最後の道筋:猫、ルール、そして激突
土曜日。
律子は、重い足取りで、待ち合わせ場所へと向かっていた。
あれから、アースとは簡単なやり取りしかしていない。
律子の心の棘は、消えないままだった。
(これで、最後)
今日会って、もし彼が、あの駅の男と同じような「ルーズさ」や「自分勝手さ」を見せるなら、もう、『ロジカ』も『アース』も、すべて終わりにしよう。
そう決意して、待ち合わせ場所の公園の入り口に足を踏み入れた。
午後二時。まだ、アースらしき姿は見えない。
(……また、遅刻?)
嫌な予感が、胸をよぎる。
その時だった。
「ミャア……」
足元で、か細い鳴き声がした。
見ると、植え込みの影で、一匹の野良猫がうずくまっている。
よく見ると、後ろ足が、血で濡れていた。
「……っ」
律子は、息を飲んだ。怪我をしている。
(どうしよう)
(役所に……いや、まずは動物病院? でも、野良猫をどうやって……)
『ロジカ』の論理が、高速で回転する。
感情的になってはダメだ。こういう時こそ、冷静に、正しい手順を踏まなければ。
律子は、スマートフォンを取り出し、管轄の役所の動物愛護担当課の番号を検索し始めた。
「おい、大丈夫か!」
不意に、背後から荒々しい声がした。
振り返るより早く、あの個性的なスニーカーを履いた男が、律子の横をすり抜けて猫に駆け寄った。
(……あの男!)
あの朝、そしてこの前の駅。三度目の、最悪の遭遇だった。
男は、高価そうなリュックを地面に放り投げると、猫に向かってしゃがみ込む。
「うわ……ひでえ怪我だ。車にでも轢かれたか?」
男は、ためらうことなく、自分のパーカーの袖を破くと、猫の足にそっと巻き付け、応急処置を始めた。
「……何をしているんですか」
律子は、思わず声をかけた。
「あ? 見りゃわかんだろ、手当てだよ」
「素人が勝手に触るべきではありません。まずは、しかるべき機関に連絡するのが筋です。今、私が……」
「はあ?」
男は、信じられないという顔で律子を振り返った。
「機関に連絡? あんた、こいつが今、どんだけ痛がってるか、わかってんのか!」
「わかっています。ですが、ルールです。野良猫の保護には、所定の手続きが……」
「るっせえな! そんなもん待ってる間に、こいつが死んだらどうすんだよ!」
男は、猫をそっと抱き上げようとした。
「待ちなさい!」
律子は、強い口調で制止した。
「あなたは、感情に任せて、正しい手順を無視しようとしています。それは、ただの自己満足です! もしその猫が感染症を持っていたら、どうするんですか!」
「……」
男は、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、あの朝の軽薄さとも、駅でのいら立ちとも違う、静かだが、底知れない怒りに燃えていた。
「……あんた、さっきからそればっかりだな」
冷たい声だった。
「あんたにとって大事なのは、ルールか? 手続きか? こいつの命より、そっちのほうが大事かよ」
「そういう問題ではありません。論理的に、最もリスクの少ない最善手を選ぶべきだと言っているんです」
「最善手? 役所に電話して、たらい回しにされてる間に、こいつを見殺しにしろってか!」
「見殺しになど……!」
「なるんだよ!」
男は、激しく叫んだ。
「あんたみたいな、頭でっかちで、血も涙もない理屈のせいで、助かる命も助からなくなるんだ!」
律子は、その怒りに圧されて、一歩後ずさった。
(違う、私は、ただ、正しく……)
「あんたみたいなのが、一番タチが悪い」
男は、心の底から軽蔑するような目で、律子を睨みつけた。
律子の頭が、カッと熱くなる。
今、この男に、私の何がわかるというのか。
「あなたこそ、何もわかっていない!」
律子も、叫び返していた。
「感情論だけで突っ走る、非常識なあなたに……!」
その、二人の対立が最高潮に達した、瞬間だった。




