ご褒美はお仕置きの後で
生ぬるい風が吹く夜だった。
ミランはそそり立つ塀を前に、小さくイヌの名を呼ぶ。
「アマト、どうせ見ているのだろうて。出てこい」
異国の夜空は母国のそれと変わりなく、絢爛な赤い星々が瞬いている。
背後の空気が動いた気配で可愛いイヌを察すると、ミランはスッと塀の上を指差した。
「手伝え。今宵は憂さを晴らしたい気分でな」
この分厚くて高い塀を乗り越えたい。自国では正々堂々と正門から出るのだが、さすがにこの旅の間はそうもいかない。ひょこっと顔を出したアマトがふぅ~んと顎を撫でる。
「けど明日って、顔合わせでしょうが。前夜に夜遊びなんて知れたら」
「かまわぬ。部屋にオリエも寝かせてきた。あちらは顏も知らん、バレようもない」
「そーすか」
忠告の割にどうでも良さげな返事でイヌは返した。どうせこの主人は言ってきいた試しがないのだ。
「いつもみたいに軍服じゃないんすね? お忍びなのに」
上から下まで主人を見てくる。
「あほう。どこに異国の軍服を着てうろつくお忍びがおる」
「それもそーか。それにしたってか~わい……」
チラ、と目線で『いい加減に黙れ』と念ずれば、イヌは大人しく口を閉じる。二人で思い出したように高い塀を見上げた。
塀の上には槍状の鉄柵が整然とぶっ刺さっていて、ミランが見上げた先には数本、根元の変色が見られた。目を凝らさねば見つからない程度の錆だ。
「相変わらずの目の付け所で」
「イヌどもが使う場所であろ。お前、上がって抜いてこい」
「それで俺?」
「余はコレじゃからな。拝借した上着を破る訳にはいかぬ」
くすんだアイボリーのショールで頭部をすっぽり隠し、同色の身体を包んだチャパンの下にはひらひらしたドレスが覗いている。
「破る? ミラン様が? そんなヘマ」
「黙りゃ。はようせい」
「はぁ」
渋々と言った様子で主人の命に頷き、アマトはスルスルと登って塀に立つと、鉄柵を抜いていく。続いて腰元から取り出したロープを垂らし、主人に渡した。ミランもロープ伝いに難なく登ると、頂上で柵を手に乗り出し屈んでいたアマトの背に負ぶさった。トン、と塀の向こう側へアマトが着地する。
それら一連の動きは素早く正確で、ものの数分、静寂の中に始まり終わった。
「で、どちらへ?」
「そうじゃな、今宵は」
背に乗ったままのミランがイヌの首前にするりと腕を回す。クっと絞め上げた。アマトが目を丸くした時にはもう遅い。
「……へぁ? ミ、ァ」
「………」
太腿を支え持っている手の力が緩んでいく。何とか主人を地面に落とさぬようにと、この局面でも従順なイヌ。可愛いその様子に微笑んで、いよいよ腕の中で気絶した重たい身体を塀沿いに寝かせた。チャパンの下から小さな酒瓶を取り出して顔の横に置けば、泥酔男の完成である。
「ご苦労であった」
優しい声で囁いてスタスタと歩き始める。
さて、まずは何はともあれ酒である。
巷で噂の途切れぬ『幻の酒』。容易には手に入らず、だが一度飲めば虜になってやめられない。その脳が溶けるまで魅力に溺れ、全てを失う程の銘酒だとか。
だが自国のヨルドーでは飲んだと言う者に出会えなかった。見つけた時には死んでいたのだ。八方尽くしてイヌどもに探らせて、この東の国アラディンに流通の総元が存在していると知った。
ミランは女の足とは思えぬ健脚ぶりで、アラディンの首都パラディアスに建つ豪邸からひとり繁華街へと歩く。
夜の街は賑やかに人通りも多く、色めき立った声がそこかしこからで飛び交う。
「これ、そこの娘」
道端でピタリと止まり、突然、たちんぼの若い娼婦に声をかけた。
「アタシ?」
「そうじゃ。可愛いそなたじゃ。ひと晩いくらぞ?」
「アンタ、変わった喋り方ねぇ。ひと晩じゃ結構高いわよ。一万マーディリ」
「ほう、それだけ愛らしく一万とな」
「うふっ、安かったかしら」
「よろしい、ではそなたを二万で買おう」
「は?」
「だめか」
ショールの隙間から微笑むミランに娼婦は動揺する。
「えー、だってアンタ、女でしょ。二万なんて嬉しいけど、アタシ、そっちは得意じゃないの」
「そうか、それは残念だが……実は用向きは違ってな。服を交換してくれんかの」
「服?」
ミランは頷く。
「服を交換して、少しその紅を塗ってくれ。それで二万」
娼婦の唇には毒々しい赤。
「そんなんで良いの?」
ミランは頷き、交換したドレスは好きにしていいと唇に弧を描く。
娼婦は多少考えたが、男友達が経営する店の奥で服を交換することにした。
そうすれば万が一、このショールの女が妙な奴でも危険を回避できる。男友達とは懇ろなので、何かあればこの女をボコボコにしてくれるだろう。
「……良いわよ、じゃあ付いて来なよ。友達の店が近いから、そこで着替えよ」
「それはありがたい」
店の灯りの中、ショールの下から現れたドレスを見て娼婦は絶句する。
上等なんてもんじゃない。
お目にかかったことがないくらいに仕立ての良いドレスだった。ドレスを売れば、二万どころか五十万くらいは軽くいきそうに見える。だって宝石が縫い付けられているのだから。
「……あ、あんたコレ、本当にアタシの服と交換すんの?」
正気か? 三千で買った露出が高いだけのガラベーヤと交換?
