第一章 落第魔女
雨が降っていた。
魔女学校の試験塔は、霧の中にその尖塔を突き立て、白い石造りの外壁を灰色に濡らしていた。回廊の石畳に雨粒が弾け、足元には薄い水の膜が広がっている。ミリアはその廊下の端に立って、窓の外を見ていた。
窓の向こうに広がる訓練場では、同期の魔女見習いたちが順番に試験を受けていた。箒にまたがり、空へ舞い上がり、設置された魔法的な的へ向かって飛行する。あの的に触れ、魔力の感知を行い、正確な発動を見せる。それが卒業試験の基本項目だった。
合格した者から順に、教師に手を握られ、証明書を受け取り、晴れやかな顔で試験塔を出ていく。
ミリアはそれを見ながら、左手の手袋をはめ直した。窓ガラスに、自分の姿が薄く映っている。茶色の髪は肩のあたりで揺れ、魔女帽子の影の下で、少しだけ不安そうな顔をしていた。
まだ見習いの制服のローブは新品で、袖口だけが少し大きい。
手袋だけが、その姿の中で少しだけ不自然だった。
白い革製の手袋。今年の誕生日に自分で買った。魔道具の店で一番厚手のものを選んだ。手袋をはめていれば、ある程度は防げる。ある程度は。
問題は、試験の時に手袋をはめていられないことだった。
「ミリア」
廊下の向こうから声がした。試験監督の教師、ブランチェ先生だった。五十代の女性で、灰色の髪を後ろに束ね、細い銀縁の眼鏡をかけている。研究魔女出身の教師で、いつも淡々としていて、感情のない声で採点を告げることで有名だった。
「次はあなた」
ミリアは廊下を歩いた。試験場へと続く扉の前で立ち止まり、一度だけ深く息を吸う。
大丈夫。今日は最初から意識している。手紙には触れない。試験会場に手紙はない。箒に乗って、的に触れて、魔力を発動させる。それだけでいい。
扉を開けた。試験塔の内部は、塔の中心が吹き抜けになっていた。空間の中央に、螺旋状の魔法陣が床から天井に向かって投影されている。その周囲を飛行コースが設定されており、上部には三つの発動的が浮かんでいた。白、青、赤。それぞれに触れ、対応した魔法を発動させる。それが試験だった。見学席に他の生徒たちがいた。既に合格した者たちが、関心があるのかないのか分からない顔で見ている。ミリアは彼女たちを見ないようにした。
「始め」
ブランチェ先生の声。
ミリアは箒にまたがり、魔力を流し込んだ。箒が浮く。地面から足が離れる。この感覚だけは好きだった。空が、近くなる感覚。
飛んだ。最初の的、白へ向かう。コースに沿って、風を切りながら上昇する。訓練場の雨音が遠くなり、高度が上がるにつれて視界が開けていく。
手を伸ばした。白い的に、指先が触れる。
その瞬間だった。映像が流れ込んできた。
誰かの記憶。男の人の声。女の人の笑い声。手紙の白いページ。走り書きの文字。涙の跡。
ミリアは反射的に手を引いた。しかし一瞬の接触で、意識の中に他人の感情が流れ込んでくる。悲しみ。懐かしさ。誰かを探している気持ち。
魔力が乱れた。箒が揺れ、軌道がぶれる。ミリアは必死にバランスを取り直そうとしたが、魔力の流れが安定しない。頭の中に他人の記憶の断片が溢れていて、集中ができない。
青い的に手をつこうとした瞬間、また来た。
別の記憶。怒りの感情。何かを待ち続ける焦り。
箒が止まった。
そうではなく、魔力の供給が一瞬途切れた。箒はほんの少し高度を落とし、ミリアはそのまま見学席から見える高さで静止した。魔力を立て直すまでに数秒かかった。
試験は続行できた。赤い的にも触れた。三つ全部に触れた。
しかし採点は見るまでもなかった。
「不合格」
ブランチェ先生の言葉は短かった。
試験後の評価室。長机を挟んで、ミリアと教師が向かい合っている。窓の外の雨はまだ続いていた。
「飛行は問題ない。的への到達も問題ない。しかし魔力発動の精度が基準を満たしていない。乱れがある。これは以前から指摘していたことよ」
