最悪の五分間:軽薄な男と散乱した論理
「……っ、危ない!」
朝のラッシュ時。
乗り換えの駅へと急ぐ近道の住宅街、その見通しの悪い角を曲がろうとした瞬間、田中律子は、真正面から突込んできた人影と激しく衝突した。
「うわっ!」
「きゃあ!」
律子の手から、愛用の革製バインダーが弾き飛ばされる。
バサバサ、と乾いた音を立てて、今日提出するはずだった市民相談の統計レポートが、アスファルトの上に無残に散らかった。
「いった……。てめえ、どこ見て歩いて……」
低い、不機嫌そうな男の声。
律子は、打った肩の痛みをこらえながら顔を上げた。
そこに立っていたのは、寝癖だらけの髪に、ルーズなパーカー、高価そうだが汚れたスニーカーを履いた男だった。
いかにも軽薄そうで、時間にもルーズそうな、律子が最も苦手とするタイプだった。
「……っ」
男は、自分の膝をさすりながら立ち上がると、散乱した書類に目をやり、それから律子を、まるで邪魔者でも見るかのように睨みつけた。
「あーあ、最悪だ。朝っぱらから、なんでこんな急いでんだよ、そこのおねーさん」
律子の頭の中で、何かが切れた。
(……この男が、ぶつかってきたのに)
謝罪の一言もない。
それどころか、まるで律子が一方的に悪いかのような、その非常識な物言い。
律子は、唇を噛み締めながら立ち上がり、スカートの埃を払った。
「急いでいたのは、そちらも同じでは?」
冷静に、論理的に。
相手が感情的であるほど、こちらは冷静にならなければならない。それが律子の信条だ。
「はあ? 俺は別に……」
「見通しの悪い角です。どちらに非があるかと言えば、双方に注意義務があります。ですが、あなたは私を『てめえ』と呼び、一切の謝罪もありません。それは社会通念上、著しく常識を欠いた言動です」
「なっ……」
男は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「それから」と律子は続けた。
「あなたのその個性的なスニーカー。今朝の雨で濡れたタイル上では、非常に滑りやすいソールパターンをしていますね。もう少し、TPOをわきまえた靴を選ぶべきです」
「……」
男は、完全に言葉を失っていた。
律子は、男の足元に落ちていた自分のバインダーを無言で拾い上げると、散らばった書類をかき集め始めた。
一部は、すでに泥水で汚れてしまっている。
(最悪だ)
「……おい、ちょっと」
男が、何かを言おうと手を伸ばしかけた。
「触らないでください」
律子は、氷のような声でそれを拒絶した。
「あなたとこれ以上、非生産的な会話をする時間はありませんので」
男の手が、気まずそうに宙をさまよう。
律子は、汚れた書類をバインダーに挟み直すと、男を一切見ることなく、その場を足早に立ち去った。
「……なんなんだよ、あの女。理屈っぽくて、感じ悪ぃ……」
背後で、まだ何かをぶやいている声がしたが、律子は無視した。
(最悪の五分間だった)
感情的で、非常識で、軽薄な男。 今日一日の気分が、あの男一人のせいですべて台無しにされ。
律子は、胸の中に渦巻く嫌悪感を、冷たい論理の蓋で無理やり押さえつけた。