「ああ。はようせい。紅も忘れず頼むぞ」
躊躇なく脱ぎ始めたミランが急かす。
落ち着きのあるダークブロンドは編みこまれていても艶を放ち、翡翠の瞳は吸い込まれそうに澄み、白磁の肌は娼婦でさえ生唾を飲む仕上がり。ショールの中から現れた女はどうにも品が良く、鋭利で透明な美しさがあって、なぜだかひれ伏したい衝動が湧く。
「あの……あの」
突然もじもじし出した娼婦に微笑み、ミランは艶っぽい流し目で彼女の頬を撫でてやった。
「なんじゃ」
「良ければ、お化粧をしましょうか?」
「ふふ……好きにせい。ただ、時間はあまりのぉて。手早く情婦らしい仕上げにいたせ」
「かっ、かしこまりました!!」
髪を緩く解き、深いスリットの入ったガラベーヤから艶めかしい足を覗かせたミランは男の視線を集めながらアラディンの首都パラディアス最大の歓楽街へと足を向ける。
目指すは薄汚れた小さな酒場。同じような飲食店が並ぶ中にあって目立たぬ貌をしていた。
ミランは重たい扉を開け、木張りの店内を見回してからカウンターのスツールに腰を下ろす。
「いらっしゃいませ……いや、随分と美しい方だ」
バーテンが鼻の下を伸ばして近づいて来る。
「店で一番辛い酒を」
「かしこまりました」
然程掃除など手入れのない店だったが、ある程度の教育は行き届いた店のようだった。
幻の酒を口伝いに聞き、驚くほどの上客が来る可能性は高いだろう。太いパイプをケチな従業員でふいにしたくはないらしい。予想通り、飲食業は飾りのフロント、裏本業がメインと見て間違いはないだろう。未来の夫は商売上手だ。
まだ少し早い時間、客は少ない。薄暗い店内には数人の男性客による下卑た笑い、密談の声、老人が奏でるドラバスの重低音、店の奥へと続く扉に立つ身の丈二メートルはある用心棒。ねっとりと笑ってやると、重圧な身体で腕組みをして、射殺す程の視線で見返してくる。普通の女なら尻尾を撒いて逃げ出す店だったが、生憎ミランは慣れていた。
酒を舐めながら、翡翠の瞳がじっくりと店を巡る。
ひと息をつき、スツールで長い脚を組むと、ガラベーヤのスリットを捲りわざと覗かせる。続けて娼婦がくれた安物のクラッチバックから、嘘みたいに巨大なダイヤモンドが付いたイヤリングをゆっくりと付けた。長い髪を右片側に寄せ、見せびらかすように左側の耳に。
「なんと、素晴らしいイヤリングだ!」
バーテンがうっとりしながら酒を前に滑らせる。
「美しいお客様にぴったりの」
「ふふ」
「どちらからいらっしゃいましたか?」
アラディンから国を二つ跨いだ西の国、ヨルドーから。
「その辺の路地から」
「またまた。ご旅行ですか」
二週間のお忍び旅行。
「娼婦なのでな……快楽の旅か」
「ご冗談が上手な。お相手の方が羨ましい」
明日、初めて運命の婚約者と顔を合わせる予定である。
娼婦の体でコトを進めるつもりであったが、どうやら生来の品が邪魔をする。
内心で舌打ちをしたミランだが、なれば適当に『奔放なご令嬢』でいこうと切り替えた。
「実は、明日の婚約者との顔合わせを前に、屋敷を逃げ出して来たのじゃ」
「なんと! 逃げ出して? 酷い男なのですか?」
それもあるが、愛してやまない男がいる。
「ああ。噂によるととんでもない男でな」
「それは……ご家族に相談されては? あなたなら選り取り見取りでしょうに」
「はは、家族か……兄らも父も、余が疎ましい。まぁ、お互い様だがの。体よく余を追い出そうと長兄が画策したが、父も承知の上じゃ」
早々に殺害目的で異国に妹を嫁がせ、阿呆な男共で哀れな国盗り合戦を始めるつもりなのは明らかだった。
「おやまぁ。お母上は?」
「母は毒殺されて、とうの昔に死んだ。弱い奴は死ぬ……そうじゃろう?」
にやりと笑ってミランがバーテンに茶目っ気を出して言った。
「なんと……豪快なお伽噺でしたか? いやはや、信じる所でした」
バーテンダーは笑い出す。
ミランも笑う。
「いずれにしても淑やかな娘を期待されてもな。いっそ羽目を外しとうて……昔、盗み聞きしたのじゃ……父上の商談の最中、この店でどうやら」
「………」
言葉を切ってそろりと目線を流す。バーテンが真顔になった。
男はミランと見つめ合う。まるでその先を牽制するような目で。口に出せば、もう後戻りは出来ない。
だから最上級の笑顔を作り、大きな声で言ってやった。
「幻の酒が飲めると!」
フロアが一瞬、ひやりと静かになる。
ミランは左耳のダイヤを弄びながら顔を傾け、無防備な白い首を曝してしなをつくった。
「……貴女様の、お名前を伺っても?」
バーテンの質問に笑って、最後は甘い声で囁く。
「今この場で名乗るほど初心ではのうてな……さぁ、飲ませてくれ」
幻の酒を。
言いながらパチンと外したイヤリングをバーテンの手元に転がすと、さて手洗いはどこだと嘯きスツールから脚を降ろす。
