正直と、裏切る現実
『アース:今度こそ、本当に会おう』
チャットルームに、アースからの真剣なメッセージが届いたのは、あの「最悪の日」から一ヶ月が過ぎた頃だった。
『ロジカ:……本気ですか?』
『アース:本気だ。もう、ネット越しじゃ我慢できない。俺は、ロジカに会いたい』
律子の心臓が、大きく跳ねた。
嬉しい。だが、それ以上に、怖い。
会いたいのは、『ロジカ』であって、地味で、押しに弱く、感情の爆発が苦手な『田中律子』ではない。
(現実の私を見たら、彼はきっと幻滅する)
『ロジカ:……私は、あなたが思っているような、完璧な人間ではありません』
『アース:知ってるさ。俺だって、君が思ってるほど包容力のある聖人じゃない』
『アース:お互い、現実じゃ色々ある。だからいいんじゃないか。ダメなところも、全部見せ合おうぜ』
『ロジカ:……』
『アース:大丈夫。俺が全部受け止める。……ダメか?』
律子は、ぎゅっと目を閉じた。
この一ヶ月、アースの優しさにどれだけ救われてきたことか。
臆病な自分(田中律子)を、論理の仮面で隠し続けるのは、もう限界だった。
(……この人になら)
『ロジカ:……わかりました。会いましょう』
『アース:本当か! やった!』
画面の向こうで、アースが子供のようにはしゃいでいる気配が伝わってくる。
律子は、不安と期待が入り混じった複雑な笑みを浮かべた。
約束は、次の土曜日の午後。駅前の、新しくできたカフェ。
目印は、二人が所属するVRゲームチームのフラグ(旗)柄のハンカチだ。
*
そして、運命の土曜日。
律子は、鏡の前で深呼吸をした。
いつもの地味なスーツではない。この日のために、勇気を出して買った、少し明るい色のブラウスだ。
(大丈夫。私だって、やればできる)
待ち合わせのカフェに着くと、すでに店内は混み合っていた。
入り口で、それらしき人物を探す。
(……いない?)
アースらしき人は、見当たらない。
少し早すぎたかと、時計を見る。約束の五分前。
(大丈夫。彼は時間にルーズなところがあると言っていた。少し、待とう)
律子は、そう自分に言い聞かせ、入り口の隅で彼を待った。
だが、約束の時間を過ぎても、彼は来ない。
十分が過ぎ、二十分が過ぎた。
(……どうしたんだろう)
不安が胸をよぎる。
スマホを取り出し、チャットアプリを開こうとした、その時。
『アース:ごめん!!!!!』
通知が飛び込んできた。
『アース:本当にごめん! 急なクライアントトラブルで行けなくなった!』
『アース:デザインの納品データが、俺のミスで一部破損していたらしくて……今、全力で復旧してる!』
『アース:本当に、埋め合わせは必ずするから!』
律子は、スマホの画面を、ただ呆然と見つめていた。
(……仕事の、トラブル)
(……彼の、ミス)
アースが謝っているのは分かっている。不可抗力だったのかもしれない。
だが、律子の頭の中では、別の記憶がフラッシュバックしていた。
『あーあ、最悪だ』
あの朝、ぶつかってきた男の、ルーズな服装と、非常識な態度。
(……やっぱり、そうなんだ)
(ルーズな人は、結局、肝心なところでミスをする)
アースが、あの男と同じだとは思いたくない。
だが、『大事な約束』と『仕事のルーズさ』を天秤にかけ、約束を破った事実は同じだ。
『ロジカ:……問題ない、です』
律子は、指先が冷たくなるのを感じながら、そう返信した。
『ロジカ:仕事なら仕方ありません。気にしないでください』
『ロジカ:復旧作業、頑張ってください』
『アース:ロジカ……。本当にすまない』
律子は、チャットを閉じた。
カフェの窓ガラスに映った自分の顔は、期待に上気していた数分前とは別人のように、こわばっていた。
(……私が、期待しすぎたんだ)
ネットの理想と、現実。
その間に横たわる、どうしようもない溝。
律子は、行き場のない不信感を、再び冷たい論理の蓋の下に、そっと押し殺した。




