第十章 王都へ
夜明け前に飛んだ。
空はまだ暗く、星が残っていた。東の地平だけが薄く白んでいて、その白さが少しずつ広がっていくところだった。ミリアは箒にまたがり、ポストを背負い、局の前で一度だけ振り返った。
ロアンが縁側に立っていた。
この時間に外にいるのは珍しかった。いつもなら朝の支度をしている時間だ。しかし老魔女は古い魔女帽子をかぶって、寒い中で立っていた。
何も言わなかった。
ミリアも何も言わなかった。
ただ一度だけ、互いに目が合った。
ミリアは空へ飛んだ。
南へ向かった。
北方の空を南下すると、景色が変わっていく。針葉樹の森が広葉樹に変わり、平野が広がり、川が太くなる。村が増えて、町が増えて、人の気配が濃くなる。
昼前に国境に近い町を通過した。この国の側の最後の大きな町で、街道が集まっていた。馬車の往来が多く、商人の姿が目立った。国境を越えた取引をする商人たちだろう。
町を過ぎると、空気が変わった。
緊張、とまでは言えない。しかし何かが引き締まる感じがした。建物が減り、街道を行く人も減り、代わりに制服を着た兵士の姿が増えた。
「国境が近い」
ポストが伝えた。
「分かる。雰囲気が変わった」
「検問では証明書をすぐ出せるようにしておけ。手袋を外すよう言われたら外せ。余計なことは話すな」
「余計なことって」
「聞かれたことだけ答えろ。郵便魔女だ、配達がある、証明書はここにある。それだけでいい」
「手紙のことは」
「聞かれなければ言わない。聞かれたら、北方十三分局からの配達物だ、と答えろ。差出人の名前は覚えているか」
「差出人の欄は空白だった」
「そうだった。聞かれたら、差出人不明の配達物だと答えろ。嘘ではない」
国境の検問所が見えてきた。
街道の上に門が建っていた。木と石造りの、重厚な構造だった。両側に塔があり、兵士が立っている。門の前で何台かの馬車が止まって、確認を受けていた。
空路にも検問があった。
門の上空に、魔法陣が展開されていた。通過する飛行体を感知する仕組みで、そこを通ると自動的に速度が落ちて、検問所に降りるよう誘導される。
ミリアは魔法陣に入った。速度が落ち、高度が下がった。
検問所の屋上に降り立った。
兵士が二人、近づいてきた。
「郵便魔女か」
「はい。北方十三分局のミリア・ヴェルンです」
「証明書を」
ミリアは上着の内ポケットから証明書を出した。兵士は確認して、返した。
「配達物は」
「一通です」
「宛先は」
「隣国の王都のフォン・アルトベルク宛てです」
兵士が台帳に記録した。もう一人の兵士がポストを見た。
「その鞄の中身を確認させてもらう」
ミリアはポストを下ろした。蓋を開けた。ポストの中には配達物の封筒が一通だけ入っていた。兵士は封筒を取り出した。表を確認したのち、裏を確認した。
「差出人がない」
「差出人不明の配達物です。本局を経由してきた正規の郵便物です」
兵士はもう一人の兵士と目配せした。
ミリアは息を止めた。
兵士が台帳に何かを書いた。
「通れ」
ミリアは封筒を受け取り、ポストに戻した。
「ありがとうございます」
なるべく普通の声で言った。
国境を越えた。
空気は変わらなかった。景色も、光も、風も、国境の手前と変わらなかった。当たり前のことだが、国境というものは人が決めた線で、空にはその線がなかった。
「越えた」
「越えたな」
「普通だった。雰囲気が変わると思ってた」
「空は変わらない。どこの国の空も同じだ」
ミリアは前を向いた。南へ、また南へ。隣国の王都は、この国の王都と同じくらいの距離がある。今日中に着くには、急ぐ必要があった。
王都が見えてきたのは夕方だった。大きな都市だった。ミリアが今まで見た中で一番大きかった。川が街の中心を流れていて、その両岸に建物が密集していた。王城が丘の上にあり、白い石造りの塔が夕暮れの空に向かって伸びていた。