「ご案内いたしましょう」
バーテンが先導した。
コツコツとヒールを響かせながら仁王立ちで睨み下ろしてくる用心棒の横を通り抜け、店の奥から階段を上がる。二階を過ぎ、三階へ。
ほう、表から見れば小さな店だったが、その実態は一棟すべてが同一組織の建物のようだ。
ミランは小汚さを装い続ける建物三階まで上がり、酒場とはまた違った喧噪に安堵する。そうだ、そうやって今宵の目的に近づいていくのがよい。
三階で廊下を曲がり、扉を開けて促された。その矢先、ドン、と背中を押される。予想通りのタイミング。よろめく拍子に借り物のヒールを脱いだ。
「おい、お前ら、この女縛り上げとけ!」
室内の皮張りソファでカードゲームに興じていた六人程の男が、面倒くさそうにバーテンの声を聞いた。手前の若い二人が渋々立ち上がる。
煌びやかな室内照明、磨かれた高級家具に床も上質オーク。こちらは酒場と違って豪奢な造りの部屋である。
「女一人くらい、お前がやればいいだろぉ」
「この部屋にロープあった……えっ?」
「うお!? 上玉!!」
「えっ」
青年の驚きに反応して、全員こぞって顔を上げて驚き、連れて来られた女を注視する。見られているだけでガラベーヤを脱がされるような不快な表情の男たち。
しかしミランは悠然と腕を組み、下賤な視線を押し返した。
「はよう来い」
「え?」
ふわりと手招きした女に、誘われたと勘違いした男がデレっと脂下がって近づくが、
「ぐわっ」
五人とバーテンが瞬きをする間に、青年は頭突かれ腹を膝蹴りに遭い、更に背中に拳を叩きこまれて潰れたような声と共にひしゃげた。
「えっ」
「おま、何やってる!?」
美しい女から繰り出された攻撃はあまりに速く優雅で、呆気にとられたのも束の間、もう片方の青年も右アッパーが脳を揺すり、三秒で床に沈んだ。
「あっけないの。手ごたえがのうていかん」
ドア近くのバーテンが事態に目を剝いた後、慌てて階下へ降りていく。
用心棒を呼ぶか。三分……いや、二分か……
一瞬の思考の後で、残りの四人が続けざま、あるいは同時に襲い掛かる。
腰を屈めて最初の打撃を躱すと、後ろ蹴りから前に掬って体落とし、鈍いスピードの拳をいなして一本背負い、腹に一発重い拳を叩きこんだ後に跳び蹴りを仕掛けてきた男を除けて馬乗りになり、一発側頭部を殴って気絶させる。
残り一人の髭面と向き合った最中、階段を駆け上がってきた用心棒が迷いなく乱入してくる。図体の割に相当速い。視界に入ったと同時、疾風のように体当たりがやって来てミランは舌打ちしながら飛び退いた。
着地した姿勢で、用心棒とミランが睨み合う。
「お前っ、全員殺ったのか!?」
バーテンが床にのびた男たちを見て仰天した。
「殺してなどおらん。それより早う酒を持って来んか。ダイヤはただではやらんぞ」
最後の髭男は動きが鈍いが、身体が分厚く一発では落ちない。そちらから先に落とすつもりが、横合いから掴みかかって来る用心棒の動きが半端なく速かった。邪魔である。一旦用心棒に続けざまにジャブを繰り出して髭と距離を取り、用心棒に行くと見せかけたフェイントから髭に取って返そうとした。が、髭がいつの間にか警棒を振りかざしている姿が目の端に入る。
ハッとした瞬間、用心棒に身体を掬い上げられる。ミランを担いだ腕と反対側で、同時に振り下ろされた警棒が用心棒の手に掴まれていた。
「なっ」
そのまま二メートル級の肩が揺れ、担がれたまま視界が高くなる。
「おろさんかっ!!」
用心棒の男は黙したまま、暴れるミランの首根っこを押さえた。
「あ゛………」
次第に細い喉がヒューヒューと音を立てる。だが意識が落ちる寸前に手を離された。低い声で男が囁く。
「次暴れたら、気絶させる」
「………」
「捕まえたが」
用心棒がバーテンに言う。
「良い腕じゃないか、お前! 雇って二日で大手柄だ! ちゃんと幹部に報告しておくからな!! しっかし、とんでもない女だ」
「この女はどこに? 縛るか」
「そうだな、とりあえず手酷く犯して来い」
「…………」
「そんな恐ろしい女、殺して良いくらいだが……上玉だ。大特上!! 相当高値で売れるだろう。だが今のままじゃ、買い手が殺されちまう。シャブ漬けにするか、手足とか心を折って従順にさせんと。シャブも金がかかるしなぁ、暴れるとより面倒だろ。だからなるべく痛めつけて、心をボッキボキに折って来い」
「………俺が?」
「お前じゃなくても良いが、腕の良いやつはもう半死だ。他の奴ってもなぁ~。任せたら殺されそうだ。そうだ! それに、シャー様目当ての間諜かもしれん。サイドテーブルの瓶は媚薬だ、大量にある。飲ませまくって自白させろ」
「薬か」
「奥に部屋がある。そこでやってこい、夜明けまで存分に」
さぁ、行け!
今すぐ、行け!!
