夜の解放:『ロジカ』と『アース』
『――以上が、本日寄せられた市民相談の概要と、今後の対応策です』
田中律子は、ヘッドセットのマイクに向かい、淡々と報告を終えた。
自宅に戻り役所の地味なスーツを脱ぎ捨て、リラックスしたルームウェアに着替えた彼女の顔は、日中の緊張から解放され、PCの画面には、オンライン上の作戦会議室が表示されている。
律子の名前は、ここでは『ロジカ』。
冷静な分析と論理的な戦略提案を得意とする、チームの参謀役だ。
『ロジカ。いつも完璧な分析をありがとう』
スピーカーから、優しく、包容力のある声が返ってくる。
声の主は『アース』。
このVRゲームチームのリーダーであり、律子がネット上で唯一、心を許せるパートナーだった。
『アース:今日の報告も完璧だった。おかげで、次のアップデートの方針が明確になったよ』
『ロジカ:問題ありません。それが私の役割ですから』
律子は、小さく笑みを浮かべた。
日中、役所の窓口で「ルールだから」「規則だから」と、感情的な市民のクレームを事務的に処理する『田中律子』。
彼女は、感情の爆発が苦手だった。
過去のトラウマから、感情を排除し、論理だけを絶対視することで、かろうじて自分を保っている。
だが、ここでは違う。
『ロジカ』の論理は、感謝こそされど、決して非難されることはない。
『アース:しかし、今日のロジカは、いつもより少し、分析にトゲがあった気がする。……何か、リアルであったのかい?』
ドキリとした。
アースは、いつもこうだ。
声や文章のほんのわずかな揺らぎから、律子の心の機微を正確に察知する。
『ロジカ:……大したことでは。ただ、朝から非常に非論理的な人物に遭遇しまして』
『アース:ほう?』
律子は、キーボードを叩いた。
今朝の、あの男のことだ。
『ロジカ:TPOをわきまえない服装。謝罪の欠如。感情的な逆ギレ。すべてが私にとっての『最悪』を体現したような男でした』
『アース:ははは。それは災難だった』
アースは、笑いながらタイプを続けた。
『アース:実は、俺もだよ。今朝、とんでもなく理屈っぽい女に絡まれてさ』
『ロジカ:あなたが? 珍しいですね』
『アース:ちょっと角でぶつかっただけなのに、靴のソールパターンがどうとか、社会通念がどうとか、延々と説教さ。こっちは大事なデザインの締切前でイライラしてたってのに』
(……奇妙な偶然も、あるものだ)
律子は、皮肉な偶然に少し口元を緩めた。
アースも、自分と同じように「最悪な出会い」をしていたらしい。
『ロジカ:それは……ご愁傷様です。感情論で理屈を振りかざされるのは、確かに疲れますね』
『アース:いや、理屈はいいんだ。理屈は大事だ。でも、その理屈で人を殴っちゃ、おしまいだよ』
『アース:大事なのは、その理屈の根っこにある『感情』だろう? なぜ相手が怒っているのか、なぜ自分が謝るべきなのか。……理屈は、後だ』
『理屈は後だ』。
律子の胸に、その言葉が、温かいインクのように染み込んだ。
アースは、フリーのデザイナーで、現実では少しルーズなところがあるらしいが、その思考はいつも思慮深く、詩的すらある。
律子が持ち合わせていない、感情への包容力。
『ロジカ:……そうですね。あなたは、いつも正しい』
『アース:そうでもないさ。俺はただ、自由でいたいだけだ。ルールに縛られて、大事なものを見失いたくない』
彼は、過去にルールに縛られて挫折した経験があると言っていた。
だからこそ、自由と感情をエネルギーにしているのだろう。
『ロジカ:……あなたと話していると、安心します』
素直な言葉が、こぼれた。
『アース:俺もだよ、ロジカ。君の冷静な論理が、俺の暴走しがちな感情を、いつも正しい場所へ導いてくれる』
『アース:いつか、リアルでも会ってみたいな。君と俺なら、きっと最強のパートナーになれる』
『ロジカ:……そう、ですね』
律子の頬が、わずかに赤らんだ。
現実の田中律子は見せられないが、『ロジカ』としてなら。
『ロジカ:もし、すべてがうまくいったら。……問題ない、でしょう』
その夜、二人は、互いの「最悪な出会い」を笑い飛ばし、ネット上の理想の関係を、さらに深めていった。




