられる」
ミリアはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。
迷うから、丁寧に届けられる。
「ロアンさんも迷いますか」
「毎回迷う」
「三十年やっていても?」
「三十年やっていても、迷わなくなったことはない。ただ、迷い方が変わった」
「どう変わりましたか?」
「最初は届けることへの迷いが多かった。今は届けた後のことへの迷いが多い」
「届けた後のことへの迷い」
「あの手紙は届けてよかったか、あの人にとって届いたことが良かったか。それは永遠に分からないことが多い。その分からなさと、どう付き合うかが、三十年で少し分かってきた」
「どう付き合うんですか?」
「分からないまま飛ぶ。分からないまま、次の手紙を届ける。それだけだ」
翌日の配達に出た。雪は止んでいたが、積もったままだった。白い世界を、ミリアは低く飛んだ。川を目印に、木の並びを目印に、路線を辿った。配達先の一つに、例の老婆の手紙を預かっていた村の雑貨屋があった。老婆が今朝手紙を持ってきたと、雑貨屋の主人が言った。
白い封筒を受け取った。手袋越しに持った。意図せず、少し感じた。
温かさがあった。ただの温かさだった。息子のことを思いながら書いた、純粋な温かさ。悲しみも不安も混じっていない、きれいな温かさだった。
この人はまだ知らない。息子がいないことを。ミリアは封筒をポストの中に入れた。
「届けられない手紙だな」
「分かってる」
「どうする」
「保管する。そういう手紙だから」
「それでいいか」
「よくない。でもそれしかできない。老婆が知るまでは」
「そうだ」
ミリアは飛んだ。雪の上を、白い息を吐きながら、低く飛んだ。届けられない手紙がある。それでも受け取る。それでも保管する。迷いながら、それでも飛ぶ。
ロアンが三十年やってきたことを、ミリアは今日も少しだけ引き継いだ。
夜、ミリアはまた内ポケットの手紙を取り出した。
未来の自分の字。警告と、結論が同じ紙に書かれた手紙。
届けてはいけない。
それでも、届けてよかった。
「ポスト」
「なんだ」
「届けない手紙はない、という原則と、未来の私の警告と、両方を抱えたまま、これから飛ぶことになるんだね」
「そうだ」
「矛盾したまま」
「矛盾したまま。しかしお前はすでにそうしてきた。保留の手紙を届けた時、倉庫の手紙を探した時、老婆の手紙を保管すると決めた時。毎回、答えのない迷いを抱えて飛んだ」
「うん」
「それがお前の飛び方だ」
ミリアは手紙を畳んだ。
「迷うから、丁寧に届けられる」
「ロアンの言葉だ」
「いい言葉だと思った」
「あの人はたまにいいことを言う」
ミリアは少し笑った。手紙をポケットに戻した。明日も雪の中を飛ぶ。届けられる手紙を届けて、届けられない手紙を保管する。迷いながら、それでも飛ぶ。
窓の外で、雪が静かに降り始めていた。