組織の幹部であるバーテンに命じられ、用心棒は追い出されるようにしてミランを担ぎ部屋へ入った。
◆
大人しくなった女を、まるで卵を扱うかのようにベッドにそっと降ろすと、男は三歩下がって女を見下ろした。乱れたガラベーヤのあちらこちらで見え隠れする谷間の膨らみと白い太腿の引力から視線を剥がし、溜息を吐く。
「ジン」
名を呼ばれ、顔を顰めた後で冷たい視線をミランに戻した。
シーツの上で薄ら笑む極上の女と見つめ合う。
「何をしておいでか」
「口を利く許可は出しておらぬ」
一拍堪えた男が、床に跪く。ミランは身を起こしてベッドの端に腰かけると長い脚を組んだ。ほっそりとした足先が、俯く男の眼前に来る。
「………ジン、お前、ここで何をしておる」
「………」
許可の前に口を開き、逆に質問には答えぬ可愛らしい反抗ぶりにミランは笑う。
「せっかく国から連れてきた将軍が近衛の任務につかぬとはどういう訳じゃ? そなたは誰より国に忠誠を誓う犬だろうて。アマトよりも立派な犬のはずじゃがの」
「姫様こそ、こちらで一体な」
「黙りゃ」
バサッ、と将軍の頭に生温かいガラベーヤが降って来る。
「!?」
「質問しておるのは余である。そなたからの質問は許しておらん。答えよ、お前、誰の命でここにおる? ……兄のどれだ? 立て、顔を上げろ」
「自分の意思です」
首をふりふり、顔を上げることを拒否してジンが答える。
「父上か?」
「は~……誰の命でもない。俺の、意思だと言っている」
短髪をぐしゃぐしゃにしながら息を吐き、顔を覆った両手の隙間から零れた返事には本音が見えた。ミランは見下ろした男のつむじを愛でる。
俺の意思で、誰の為に?
「何ゆえここに? まさかお前も幻の酒を手に入れようと?」
「………姫様、アマトはどこだ」
「黙りゃ。質問は許してないと申しておる」
「しかし」
そこで再びトスンと床に薄い布地が落ちる。
「!!」
ガラベーヤの下に着る、濃い布地のスリップである。
つまりもう、ミランを隠すのは上下の下着だけになった。
「余もそなたと同じじゃ。ここで幻の酒が飲めると聞いてな。まさかこんな場所で行方知れずの将軍に会えるとは思わなんだが」
あっはっはっは。
ゴンゴンゴン!!
突然扉が叩かれ、ミランは黙る。ジンも扉を見た。
「守備はどうだ? 女も楽しそうじゃないか、ヤれそうか? 手伝いがいるか?」
扉の向こうからバーテンの声がする。咄嗟にジンがベッドを掴んでギシギシと揺さぶり始めた。
「……ああ、心配するな。やっぱりとんでもない女だ、隙を見せたら食いちぎられる」
「あーっ……あ、あ~ん」
すかさずミランが女の声を上げる。
「お、そうかそうか、こわっ!! が、がんばれよ」
慌てたように床が鳴り、バーテンが去って行く。
「あん、ああっ、あ……」
「もう良いでしょう」
「い」
「姫様」
「くくく」
じろりと睨まれようやく目が合い、だけどジンはあられもないミランの姿にギョッとする。再び床にしゃがみ込むと両手で額を囲う様に置いた。
「服を」
「ジン、お前」
「はい?」
「まさか抱かぬつもりか。はようせい」
「は?」
「遠慮のうやれ」
「するわけがない……」
ヨルドーの王族は頭がおかしい奴しかいない。
国で総大将を務める将軍の頭は、痛みを通り越してもはや痺れる。
ギデ王は齢七十の死にかけで、六人いた跡継ぎは連続して三人が成人を前にして死んだ。典範に則り長子が王となるが、気に入らない奴は潰し合うのがこの国の鉄則である。珍しいことではない。今は四男にあたる次王候補が『様子見』をしていて、一見すると凪いだ状況だったが水面下では苛烈な兄弟喧嘩が繰り広げられていた。
その中にたった一人生まれた末子が姫、ミランである。
ギデは娘に興味がない。ヨルドーは強国で、他国と縁を結ぶのに女など使わなかった。一にも二にも武力である。武力で勝ち得たものにこそ意味が有り、畢竟強い種が尊ばれた。だからミランも兄弟の中で男として育てられ、途中まで兄たちも妹であることを忘れていたほどだ。本人が女だと気が付いたのは十五、六だとまことしやかな噂まである。実際は七つの頃だったが。
十三の春、どうせ七人目でしかも女になど使い道は無いと早々に死に場所としての入隊が命じられ、配属されたのがジンの隊だった。
鬼隊長は圧倒的な力を持つが故、バランスを崩しがちな武力社会において心優しき強い男であった。要するに入隊してきた姫に同情したのだ。ジンが王族の血を汲む家系に生まれ、他国の貴族とも付き合いがあったのも原因だった。本来ならば花よ蝶よと大切に育てられた姫君が、不幸にもヨルドーに生まれたばかりに与えられたのは戦場のみ。このまま自軍で死なせるにはあまりに不憫であった。
その為、全てを承知でこの男、鬼のようにミランを鍛えたのである。
細身の身体に殺人技を叩きこみ、またあらゆる毒性に耐性を持たせ、得物を持てばその辺の軍人すら瞬く間に殺せる程に。