「あれが王城?」
「そうだ。しかしお前が向かう先は城ではない。フォン・アルトベルクの住所を確認しろ」
ミリアは封筒を取り出した。宛先の住所を確認した。城の近く、しかし城内ではない。城下の屋敷街にある住所だった。
屋敷街に降り立った。
石畳の通りに、大きな屋敷が並んでいた。それぞれに門があり、庭があり、馬が繋がれていた。使用人らしい人々が行き来している。北方の村とは全く違う世界だった。
宛先の屋敷を探した。
門柱に表札が出ていた。『アルトベルク家』。
ミリアは門の前に立った。
門番がいた。若い兵士だった。
「郵便です。アルトベルク家の方にお手紙を届けに参りました」
兵士はミリアを見た。
「どなた宛てですか」
「封筒には、アルト・フォン・アルトベルク様と書いてあります」
兵士の顔が少し変わった。
「少々お待ちを」
兵士は門の中に入った。しばらくして、戻ってきた。
「こちらへどうぞ」
屋敷の中庭に通された。
噴水があった。今の季節は水を止めているらしく、噴水の台座だけが冬の光の中に静かに立っていた。庭木が整然と植えられていて、落ち葉が掃き集められていた。丁寧に手入れされた庭だった。
待っていると、屋敷の扉が開いた。
男が出てきた。
二十歳前後だろうか。黒い髪を落ち着いた長さに整えて、黒い瞳をしていた。軽装の服を着ていたが、それでも品があった。背筋が伸びていて、歩き方に無駄がなかった。
威圧感はなかった。
顔に険しさがなかった。穏やかで、物事を慎重に見る目をしていた。
「郵便魔女?」
男の声は落ち着いていた。
「はい。北方十三分局のミリア・ヴェルンと申します。アルト・フォン・アルトベルク様でいらっしゃいますか」
「そうだ」
「お手紙をお届けに参りました」
ミリアは封筒を取り出した。
アルトは封筒を受け取った。
受け取る瞬間、ミリアは手袋の端が動くのを感じた。しかし今回は引っかからなかった。手袋はずれなかった。記憶は来なかった。
アルトは封筒の表を見た。
宛先の自分の名前を確認した。差出人の欄が空白なのを見た。
男の目が止まった。
空白の差出人欄を、もう一度見た。
「差出人がない」
「はい。差出人不明の郵便物としてお届けに参りました」
「……どこから来た手紙か、分かるか」
「この国の南部から来た手紙だと、本局の記録にありました」
アルトは封筒を持ったまま、少しの間動かなかった。
何かを考えていた。
それから、穏やかな声で言った。
「遠くから来てくれたのか」
「北方から一日かけてまいりました」
「北方から。そんな遠くから、この一通のために」
「手紙はどんな距離でも届けます」
アルトはミリアを見た。
少しだけ、笑った。穏やかな笑みだった。威圧も、お世辞も、何もない。
「空を飛べる人は羨ましい」
ミリアは少し驚いた。王族に近い立場の人間が、羨ましい、と言うとは思っていなかった。
「どこへでも行けるから」
「はい」
「私はなかなか自由に動けない。この屋敷から出ること一つにも、許可が必要だ」
「それは、大変ですね」
「大変、か。そうだな、大変かもしれない。しかし生まれた時からそうだから、慣れている」
ミリアは何と答えればいいか分からなかった。
「空を飛ぶのは、どんな気持ちだ」
「自由です。地上より、ずっと」
「そうか」
アルトは封筒を手に持ったまま、噴水の台座を見た。水のない噴水。
「魔女は、手紙に触れると記憶が見えることがあると聞いた。本当か」
ミリアは少し驚いた。
「全ての魔女がそういうわけではないですが、私はそういう能力があります」
「この手紙の記憶は見えたか」
ミリアは正直に答えるべきか迷った。しかし、この人は嘘を見抜くだろう、という気がした。
「少し見えました。取り出す時に」
「どんな記憶だった」
