ほんとのこと2
姫緒の家から戻った綾子は、その日、早めに休もうとしていた。
そうはしたいと思ったのだが、なまじ店に人気があった為、予約されていたケーキ作りのスケジュールを無理矢理に調節したツケは山のようにあり。
加えて、後に回さざるをえなかった事柄や、明日の為の新しい段取りが、かなりの量で残っていた。
そんな状態であるにもかかわらず。
姫緒のところでシャワーを借りた際、何故か温水が沁みてひりひりと痛んだ両頬。
その、理由も解らず未だに続く、責めるように疼く痛みがイライラを誘っている。
気のせいか、腫れて来たような気がする事が、追い打ちをかけて彼女の気を滅入らせ、仕事の効率を低下させる。
結局、綾子が全ての段取りをこなし、パジャマに着替え、寝室の化粧台の前に座って髪にブラシをかけることが出来たのは、深夜と言われる時間と、早朝と言われる時間の境が溶け合う頃の事だった。
酷い虚脱感。
倒れ込むようにベットに入ったが、今度はあれこれとまとまりのない思考が交差し、軽い興奮状態に陥り、目が冴えて眠れない。
うとうととしては目を覚ます。
実際に経過した時間以上に長い時間そうしていたような気がしていた。
ふと、何かの気配を感じる――。
初め、それは短い夢の続きのような感覚で綾子を襲った。
だから、彼女がその感覚に襲われながらも、次の行動を起こさなかったのは、無視したというよりは、現実で無いから関わり合わなかったと言うような次第だった。
だが、夢と現を往復するうちに、徐々に綾子はその感覚を現実のものと認識し始め、ゆっくりとベットから起きあがり、部屋を見渡してみた。
特に変わった様子は認められない。
なのに、ざわざわとした気配も変わらずにずっと続いている。
空気が重い――。
綾子はベットから降りると、部屋に風を入れようと、バルコニー側の窓へと近づき、左右から引かれている柔らかな黄色のカーテンに手を掛け、少しだけ両側に開いた。
正面のガラスに自分の目が映っている。
違和感。
遠くに見えるはずの街の明かりが見えない。ガラスの向こうは漆黒の闇の中の闇。
そこに、ぽっかりと浮かぶ一対の綾子の瞳。
いや――。『それ』は瞳と言うよりは目玉?
窓の外の闇がゴソゴソと蠢き出す。
そして綾子は気がついた。闇ではない。
サッシのガラス一面にヤモリのように張り付く、日本猿のような、たくさんの黒い獣の群れ。
それが一斉に、閉じていた目をグリリと開けた。
グロテスクな、焦点の定まらぬ、死んだ魚のようなたくさんの目玉が綾子を囲むようにガラス一面に出現した。
綾子は。
叫ぶ事も出来ずに。
気を失った。