入隊して直ぐにジンは察していたが、ミランは実に優秀な兵であった。まず群を抜いて頭がきれた。体幹が優れ胆力もあり、全てにおいて飲み込みが早く、成長してその美しさが開花する頃には舞うように成人男性を素手で殺せる術を体得していた。
皮肉にも、今や継承権を持つ兄弟の中で最も優れているのがこの姫なのである。
段々と正体に気が付きだした兄らが、焦りだした。なかなか死なないばかりか実妹がその気になればいつでも寝首をかかれる事態に陥っていた。暗殺者を放っても、放っても、放っても、放っても返り討ちに遭う始末。そんな訳で、除隊と共に与えられたのが遠く離れた異国の名家サージアのボンクラ息子、シャーヒドとの婚約であった。
遥々ひと月かけてやって来た異国アラディンでは明日、のらりくらりと躱していたミランと婚約者との御対面が予定されている。将軍は訪問団の団長を命ぜられた。内憂激しい事情により売り捌くように嫁にやる妹ではあったが、他国に輿入れなど珍しいヨルドーの動向は国際的な耳目を集めている。帰路には莫大な嫁入りの支度金が積まれるとあって、対外的には威信のかかる旅でもあった。
「そなたが余に教え込んだのは人の殺し方だけではのうて、諜報の仕方もじゃ。気付いておるのだろうて。未来の夫がボンクラではないことを」
「姫様」
ミランの美しい足先が、男の手の甲をツツツと撫でる。
「ジン、もっと近うよれ」
「いやしかし」
「大きな声を出せる話ではない。取って食いはせぬ、こっちに来りゃ」
軽やかにベッドを叩く音が部屋に響く。
「………」
「………」
沈黙の末に俯いていた男は観念し、目を瞑って立ち上がった。末姫を危ない目に遭わせるつもりなどないのだ。どうにかして一刻も早くアマトに持って帰らせねばならない。どこにいるのか知らないが、その内必ずやってくる。アマトはジン自らが仕込んだイヌだった。
潜入先に突如現れた姫の経緯が意味不明過ぎて、気絶させるのをためらったことに今更ながら後悔が湧く。あの時気絶させておけば色々と有耶無耶に出来た……。
ミランが観察する前で、目を閉じて直進し、ベッドに脛をぶつける。苦悶の顔で乗り上げる。
「っくっくっく。靴は脱げ」
「………」
女を見ぬよう薄目に開けてブーツを脱ぎ、胡坐を組んで両手を後ろに付いた。強く目を瞑った顔、『絶対に何もしない』を最大限にアピールした姿勢である。
ミランが入隊した十三の歳、この男は二十歳だった。
既にその頃から負け知らず、軍に名を轟かせ始めていたジンが女を知らぬはずはない。武神を崇める国では強い男に女は群がる。
「しぶといのぉ」
だがどうしたものか、この体たらく。極上の据え膳を前にして食わぬとは頂けぬ。ミランはぺろりと唇を舐めた。さぁ、どう味わってやろうか?
愛しい男の無意味な抵抗に目を細め、無防備な男の上に乗っかる。
ジンが思わず両手を上げるが、生肌を触る訳にもいかず、石のごとく固まった。その姿勢がちょうど良かったので、黒いシャツもズバッと脱がせる。
「あー……冗談では済まなくなりますが」
ミランがジンの顔に触れるだけの口づけを落として行く。
「はは。面白いことを。誰が冗談で抱けと? ……なにひとつ思い通りに行かぬ世で、せめて好いた男に一度抱かれてみたいと思うのは、そなたにとっては滑稽だろうがの」
ジンが一度口を開きかけて、結局閉ざした。
ミランはその唇に落とすだけのキスをする。そうっと優しく、想いを乗せて。
「姫様にとっては俺が最初で最後の上官だ。そういう人間は情や記憶に残りやすい。刷り込みを勘違いしているだけだ」
「ほう、余を雛だと申すか。確かに雛のようにかわゆいがの」
「雛なら巣から出ませんが。酒を飲みにほっつき歩いたり、イヌまで撒いて夜遊びとは。ここはヨルドーではなむっ」
バコン、と顎下から入った張り手がジンの口を閉じさせる。
「閨で説教はよさぬか。色気がのうて困るわ。時にお前、どこまで掴んでおる」
ミランの美しい指先が上半身を撫でる。
男の閉じた瞼に皺が寄る。
「……あの酒造に関する一切の元締めが此処で、どうも想像を超えた規模の商売をしているようだと。あいつらが言う『シャー様』とはサージア家のシャーヒドだ。姫様の夫になる……殿下らは何を考えて」
「目障りな妹がなかなか死なん。寝首をかかれる前に体よく追い払いたい時に、偶然にも異国の名家が姫をくれと申し出た。余にも内緒じゃが幻の酒の流通付きじゃ。乗らん理由がなかろうて」
玉座を取り合っていると思えぬ程に、揃いも揃って出来の悪い兄ばかりだった。父も愚王でそれに気が付けない。愛国心の高さだけは認めてやり、これまで静観してこれたが。
「さすがに阿呆が過ぎたの。シャーヒドはボンクラを装っているが、あの酒はおかしい」
調べてみれば、サージア家の周辺には人死が多すぎた。
「表向きは病死じゃが、死の随分前から腐敗臭がするとな」
「そこまで調べたのですか? おひとりで?」
「ふふ。もうイヌはお前の仕込んだアマトだけではのうて。色々と飼うておる」
「………」
