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天涯の記憶  作者: カンキリ


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最後の希望2

『だめだ!来ちゃ駄目だ!逃げるんだ!』


 北條はそう叫んだつもりだった。

  が――。

 実際には、ひゅー、ひゅーと言う声帯を震わせない呼吸音が口から漏れただけだった。


「ひぇひゅへへへへへひゅうへふひへ」


 猿どもの奇声よりも奇怪な叫びが、北條の口から漂い出る。

 そのあまりの不気味さに猿たちは、あやかしに対する鬼追師の対抗呪文とでも思っているようで、思い思いに首を傾げたり、その場ではね回ったりと、多彩いな形で警戒し、北條との間合いを縮めるのを躊躇っているようだった。

 実際、今の北條の姿は、中腰と立ち姿勢の中間の物腰で尻を斜め上に突き出して、腰がふらふらと泳ぎ、呼吸のような言葉を絞り出しては、長い麺棒にやたらぶるぶると無駄な力を込めるという不気味なものだった。


「何ですか?北條さん」


 カチャリというドアノブを回す音と共に、綾子の声がした。

 直後。猿共の戸惑いが消え、一気に場の空気が張りつめた。


「うああああ嗚呼ああああアアア!」


 北條の精神が緊張に潰され、叫びが声になる。

 ドアを開け、そこにお茶の支度を乗せたトレイを持ったまま呆然と立ちつくす綾子を見て取ると、麺棒を握りしめ、大声を張り上げたまま一気に駆けだし、綾子をはじき飛ばすような格好で部屋の外へ飛び出す。

 綾子が持っていたトレーは床に放り出され、乗っていた茶器がガシャガシャと廊下に散らばってしまったが、彼女は辛うじて倒れることなく廊下に立ちつくしていた。


「鍵は?」


 北條がドアを押さえて中の猿達を閉じこめるようにしながら叫んだ。


「?」


 綾子はまだ状況がはっきり把握できないようだった。戸惑う表情が大きくなっていく。


「鍵だよ!この部屋の鍵!中にあやかしがいるんだ!閉じこめるんだ!早く!」


 部屋の中から無数の猿の叫び声がする。その内の何匹かはドアや壁に体当たりしているらしく、大きな音と共に廊下に振動が伝わってくる。綾子は、やっと状況が飲み込め始めた様子だった。


「鍵は、寝室です!」


 綾子は、慌てて寝室に鍵を取りに向かおうとする。


「まて!寝室はヤバイ!ちょっとまて!」


 寝室は最初にあやかしの現われた場所だ。

 しかも、応接間の隣に位置する場所ではないか。

 もし、あやかしが――。

 そこまで考えて、北條はふと、あることを思いつき自問した。あやかしはどうやって自分の居た部屋に入ってきたのだったか――。

 思い出すのもおぞましい、あの、猿共の出現シーンを彼は思いだしていた。

 何もない場所に、段々と出現していく黒い地蔵たち。

 次々に実体化していくふざけた落書きの様な猿ども。


「外だ――」


 力無く北條が呟く。


「中は駄目だ!外へ逃げるんだ!早く!」


 北條がそう叫んだ時、大きな振動と共に無数の鋭い刃物が、壁を突き破って飛び出した。

 それが合図で有ったかのように、壁のあちこちから、まるでモグラ叩きのモグラのように、何本もの鋭い刃が突き出てくる。紛れもない、あの猿たちの指の先に付いていた刃だ。

 途方もないチカラなのか、それとも切れ味なのか。もしくはその両方か。


「きゃー!」


 少し遅れて綾子の悲鳴が響き渡る。その叫びが固まっていた北條を正気に返した。


「逃げるぞ!」


 そう言うと、すっかりすくんでしまっている綾子の手を取り、引きずるようにして玄関に向かって走り始める。

 猿たちは、ドアの前に北條達が居なくなったことにはすぐ気づか無かったようで、尚も壁やドアに刃を突き立てている。

 綾子を気遣いながら後ろを振り返った北條の目に、ぐずぐずに破壊されたドアが崩れていくのが見えた。

 後少しタイミングが悪ければ自分もああなっていたであろう事は容易に想像ができる。

 ぞっとしながら前に向き直った北條の目の前に、一番あってほしくない光景が広がっていた。

 目と鼻の先の玄関で、うずくまる『黒い地蔵』達がぱきぱきと言う生木が裂けるような音を立てて、覚醒の真っ最中だったのだ。


「死にたくネェェェェェェェぇー!」


 魂の叫びと共に、手近なドアを開けて綾子を押し込むようにして逃げ込む。

 そこは、キッチンだった。

 ケーキ屋と言うだけあって、普通の一部屋分を丸々改造した物らしく、きちんと整理整頓されたキッチン内は、がらんとして広く、大きな作業台がある以外は、隠れるような場所は皆無だった。


