第十一章 未来の手紙
十一月の半ばになった。
北方の冬は本格的になっていた。朝の霜が昼になっても溶けない日が出てきた。空気が乾いて、息を吸うと肺の奥が冷える。飛行中は特に冷えた。耳が痛くなるほどの寒さで、ミリアは耳当てを買い足した。
配達の数は冬になって少し減った。
倉庫の未配達手紙も、少しずつ整理が進んでいた。三箱のうち二箱を確認し終えた。残り一箱になっていた。
アルトへの配達から十日が経っていた。あの日のことを時々思い出した。噴水のない中庭。穏やかな目をした青年。封筒を受け取った手。空を飛べる人は羨ましい、という言葉。
届けた後のことは分からない。それでいい、と今のミリアは思っていた。
その夜、ミリアとポストは局の中で話していた。
ロアンは早めに二階へ上がった。最近、夜が早かった。寒くなってから、足腰だけでなく全体的に疲れやすくなっている様子だった。
かまどの前で、ミリアは倉庫から持ち出した最後の箱を整理していた。残り一箱の未配達手紙。一通ずつ台帳と照らし合わせながら、届けられるものを探す。
その作業をしながら、今日の配達のことを話した。
「ヴェルナーさんが、竜の気配がある気がするって言っていた」
「そうか」
「嬉しそうだった。奥さんの手紙が届いてから、表情が変わった」
「手紙は人を変えることがある」
「うん。あれは、届いてよかった手紙だった」
ポストが少し間を置いた。
「あの手紙は半年遅れて届いた」
「そうだね。差出人はもう亡くなっていた。それでも届いた……それでも届いた」
ミリアは繰り返した。封筒を一通手に取った。古い封筒で、紙が黄ばんでいた。宛先を確認して、台帳と照らし合わせた。受取人が転居していた。転居先の記録はなかった。別の箱へ移した。
「ポスト」
「なんだ」
「手紙って、遅れる理由は色々あるよね。嵐とか、戦争とか、住所の間違いとか」
「そうだ」
「他には?」
「書いた人が出すのを迷っていた、とか。郵便局の倉庫で眠っていた、とか」
ポストはそれからしばらくして、付け加えた。
「時間が回り道をする、とか」
ミリアは手を止めた。
「時間が回り道をする?」
「手紙はたいてい、真っ直ぐ届く。しかし時々、おかしな届き方をするものがある」
「おかしな、というのは」
「書いた人が忘れていたり、届ける人が間違えたり。あるいは、時間がうまく噛み合わなかったり」
「時間が噛み合わない」
「手紙が届くべき時に届く、という話をしたことがある。カレンの手紙の時」
「したね。届いた時が、届いた時だ、って」
「そうだ。しかし稀に、届くべき時というのが、書かれた時と大きくずれることがある」
ミリアは封筒を持ったまま、ポストを見た。
「どのくらいずれることがある?」
「それは私にも分からない。私が見てきた中では、何十年もずれて届いた手紙があった。書いた人も、受け取った人も、もういなかった。それでもその家の子孫が読んだ」
「何十年も」
「手紙は紙だ。紙は残る。時間の中を漂うことがある」
ミリアはしばらく黙って考えた。
時間の中を漂う手紙。何十年もずれて届く手紙。
「逆方向はある?」
「逆方向?」
「後から来る手紙じゃなくて、先から来る手紙。未来から届く手紙」
ポストは答えなかった。
しばらく、かまどの火の音だけがした。
「記録にはある。ただし、非常に稀だ。強い魔力と、強い意志が必要で、それでも届くかどうか分からない」
「本当にあるんだ」
「ある、という記録がある。私自身が見たことは、ない」
「見たことは、ない。今のところ、ということ?」
「それは私には分からない」
ミリアは箱の中の手紙に目を戻した。
時間の中を漂う手紙。遅れて届く手紙。そして稀に、逆方向から届く手紙。
手紙というものは、想像していたよりずっと、時間に対して自由なのかもしれない。
木曜日の本局便は、いつもより量が少なかった。
冬の端境期らしい、薄い束だった。ミリアは仕分けを始めた。北の集落へ三通、東の村へ二通、山の研究者へ一通、港町への転送一通。
最後の一通を手に取った時、ミリアは手を止めた。宛先が自分だった。
「北方十三分局 ミリア・ヴェルン様」。
エリスから手紙が来た時以来だった。しかしこの封筒は、エリスの字ではなかった。全く知らない筆跡だった。差出人の欄を見た。
「ミリア・ヴェルン」と書いてあった。
ミリアは目をこすり、もう一度見た。やはり「ミリア・ヴェルン」と書いてあった。
「ポスト」
「なんだ」
「これを見て」
ポストは鞄の口から封筒を覗くような気配があった。
「……差出人がお前の名前だ」
「どういうこと」
「昨夜の話の続きかもしれない」
ポストは穏やかな声で言った。
ミリアは封筒を持ったまま、ポストを見た。昨夜の話。時間が回り道をする手紙。未来から届く手紙。記録にはある、とポストは言った。私自身が見たことは、ない、と。
「消印を見ろ」
ミリアは封筒の消印を確認した。
「王都の消印。日付は」
日付を見て、息が止まった。
「三ヶ月ほどの先の日付が、押してある」
ロアンが棚の整理をしながら命じた。
「開けてみろ」
「ロアンさんも見えましたか」
「仕分けの時目に入った。どう思うかは、開けてから決めろ」
ミリアは封筒を手に取った。手袋越しに、少しだけ集中する。記憶が来た。