サージアは現王族から派生した家柄で、シャーヒドは生まれてすぐに放棄させられているが十番目くらいの王位継承権があった。
「王族の末端が数年かけてじわじわ死んでおる。目ぼしい奴は、ほぼ使えぬ身体じゃ。どうもシャーヒドはサージアから王を出そうとしておるの。まぁ、これはどうでもいい」
シャーヒド自身は王にはならない。なぜなら。
「我が未来の夫の狙いはヨルドーの軍隊じゃ。余を女王にして自らは王配となり、二国を動かして巨大な帝国を作る腹じゃろう」
「……大体わかった」
「そうか」
「わかったがそろそろ……姫様、いたずらが過ぎる。慣れないことはするな」
急にジンの声が低くなった。
「慣れておらぬなどなぜわかる」
「は?」
「大体慣れてはおるゆえ、遠慮は要らぬ。可愛いイヌがおると申した。使い道などいろいろじゃ」
はははは。
プツンと切れた音がしたような、してないような。
気付けばミランは組み敷かれ、冷ややかな目に見降ろされている。
「ん? ようやっとヤ」
「アマトと何を? どこまで?」
「悋気か? 意外に可愛らしぉ……ぉごぼっ」
馬乗りになったジンが小さな顔を押さえつけ、その口にサイドテーブルの瓶を突っ込みゴボゴボと流し込む。
「んーーーーっ」
大量の甘ったるい液体が半分以上消え失せた後で、残りをジンが喉を鳴らして飲み干していく。
呆気にとられたミランはだが、笑いだした。
「その手のクスリが効かぬ身体にしたのはそなたじゃろうて。なぜ飲ませる」
「まぁな、効かん。だが、お前が処女でないと聞いた俺が、どれくらい怒り狂っているかを教える必要がある。しかもアマトだと?」
心なしか、男の身体から湯気が出ているように見えてミランは瞬く。
「……いや、だからそれはそなたを誘う為の方便であって、もうすこぉし優しゅうにだな」
「方便には思えん堂の入り様だ、嘘つき姫ならば余計に仕置きが必要だな」
やり過ぎたと思っても、もう遅い。
「……ジン、待て!」
「待てん」
「ちょ」
国の威信をかけた訪問団、明日は末姫が婚約者と初顔合わせである。
だがその姫と訪問団長は婚約者が営む犯罪組織の建物の一室、夜明け前まで……。
◆
激しく扉を叩く音に覚醒を促される。微かに身動ぎすると、ミランを包んでいた腕に力が入る。
「ん……」
髪をひと撫でされた後にスッと温もりが離れ、ジンの声が聞こえる。
「余程良かったのか? 寝たのは少し前だろ。下まで響いてた。体力がえぐいな! どうだった、間諜だったか」
「いや、間諜どころかシャー様も知らん。ただのお姫様だ」
「そうか。大人しくなったか?」
「ああ。また会う約束をしてやった。それで大人しくすると」
「お前、色男だな!? じゃあ支度しろ」
「どこかへ連れて行くのか?
「ああ、ヨルドーから新しい客が到着しててな。酒の取引と一緒にその女をサービスでつけたらどうかって」
「ほう」
「シャー様が取引に来られる。お前は女を繋いで一緒に付いてこい」
「わかった」
もろもろ準備が整い、取引場所にアラディン側の人間が揃ったのは明け方五時過ぎである。
首都パラディアスの廃教会、立ち入り禁止の歴史的建造物の中で婚約者たちは初めて出会う。
「へぇ、確かに美しい女じゃないか。この女が本当に男共を五人も?」
シャーヒドは小麦色の肌に締まった身体をして、抜かりの無さそうな瞳をしていた。ミランは用心棒の横に立ち、両手を木枠に嵌められ繋がれている。シャーヒドは自分の婚約者を繋がせているのだが、顔も知らないので気づくこともない。
サイードの屋敷ではまだ影武者のオリエがぐーすか寝ている筈である。ヨルドーでもミランはしょっちゅうオリエを立たせているので、実際に死ぬだけの運命にある末姫の顔を判別できる者は多くない。
「そうです。ですがもう大人しくなりました。良い具合に調教が入りまして」
「ひと晩で?」
「媚薬を使わせましてね。この用心棒、使えるんですよ」
「ふぅん……さっきまで? ちゃんと洗っただろうな」
こそこそと囁き合うシャーヒドとバーテンを姫と将軍が無言で眺める。
「ねぇ、君。どこかのお嬢さんなんだって? 礼儀作法も入ってるのか」
「そうじゃな、大抵の場面で困らぬはずじゃ」
「え? なんか変な喋り方だね」
「アラディン語に不慣れなようです」
用心棒の説明にシャーヒドが眉を上げる。
「あれっ、アラディン出身じゃないのかい」
「そうじゃ。じゃが、些細なことよ」
「くく……まぁ確かに売り捌く女の出身なんてどうでもいいか」
それからシャーヒドが指示を出し、荷車に摘まれた酒樽の番号確認と売買契約書が机に並べられて準備が整っていく。
「売買契約書にはこの女のことを入れていないが、これだけの器量なら正式に金額を上乗せしても良さそうだ」
「さようでございますか。おいくらで?」
「そうだな、五百万でいいだろう」
「そんなにですか?」
「客は腐ってもヨルドーの王族だぞ。そのようなはした金」
ピクリとミランの眉が跳ねる。
「五千万にせい」
「は? 五千万!? 売れるわけがないだろ」
