合言葉が結ぶ、残酷な真実
静かな公園に、男の荒い息遣いと、猫の苦しそうな鳴き声だけが響いていた。
約束の午後二時は、もう過ぎている。
『アース』は、もう来ないかもしれない。
いや、もう、どうでもよかった。
律子の全神経は、目の前の「非論理的な男」を論破することに集中していた。
「あなたは、感情論でルールを破壊しようとしている。それは社会的な秩序を踏みにじる行為です」
「秩序? そいつが死んでから守る秩序に、何の意味があるんだよ!」
「意味はあります。あなたが今ここで勝手な処置を施すことは、動物愛護法における……」
「ああ、もう、わかった! わかったよ!」
男は、いら立ちを隠しもせず、自分の髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
「あんたの言うことは、全部正しい! 完璧な正論だ! 役所の窓口かどっかで、いつもそうやって『ルールです』って言って、人を追い返してんだろ!」
図星だった。
律子の胸が、冷たい針で刺されたように痛む。
(違う、私は、ただ、正しく……)
「けどな!」
男は叫んだ。
「そいつは、ただのあんたの自己満足だ! 目の前の痛みを無視して、遠くのルールを守って、それで『自分は正しいことをした』って安心したいだけだろ!」
「……違う」
「違わねえよ! そんなもんは、ただの臆病者の言い訳だ!」
男は、震える猫をそっと抱え上げようと、再び身をかがめた。
律子は、とっさにその腕を掴もうとする。
「やめなさい! あなたが触るな!」
「邪魔すんな!」
男は、律子の手を荒々しく振り払った。
その瞬間だった。
怒りが頂点に達した男は、律子の目をまっすぐに見据え、心の底からの叫びをぶつけた。
「いい加減にしろ! 理屈は後だ!」
「――え」
律子の思考が、停止した。
今、なんと言ったのか?
『理屈は後だ』。
それは、ネットの向こう側で、いつも『ロジカ』の鋭すぎる論理を、優しく受け止めてくれた言葉。
それは、律子が、世界で最も信頼する『アース』の、合言葉。
律子の頭が真っ白になり、唇が、勝手に動いていた。
無意識の、反射だった。
「…………問題ない」
男の動きが、凍り付く。
『問題ない』。
それは、どんなトラブルや愚痴にも、冷静な分析で応じてくれる、ネット上の『ロジカ』の合言葉。
ゆっくりと、男が顔を上げる。
その目から、さっきまでの怒りが消えていた。
代わりに、信じられないものを見るような、絶望的な驚きが浮かんでいた。
男は、目の前の女を見た。
冷たい眼鏡。
融通の利かない、地味なスーツ。
今にも泣き出しそうに歪んだ、その顔。
それが、自分が最も信頼していた『ロジカ』の、現実の顔だった。
律子も、目の前の男を見た。
ルーズな格好。
感情的で、子供っぽい、非常識な男。
自分が最も軽蔑していた、あの男の顔。
それが、自分が最も惹かれていた『アース』の、現実の顔だった。
時間が、止まった。
(……あ)
(……まさか)
『アース』は、この男だった。
『ロジカ』は、この女だった。
ネットで築き上げた、完璧な理想。
現実で積み上げた、最悪の嫌悪。
その二つが、今、目の前で、残酷な音を立てて衝突し、砕け散った。
「あ……」
律子が、何かを言おうとした。
だが、声にならない。
「……うそ、だろ」
男が、絞り出した。
次の瞬間、律子は、背を向けて走り出していた。
もう、何も考えられなかった。
慣れないヒールがもつれ、転びそうになるのも構わず、ただひたすらに、その場から逃げ出した。
『アース』から。
あの男から。
そして、こんな現実を招いた、『ロジカ』自身から。
男は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
腕の中では、小さな猫が、か細く鳴いていた。




