表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第3話 変化

再び、針山地獄。


何年ぶりかも分からない。

それほど時間の感覚は失われ、記憶は焼けている。


――ただ一つ、確かなのは。


「またここに戻ってきた」という、絶望だけだった。


かつては地面を歩くだけで悲鳴を上げていた足。

今では、悲鳴すら出ない。

針の痛みにも、血の流れにも、魂がすり減る音にも、もう慣れてしまった。


いや、慣れたんじゃない。

何も感じなくなっただけだ。


その日、いつもと同じように、針の海を歩いていた。


すると――前方に、誰かの背中があった。


誰かが、自分よりも速いペースで、

針を踏みしめながら、黙々と前を進んでいる。


男だった。

背は高く、黒髪がうなじにかかるくらいで、全体的に痩せている。

けれど、背筋はピンと伸び、歩き方には不思議な整然さと力強さがあった。


それが妙に目を引いた。


泣き叫ぶ亡者、呻く者、倒れる者――

誰もが「耐えることで精一杯」なのに、

この男だけが、「目的を持って進んでいる」ように見えた。


 

「……」

なぜか言葉をかけたくなった。

その衝動に、自分自身が一番驚いていた。忘れていたはずの感情だった。

声の出し方なんて、思い出せるだろうか。喉がカラカラに乾いて張り付き、唇が震える。

それでも、何かに突き動かされるように、かすれた息を言葉に変えた。

「……君、何年目?」


男は、一切反応しなかった。


「聞こえてない……?」


「……あの……名前は……?」


沈黙。


背中は止まらない。

振り向かない。

言葉も発さない。


まるで、声など存在しないかのように、ただ前へ進むだけだった。


だがそれでも、奏多は彼の後ろを歩き続けた。


どうしてか分からない。

けれど、あの背中だけは折れていなかった。


それが、地獄の中で初めて見た生きている人間のように思えたのだ。


 


何日かが過ぎた。

その背中は、相変わらず何も語らない。

呼びかけても、振り向くことすらない。


まるで、感情も声も、どこかに置いてきたかのようだった。


それでも――


「ああ、今の僕は……この背中だけを頼りに、生きてる」




そう思ってしまうほどに、

あの沈黙の背中は、確かな希望のように光っていた。



彼の名を知るのは、まだ先の話。


今はただ、

沈黙の背中と、

それを追い続ける名もなき亡者・黄泉奏多の物語が、静かに始まったところだった。


地獄には、法則がある。

重力。痛み。罰。支配。

そして、絶望。


僕は100年以上、ずっとそれに耐えるだけだった。

仕方のないことだと思っていた。

「地獄とは、そういう場所なんだ」って。


でも、沈黙の男を見て、ようやく気づいた。


――彼は、傷ついていなかった。



他の魂たちが、針で貫かれ、血のような痛みによろけている中、

彼は平然と歩いていた。

まるで、針が届いていないように。


最初は、魂の質が違うのかと思った。

でも違った。

僕が注意深く観察すると、ある瞬間、確かに見えた。


彼の周囲には、薄く光る膜のようなものがあった。

針が男の足に触れる寸前、その膜がわずかに光り、衝撃を逸らしている。

あれは一体なんだ?

魔法や奇跡じゃない。誰かに与えられた力でもない。地獄はどこまでも平等で、無慈悲なはずだ。

なら、あの力はどこから来ている?

僕は、もう一度男の全身を見た。

その歩き方。その姿勢。そして、一度も揺らがない、その眼差し。

――ああ、そうか。

「心だ……」

彼は、心を折らなかった。


怯えず、投げ出さず、泣かず、逃げなかった。

100年以上、ずっと、自分の罪と向き合いながら――倒されても立ち上がった。


その心の強さこそが、

彼の魂を守っていたんだ。



僕は自分の手を見つめた。

震えている。

針に刺された傷がまだ残っている。


でも……まだ、痛みがマシだ。

彼を見ていたから。

「自分も進める」って、思えたから。



それだけで、心が少しだけ強くなっていた。

その瞬間だった。


「……あっ……?」


自分の体の表面に、わずかに風を弾くような感触があった。

ほんの一瞬。

けれど確かに――僕の周りに、何かが生まれかけていた。


バリア。

魂の防壁。


心が、折れなければ。

信じ続ければ。

くじけなければ――地獄ですら、抗える。


その法則に、ようやく僕は触れた。



「……君は、最初から知っていたんだな……!」


なぜ、喋らなかったのか。

なぜ、誰にもそれを教えなかったのか。


それはきっと、気づけた者にしか意味がないから。

与えられる力ではなく、自分の中から生まれる力だから。



僕は、立ち上がった。

足が痛む。でも前より軽い。


たった今、僕の魂が目を覚ました。



地獄のルールは、変わらない。

だが、僕は――変われるんだ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