「かけても良い、余は王族に人気じゃ。売れなければ下げれば良いが、その時は腹を掻っ捌いて臓物を披露しようぞ」
「いや見たくないが。まぁ、でも良いか。そうだな、それだけの価値があるってことにしておけば、六百でも売れるかもしれないしな。おい用心棒、女の具合はどうだった」
ミランは隣の男の顔を見る。
「最高だ」
「………」
「ふぅん、ならまぁそれも付加価値だ」
予定通り五時半にヨルドーの人間が現われた。ショールで頭部をすっかり隠し、数人に囲まれるようにして立っているのは五男の次兄だった。
「何をしとるんじゃ、あいつは」
口から漏れた呆れにジンが囁く。
「イグル殿下はアラディンの隣、ザカス国に訪問の予定でしたね」
「嘘か」
「ええ」
「はるばるアラディンへ、ようこそお越し下さった」
シャーヒドが爽やかな笑顔で教会の入り口に立った。
「兄の名代として参った、イグルである。出迎えご苦労じゃ。今後は妹も含め長い付き合いになるじゃろうて……よろしく頼むぞ」
「…………は」
ポカンとしたシャーヒドが兄と顔を合わせつつ口を開ける。
「どうした」
「はっ、あ、いえ、あれ? 流行りか? ちょっと既視感が……ああ、そうですね。どうぞ今後とも。姫君とはようやく本日、顔合わせです。私の予定が詰まっており、大変なお待たせを」
「そうか、そうか。かまわぬ、待たせておけばよい。器量だけは期待できる妹じゃ。閉鎖的な環境で育ったからのぉ。世間知らずで参る。侍らせて適当に可愛がってくりゃ」
「世間知らずですか。それはそれは……可愛らしい。お会いするのが楽しみです」
会っとるがのぉ。
ミランはおまけ枠だと兄の視界から隠された場所にいたので、誰彼と気づかれることなく周囲を見渡せた。あらゆる配置を頭に叩き込む。それから皆の関心が兄らに向いているのを確認してジンをつついた。視線はそのまま、隣から手が伸びてカチャリと手錠が外される。ブラブラと手首を振っていると、ジンが無言で繋いできた。
手つなぎじゃ。
話がひと段落すると、売買契約書の取り交わしが始まって兄が調印した。
公的には末姫を娶る為にサイードから莫大な支度金が支払われるのだが、こちらはこちらで酒の流通契約として王家から同じ分だけの金が支払われた。
つまり、ミランはプラスマイナスゼロで嫁に出される訳である。
金額を聞いたジンが横で笑いを堪えている様を憎々し気に睨む。
そうこうしている内にバーテンが用心棒に合図を送った。二人は兄と婚約者に近づいていく。
「実は殿下にサプライズで女を用意いたしました。酒場に迷い込んだ子猫でしてね。何でも婚約者から逃げてきた令嬢で。足は付きませんから、いかがです? 三千万辺りでお譲りできますよ。おい、お前、もっと殿下のお近くに。顔をよくお見せしなさい。ほら、器量の素晴らしい娘でしょう? 教育も行き届いているようです。そこの男に味見させましたが、夜の方の具合も最高の一品でして!」
手を繋いで前に出てきた二人を見て、兄が硬直した。
「………お」
「お? お~! 御気に入って頂けましたか?」
わなわなと青褪め、将軍と妹を行ったり来たりして凝視し、口をバクバクさせていた。
「魚のようじゃ。餌はやらんぞ」
「お前、何をしておる!?」
「早う婚約者に会いとうてな。ついでに旨い酒も飲めると聞いて酒場に来たのじゃ」
「黙って屋敷で寝とらんか!!!!」
「はは。そっくりそのまま返してやろうぞ。この売国奴らめが」
「売国奴!? 何の話じゃ」
突然始まった兄妹喧嘩にシャーヒドが目を白黒させている。
「え? は? 知り合いですか?」
「妹じゃ」
いもうと?
シャーヒドの瞳が宙を彷徨う。
「あ~、シャー様、飛ばされましたね」
「仕方なかろうて。自業自得じゃが。悪いことはできんのぉ」
「お前、今ならまだ目を瞑ってやるゆえ、サッサァと戻らんか!!」
イグルが続け様に怒鳴って来るので萎える。
「そなたはまだ自分の置かれた状況がわかっておらぬようじゃの」
「いや、それはお前じゃが!?」
「阿呆を申せ……はぁ……説明が面倒くそうていかん。まずはそなた、とんでもないババを引いておることを理解しておるのか?」
妹の親切心から来る忠告に兄は怯む。
「なんのことだ」
「特にその、売買契約書じゃの。隅から隅までしっかり読んだのか? どこまで責任を取らされるのかわかって署名を? そなたは名代という聞こえの良い立場で遣わされたようじゃが、要するに何かあった時のとかげの尻尾じゃな。どうせ『箔が付く』など言われたんじゃろうて。酒に関する売買全ての責任をお前にとかなんとか。じゃが、それは任されたんじゃのうて、押し付けられとるのじゃ」
そっくり兄から言われたセリフであった。イグルの心臓はドクドクする。
「よう考えろ。あの男がそなたに真実うま味のある役を回すか? その酒、後々とんでもない災いを引き起こすぞ」
「災い!?」
イグルの驚きに、鷹揚にミランは頷く。