 立ちすくむ北條を退かすようにして、綾子がドアノブの鍵のつまみをカチリと回す。

 北條と綾子は顔を見合わせたが、そこに安堵は無かった。

 二人とも知っていた。これでは駄目なのだということを。

 二人がほぼ同時に胸騒ぎを感じ、急いでドアから離れたその時。

 再び、今度はドアに集中して、無数の刃が飛び出した。

 繰り返し、繰り返し――、飛び出してくるあやかし達の刃!

 あっという間にドアは網の目のように穴だらけとなり、その隙間から猿たちの顔が覗き込む。

 気が早る輩は、完全にドアを崩す前に、僅かな隙間に顔や身体を突っ込んで侵入しようと試みていた。

 そして、その試みがもうじき達成されそうなのを、北條と綾子はキッチンの一番奥で、身を寄せ合いながら、ただ傍観するしかなかった。

 壮絶な光景の中で、正気を失い、叫び出しそうになっていた北條は、自分が握っている綾子の手が小さく震えているのに気付いた。


 『この子の為に何が出来ないか』


 ついさっき、心を過ぎったのそのくすぐったい想いが、悲鳴と共に飛びそうになった北條の正気をつなぎ止めた。


「そうだ」


 まだ、手はあった。

 彼は綾子の震える手を強く握り返す。

 ハッとしたように綾子が北條を見つめる。


「とっておきを見せてやる」


 北條がそう言うと、彼女も震える手で北條の手を握り返し、すがるような目で見つめた。

 北條は、右手で、首に下げていたペンダントのトップに付いた飾りを握りしめ、高くかざした。それは純金の駕籠に封じられた、霊力を持つと言う赤と蒼の二つの石。

 姫緒より託された『喚ビの荒石』。

 何が起こるのかは良く理解していない。だが紛れもなくこれは最後の希望。そして、事態は一刻の猶予も無い。


 ついに、何匹かのあやかしが、こちら側に侵入することを成功させようとしている。


「風小!助けてくれ!風小!フウコぉー!」


 北條の絶叫。



リーン。



 澄んだ鈴の音が部屋に響き渡った。

 北條の持つ、鈴の形状をしていない、鳴るはずのない荒石を中心として、広がるように鈴の音が鳴り響いた。

 その音自体、何かのチカラを持つものだったらしく、鈴の音によって、部屋へ入りかけていた数匹のあやかしが廊下にはじき飛ばされていた!

 だが、それっきりだった。

 再び進撃を開始したあやかしは、前にも増した猛攻で、ついに扉を完全に破壊する!


「これで――。終わり?」


 焦点の定まりきらないあやかしの目と北條の目が合う。あやかしの薄い唇が、細かいギザギザの歯をみせながらニタリと笑ったようなような気がした。


「ウソダロォォォッ!」


 ドアから覗き込む無数のあやかしが一斉に、今度は間違いなくニタリとわらった。


「フウコォホー!」


 北條が吼える。



リーン。 



 再び、荒石が反応をした。



リーン。リーン。りーん――。



 己の出す音に共鳴するかのように、鈴の音が連鎖する。そのたびに、空間に荒石を中心とした光輪状の波紋が起こり、波紋は新たな波紋を創り、同時に音も繰り返す。音が、また新たな音を連鎖し、音は波紋を作り出す。永遠に続くような相乗連鎖。部屋の中は光輪状の波紋と、鈴の音の輪唱で満たされた。

 戸惑うあやかし達。

 もはや口元に人を食ったような笑いはない。奇声を上げて騒ぎ散らし、身体を揺すり、威嚇するかのように大騒ぎをしていたが、やがて、音と光が舞うたびに、あやかし達は部屋の壁に向かってはじき飛ばされ、叩きつけられた。

 そうして、あらかたのあやかし達が、部屋の隅で身動き出来ない状態となると、荒石を中心として出現と消滅を繰り返していた光の波紋は、急速に部屋の中心に向かって収束しだし、目が眩むような光の柱がそこに出現する。


 それは人の形をとって空間に固定されると、次の瞬間、全ての光と音が一斉に消え去った。

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