空だった。夜の空で、星が見えた。箒に乗って飛んでいた。自分だった。
ミリアは、ミリアが飛んでいるのを見た。しかし今の自分より少し違った。顔は同じだが、表情が違う。今より疲れていた。今より何かを抱えていた。目に、今の自分が持っていない重さがあった。感情が来た。後悔ではなかった。しかし後悔に似た何かだった。ある選択の結果を受け止めるのが苦しい、という感情だった。
それと一緒に、もう一つ感情が来た。それでもやれ、という感情だった。
未来の自分が、今の自分に向けて書いた。その時の気持ちが、封筒に染み込んでいた。
もう一つ気づいたことがあった。記憶の中の未来のミリアが、この封筒を書きながら、自分の手でそれに触れていた。接触感応。その瞬間に、感情が封筒に強く刻まれた。
未来の自分の能力が、この手紙を過去へ届かせた。
ミリアは封筒から手を離した。
「見えた」
「どんな感情だった」
「苦しい。しかしそれでもやれ、という気持ち。未来の私が書いた感情だった」
「そうか」
「もう一つ分かった。未来の私が、書きながらこの封筒に触れていた。私の能力が、手紙を過去へ届かせたんだと思う」
「お前の能力は記憶に触れる力だ。記憶は時間の中にある。だから稀に、時間を越えることがある。お前の能力は、お前が思っているより広い」
「時間を越える能力だとは、思っていなかった」
「お前自身がまだ気づいていない使い方が、あるかもしれない」
ミリアは封を切った。中に一枚の紙があった。取り出した。自分の筆跡だった。間違いなく自分の字だった。しかしどこか今より力があった。今より確信があった。
ミリアは読み終えると、紙を膝の上に置いた。ロアンが棚の整理をやめて、こちらを見ていた。
「なんと書いてあった」
「その手紙を届けてはいけない、その手紙を届ければ、大切な人が死ぬ。だから届けるな、と」
「それだけか」
ロアンが尋ねる。
「最後に一行だけ、付け加えがあります」
「何と」
ミリアは紙を見て、最後の一行を読んだ。
「それでも、届けてよかった」
沈黙があった。
「届けるなと言いながら、届けてよかったと言っている」
ポストが呟く。
「矛盾している」
「している」
「でも、未来の私は、両方を書いた。届けるなという警告と、それでもよかったという結論を、両方書いた」
ロアンが穏やかな声で言った。
「つまり未来のお前は、届けた」
「届けた、と思う。警告しながら、結局届けた」
「そうか」
「それがどういう意味なのか、今の私には分からない」
ロアンは窓の外を見た。冬の空が白かった。
「大切な人、というのは誰のことか、今は分かるか」
「分からない。今の時点では」
「三ヶ月後には分かる」
「未来の私は知っている」
その日の配達に出た。雪が降り始めていた。小さな粒の雪が空の上から静かに落ちてくる。箒の柄に当たって消えた。手袋の甲に落ちて消えた。ミリアは雪の中を飛びながら考えた。
「ポスト」
「なんだ」
「郵便魔女は届けないという選択をしない、って言ってたね」
「言った」
「でも未来の私は、届けるなと書いた」
「そうだ」
「矛盾する?」
「矛盾するかどうかの前に。整理しろ。郵便魔女には二種類の判断がある」
「何と何」
「迷うことと、届けないことだ」
「同じじゃない?」
「違う。迷うのは、配達する前の話だ。届けないのは、配達人がその手紙を握りつぶすことだ。郵便魔女は後者を選ばない」
「でも保留の記号がついた手紙を届けた。あれは規則を破ったことになる」
「迷って、届けることを選んだ。それは破ったのではなく、判断したということだ」
ミリアは少し考えた。
「つまり、届けるかどうか迷うことはある。でも届けないという結論には辿り着かない、ということ?」
「郵便魔女の原則はそうだ」
「未来の私が届けるなと書いたのは」
「未来のお前の警告だ。原則ではなく、個人の警告だ。それを信じるかどうか、どう受け止めるか、それはお前が決めることだ。原則と個人の判断は、また別の話だ」
ミリアは雪の中を飛んだ。
「ポスト、未来の私は結局届けた」
「そうだな」
「届けるなと警告しながら、届けた。それでもよかったと書いた」
「そうだ」
「だったら今の私が悩んでも、結論は同じになるかもしれない」
「かもしれない」
「でも今の私は、まだ悩む」
「悩め。悩んだ末に届けることと、何も考えずに届けることは違う」
夕方、局に戻った時、ミリアは内ポケットの手紙を取り出した。
最後の一行をもう一度読んだ。それでも、届けてよかった。
未来の自分が、苦しみながら書いた一行。
警告と、結論が、同じ手紙の中にあった。
「ポスト」
「なんだ」
「三ヶ月後も、私は飛んでいる」
「手紙を書けるということは、そうだな」
「それだけで少し安心した」
「安心するのが早い」
「それでも、少しだけ」
手紙を畳んで、エリスの手紙と同じポケットに戻した。
届いた手紙と、届けた手紙の記憶が、同じポケットの中に収まった。
雪が窓の外で降り続けていた。三ヶ月後に何があるのか、今のミリアには分からない。しかし確かなことが一つある。三ヶ月後、自分はまだここにいる。まだ空を飛んでいる。まだ手紙を届けている。
それだけは、未来の手紙が証明していた。