「雨の夜に書いていました。怖いけれど書かなければならない、という気持ちが見えました。それと」
「それと?」
「これが最後かもしれない、という気持ちが」
アルトの顔から、穏やかさが少しだけ消えた。
消えた、というより、深くなった。穏やかさの下にあるものが、少しだけ表に出た。
「そうか。それを届けてくれたのか」
「はい」
「国境の検問で止まらなかったか」
「確認はありましたが、通れました」
「そうか」
アルトはもう一度封筒を見た。
長い間、見た。
「一つ聞いてもいいか」
「はい」
「郵便魔女は、どんな手紙でも届けるのか」
ミリアは少し考えた。
「どんな手紙でも届けるのが、仕事です。しかし私はまだ半人前なので、届けるかどうか迷うことがあります」
「この手紙は迷ったか」
「迷いました。三日間」
「それでも届けた」
「はい」
「なぜ」
ミリアはポストを感じた。背中に、重い鞄の重さがある。
「書いた人が、それだけの覚悟で書いたと思ったからです。そういう手紙が届かないのは、嫌だと思いました」
アルトは静かにミリアを見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、深くお辞儀をした。
王族に近い立場の人間が、郵便魔女にお辞儀をした。ミリアは少し慌てた。
「ありがとう。届けてくれて」
「届けるのが仕事ですので」
「そうかもしれない。しかしこの手紙を届けてくれたことは、仕事以上のことだと思っている」
ミリアは何も言えなかった。
屋敷を出る時、アルトが門まで送ってきた。
「また北方へ戻るのか」
「はい。今日は王都で一泊して、明日帰ります」
「気をつけて」
「ありがとうございます。アルト様も」
アルトは少し笑った。
「様はいらない。アルトでいい」
「では、アルトさん」
「うん。また手紙が来たら、届けてくれるか」
「北方十三分局に来た手紙なら届けます」
「そうか。頼んだ」
ミリアは飛んだ。
高度を上げながら振り返った。アルトが門の前に立って、空を見上げていた。
羨ましい、と言っていた。
どこへでも行ける、と。
自由のない場所で、それでも穏やかにしている人だった。
「ポスト」
「なんだ」
「アルトさん、変わった人だった」
「王族にしては、な」
「王族なの?」
「アルト・フォン・アルトベルク。フォンがついているのは貴族以上の家名だ。この国では」
「王子だったの」
「次男だ。王太子ではない。しかし王家の血が入っている」
ミリアは振り返った。屋敷はもう小さくなっていた。
「あの手紙を誰が書いたか、分かった?」
「分からない。しかしアルトは心当たりがある顔をしていた」
「してた。差出人の欄を見た時」
「雨の夜に書いた人、この国の南部から出した手紙。王族に近い立場の人間に届ける手紙。察せられることはある」
「どういうこと?」
「この国と、今ミリアがいる国は、緊張状態にある。その中で、国境を越えて手紙を出した人間がいる」
「和平を求める手紙、だったりする?」
「それはミリアには分からない。アルトにしか分からない」
「でも、ロアンさんが昔届けた手紙のことを思った」
「和平を求める手紙で、戦争が終わったという話か」
「うん。あの手紙も、こういう感じだったのかな」
ポストは答えなかった。
王都が後ろに遠ざかっていく。白い塔が、夕暮れの空に細く伸びている。
「ポスト」
「なんだ」
「ロアンさんが頼んだって言ってたね。無事に帰ること」
「そうだ」
「帰れそう」
「帰れる」
「絶対?」
「絶対とは言えない。しかし私が一緒にいる」
ミリアはそれを聞いて、少し笑った。
「それで十分だよ」
北へ向けて飛んだ。
夜になれば星が出る。北の空に帰るための星が。ポストの重さが背中にある。手紙は届いた。アルトが受け取った。
それだけのことが、今夜のミリアには十分だった。