「はい」
「あなたの能力については把握している。接触感応。物や人に触れると記憶や感情が流れ込んでくる。これ自体は珍しい能力ではない。しかし制御ができていない」
ミリアは机の上に置いた手袋を見た。革の白さは、雨の光の中で少しだけ沈んで見えた。
「戦闘魔女のカリキュラムには、もちろん向いていない。感応系の能力は戦闘時に混乱の元になる。研究魔女のカリキュラムも難しいでしょう。精密な魔法実験では、魔力の安定が必須。あなたの場合、いつ何が誰の何の記憶を拾ってくるか分からない。制御できていない以上、危険性がある」
淡々と、しかし正確に、ブランチェ先生は言葉を並べた。
「つまり私は」
「どのコースにも適性がないということよ」
それは分かっていた。ミリアは返す言葉がなかった。三年間、ずっと分かっていた。手袋をはめていれば日常生活はできる。教室では手袋をはめたまま授業を受けた。魔法の実技でも、なるべく物に触れないように工夫した。しかし試験では、魔法陣への魔力感応は素手で行わなければならない、という規則があったから。
規則を変えてもらえないかと、一年の時に相談したことがある。却下された。例外を作れないと言われた。
「ただ」
ブランチェ先生が続けた。
「魔女学校の卒業資格は、戦闘と研究だけではない。郵便魔女の認定は、飛行さえできれば基礎資格が取得できる。あなたの飛行能力は問題ない」
「郵便魔女」
「手紙を運ぶ魔女。ご存知でしょう」
知っている。というより、目にしたことがある。
街の上空を一人で飛んでいく魔女。大きな鞄を背負って、箒で空を行く。子どものころ、窓から見て「あれは何?」と母に聞いたら、「お手紙を届けているのよ」と言われた。
「ただ」
「何?」
「郵便魔女は、手紙に触れますよね?」
ブランチェ先生は少し間を置いた。
「触れるわね」
「それだと、記憶が見えます。手紙は人が書くから、感情が染み込んでいる。手袋をして配達する魔女はいますか?」
ブランチェ先生はゆっくりと眼鏡を外し、拭いてからかけ直した。
「それはあなたが自分で決めることよ。私が言えるのは、今のあなたが取れる魔女資格は郵便魔女の基礎認定だけ、ということ」
ミリアは窓の外を見た。雨が窓ガラスを流れている。
一筋、また一筋。どこへ向かうともなく、ただ重力に従って流れる水の線が、窓の表面を濡らしながら下へ落ちていく。
せめて誰かの役に立つ魔女にはなりたい、とミリアは思った。
魔女学校の寮を出たのは、試験の翌日だった。
荷物は鞄一つにまとまった。本と、着替えと、手袋が五組。それと、母が持たせてくれた小さな魔法石のお守り。光を当てると青く光る石で、「困った時に光が道を示してくれる」と母は言っていたが、ミリアが持ってからまだ一度も光ったことはなかった。
同期の生徒たちはそれぞれの進路へ向かっていった。戦闘魔女になる者、研究所に就職する者、王都の魔法省に採用される者。進路が決まった者たちは忙しそうに、嬉しそうに、それぞれの未来へ歩いていった。
ミリアはそれを横目で見ながら、学校の正門を出た。
彼女たちと同じ、十七歳だった。
行き先は決まっていた。
郵便局。
街の外れにある古い建物で、魔女が郵便物を受け取り、分類し、空路で配達する。ブランチェ先生から、今日付けで基礎認定の書類が発行されるという話だった。それを持って郵便局に行けば、採用試験を受けられる。試験といっても飛行確認だけで、飛べる魔女なら基本的に採用されると聞いていた。
つまり郵便魔女は、誰でもなれる。
空を飛べる魔女が他に向かない場合の、最後の選択肢。
ミリアは箒を肩に担ぎ直し、雨上がりの石畳を歩いた。水たまりが空の白さを映している。踏まないように歩いて、踏んでしまって、靴の先が濡れた。
郵便局は小さかった。木造の二階建てで、正面に緑色の看板が掛かっている。『空路郵便 第七分局』。扉を開けると、カウンターの奥に制服を着た男性が立っていた。
「基礎認定書を持っています。採用の相談をしたいのですが」
男性はミリアの書類を確認し、しばらく帳簿と照らし合わせてから言った。
「今、人手が必要なのは北方の小分局です。ロアン・ハーベルという担当魔女がいる局で、そこが見習いを探しています。どうですか」
「北方」
「山が近い場所です。路線が長くて、一人では大変だということで。あなたのような若い魔女を求めている」
ミリアは少し考えた。考えるほどの選択肢はなかった。
「行きます」
夕方の空は、雨が上がった後の澄んだ青だった。
ミリアは北方へ向かう箒に乗り、街を出た。眼下に屋根が並ぶ。煙突からの煙が夕風に流れる。だんだんと街が小さくなり、やがて田畑と森と川の景色になる。
空を飛ぶのは好きだ、とミリアはいつも思う。地上では何かに触れるたびに気を使う。手袋をしていても完全ではないから、できるだけ物に触れないように生活してきた。ドアノブは袖で握る。人と握手をする時は「風邪気味なので」と言い訳して手袋をはめたまま済ませる。
空には何もない。風と、光と、鳥が時々横切るだけで、記憶を持った物はない。
だから空が好きだった。北方の分局に着いたのは、空が暗くなりかけた頃だった。
小さな村の外れ。木立の向こうに、土台の石積みの上に建つ古い小屋があった。郵便局とは思えない外観だったが、看板が出ていた。『空路郵便 北方十三分局』。
扉をノックした。返事はなかった。もう一度ノックする。
扉が開いた。老婆が立っていた。七十代か、それ以上か。灰色の長い髪を緩く束ね、皺の深い顔に穏やかな目をしていた。古い魔女帽子を頭に乗せ、使い込まれた藍色の着古した服を着ている。
「ミリア・ヴェルンか?」
「はい。ブランチェ先生から紹介いただいた者です」
老婆はミリアをしばらく眺めてから、扉を大きく開けた。
「入れ。茶を出す」
ロアンと名乗った老魔女は、お世辞にも整理されているとは言えない局内に、椅子を二つ引っ張り出して並べた。石造りのかまどに火をつけ、鉄のやかんを置く。古い木の棚には郵便物の束が積まれ、壁には配達路線の手書きの地図が貼ってある。
「魔女学校を出たばかりか」
「出た、というより……」
「落第か」
ミリアは答えにくかった。しかしロアンは問い詰めるでもなく、やかんの火を確認しながら続けた。
「わしも落第だった」
「え」
「戦闘が向いていなかった。当時は戦闘魔女しか価値がないと言われていた時代でな、どこにも就職できなくて、郵便局に拾ってもらった」
ロアンはカップを二つ棚から取り出した。素焼きの、飾り気のないカップだった。
「今でも郵便魔女は、半端者の行き先だと言う者がいる。しかしわしは気にしない。手紙は、届けなければならない。それをする者が必要だ。それだけのことだ」
茶が注がれた。ミリアはカップを受け取った。手袋越しに温かさが伝わってくる。
「その手袋は取らんのか」
「取らない方がいいんです。能力があって、触ると記憶が見えるので」
「接触感応か」
「はい」
ロアンは茶をすすった。特に驚いた様子もない。
「郵便の仕事には向いているかもしれんな」
「え、でも手紙に触れたら」
「触れたら記憶が見える。そうか」
「いいことだとは思えないんですが」
「そう思うか」
ロアンはゆっくりとカップを膝の上に置いた。
「手紙はな」
老魔女は一呼吸置いて言った。
「人生だ」
ミリアは黙って聞いた。
「誰かが書いて、誰かへ送る。そこには必ず、何かがある。悲しみか、喜びか、怒りか、恋慕か。記憶が染み込むのは当然だ。手紙はただの紙ではない」
「それを配達するたびに見てしまうのが、いいことだとは……」
「そうは言っていない」
ロアンはミリアをまっすぐ見た。
「ただ、見える目を持つ者が、届ける仕事をする。それが何を意味するのか、あんたにはまだ分からんだろう」
ミリアには答えられなかった。
ロアンは再び茶をすすり、部屋の奥の棚を顎で示した。
「鞄を取ってくれ。一番奥の、黒いやつだ」
ミリアは立って棚へ向かった。棚の奥、他の郵便鞄たちに埋もれるように、一つの古い革鞄があった。黒い革で、金具がくすんでいる。随分と使い込まれた様子で、あちこちに傷がついていた。しかし縫い目はしっかりしていて、ひどく年季が入っているにもかかわらず、形が崩れていなかった。
手袋をはめた手でそれを取り上げた。ずしりと重かった。
空っぽのはずなのに、なぜか重い。
「それをあんたの鞄にしろ」
「え、でもこれはロアンさんの……」
「わしにはもう要らん。今は軽い鞄しか持てなくなった」
ミリアは鞄を手に取ったまま、じっとそれを見た。革の表面に手袋の指を這わせる。重い。ただの革製品の重さではない何か、形のない重さがそこにある。
「ロアンさん、この鞄」
「何だ」
「重い、です」
ロアンは少しの間黙っていた。それから、皺だらけの顔に小さく笑みを浮かべた。
そしてもう一度言った。
「手紙はな、人生だ」
その夜、ミリアは局の二階に用意された簡素な部屋で、革鞄を枕元に置いて横になった。
窓の外に星が出ていた。雨上がりの夜空は澄んでいて、見たことがないほど星が多かった。北方の空は、街よりも深い色をしている。
眠れなかった。
落第のことを考えた。同期の顔を思い出した。証明書を受け取って出ていった背中を。
何も悪くない。自分の能力を選んだわけではない。しかしそれでも、どこかで思ってしまう。もし能力がなければ、普通に卒業できたのだろうか、と。
「眠れないのか」
声がした。ミリアは飛び起きた。部屋には自分しかいない。窓は閉まっている。
声はもう一度した。
「眠れないのかと聞いている」
鞄だった。枕元に置いた黒い革鞄が、ミリアを見上げていた。見上げる、という表現がおかしいことは分かっているが、確かにそんな気配があった。
「し、しゃべった」
「しゃべっている。お前が聞こえていなかっただけだ」
声は低く、少し皮肉めいた響きがあった。老人のような重みがあるが、かといって男でも女でもない、ただ古いものが持つ声質だった。
「あなたは……鞄?」
「鞄だ。名前はポスト。以後よろしく」
ミリアはしばらく固まっていた。
「ロアンさんは何も言っていなかったけど」
「あの人は余計なことを言わない主義だ。それより、さっさと眠れ。明日から仕事だ」
「いきなり?」
「手紙は待たない。お前が落第しようと感応能力があろうと、届けなければならない手紙は毎日来る」
ミリアは鞄を見て、それから天井を見た。
「ポスト」
「なんだ」
「この仕事、できると思う? 私に」
しばらく間があった。
「さあな。半人前だということは分かる」
「知ってる」
「ただ、お前が重いと言った」
「え?」
「私を持った時、重いと言っただろう」
「言った、けど」
「手袋越しでも感じたわけだ」
ポストはそれきり黙った。
ミリアは考えた。手袋をはめていても感じた重さ。空っぽの鞄なのに。
「想いが入っているから、重いの?」
返事はなかった。
鞄は静かになっていた。眠っているのか、話し終えたのか、ミリアには分からなかった。ただ窓の外の星が少し流れて、北方の夜に消えていくのが見えた。
ミリアは横になって目を閉じた。明日から仕事が始まる。手紙に触れるたびに、見たくもない記憶が流れ込んでくる。うまくいくとは思えない。でも他に行くところがない。
それでも、と思った。空を飛ぶことは好きだ。それだけは、本当だった。