「うむ。サイードは知っての通り名家じゃ。現王の縁戚よ。シャーヒドはな、この酒をつこうて人死を出しておる。サイード家にあった継承権の復刻を目論んでおるのじゃな。自身の兄弟をアラディンの王にするつもりじゃて」
あまりの筒抜けぶりに、シャーヒドが目を丸くする。
しかし兄は鼻で笑い飛ばした。
「そのようなこと、どうでもええ些末事に過ぎぬ。よくあることよ、第一、他国の内情など我らには関係のないことじゃ」
イグルらしい返事に最もだと頷き、じゃがの、と妹は尋ねてやる。
「ヨルドーで買った酒は誰が飲むのじゃ」
「………」
「そなたが飲むか? 緩やかに身体が壊死するじゃろう、それは勝手にせい。父上や兄弟に飲ませるのもよし、好きにせい。じゃが、民に流通させるつもりなら余はそなたを此処で殺さねばならん」
「それは……」
それだけではない。ミランは畳みかける。
「イグルよ、シャーヒドはどうすると思う?」
「………」
聞かれてぼんやりと兄は宙を見つめた。
「殿下も飛ばされましたね」
「阿呆じゃからのぉ」
仕方がないのでヒントをやった。
「よう考えろ。シャーヒドは今回、ひとつ強力なアイテムを手に入れるじゃろうが」
「そなたか!」
「そうじゃ。余を娶り、ヨルドーに毒のような酒を売る……皆が飲んで、弱るのぉ」
「………ま、まさかサイードは我が国を乗っ取るつもりか!?」
正に今気が付いたとイグルは大声を上げ、後ろの側近たちも一斉にざわついた。
「よぉ気が付いた! そうじゃ、じゃから酒を買うてはいかん、アマト!」
最後に姫が放った言葉が人の名だったとわかったのはジンだけで、風のように天井から降ってきたイヌが売買契約書をかっさらう。
「だめだっ!! 取り返せ、捕らえろ! 契約は成立したんだ、反故にするなら違約金を払ってもらうぞ!!」
「アマト、食ってしまえ」
ジンが命じると、嫌そうな顔をしてからぐしゃぐしゃにした紙を口に詰め込んだ。
「ぐわー!! ちょっと待て、いやもう、諸々我慢がならん!! 俺を謀ったということだな!?」
「阿呆を申すな。最初に謀ったのはそなたじゃろうて」
「とんだ女じゃないか!! そもそもそれが謀りだっ」
「まぁ、それについては反論できん」
深く同調したジンを冷ややかに見た後で、末姫は声を低め幕引きを図る。
「我慢ならぬは余も同じ……さぁ、全員五体満足で帰れると思うなよ。イグル、そなたもじゃ」
妖艶に笑むミランが言い放つと、アマトが教会の出入り口に降り立った。
「一人残らず潰せよ、ジン」
ミランが組んだ拳が軽快な骨音を立てた。ぺろりと唇を舐める興奮時の癖が出る。
「御意」
「相手は丸腰だ、どうせ殺す、遠慮はするな!」
シャーヒドが剣を手に怒鳴ったのを皮切りに、血沸き肉躍る大乱闘が始まった。
◆
「そういうわけでのぉ、婚約者はのぉなってしもうた」
ヨルドーの薄暗い王城、深緑で敷き詰められたカーペットの上に、親兄弟が転がる。大広間の周囲には、ぐるりと軍服の男たち。
「ミラン、どうして儂が縛られる。儂は王ぞ」
「そうじゃ、我も関係がのうて」
「嘘を申せ、そなたがシャーヒドの釣書を持って来たのではないか」
「黙りゃ!! あれは」
カーン。
「………」
「………」
将軍が真顔で打ち鳴らした鐘の音が響くと、父も兄たちも即座に黙った。さっき黙らなかった長兄が、鼻の骨を折るまで妹に殴られたからだ。
「口を開く許可は未だ出しておらぬゆえ、黙りゃ」
ゆったりと腰かける軍服のミランは足を組み、床に転がした男共を眺めた。
父は状況を理解しているが、年寄りの上に父親なので勘弁して貰えると計算している。
長兄は連帯責任を謳い、酒についてはイグルに一任したとの一点張り。
イグルはそんな長兄に怒り狂い、妹に折られた両腕を振り回しては悶絶している。
六男の兄は諸々驚いているふりをかましているが、背中が冷や汗でびちょびちょである。
「これまで余は、そなたらの愛国心を信じて静観してきた。それぞれが阿呆でも、一族内で騙し合いや殺し合いをしても、狭い世界の話として終われたからの。いくら余を虐めようが命を狙おうが、相手にせねば良かろう。家族などこの世にいないと思えば」
美しい顔は切なく歪み、愛に飢えた女のように儚げである。
「ミラン……そなた、淋しかったのじゃな」
「我が抱きしめてやろうぞ」
「縄を解いてくりゃ、撫でてやろう」
「そうじゃ、今度とっておきの宝石をそなたにや」
カーン。
「……ほんに、残念な者どもじゃったわ。いっときでもそなたらの為にジンを諦めようとしていたのが口惜しい」
「ん?」
ミランの独り言に、鐘突き棒を持ったジンが眉を上げる。
「それが国益になるならばと、最初はサイードに嫁ぐ件を了承しておったのじゃ。そなたを愛してはおったし、憎からず思おうてくれているのにも気が付いていたが……その気持ちが同情以上なのかまではわからぬ。余が問えば愛の強要にもなりかねん。そなたは優しい男じゃ、嘘も吐くであろうと」
「ミラン……」
見つめ合う二人をじっとり見ている父王が口が開く。
「そやつは何度も嘆願に来おったわ。その度追い返してやったがの」
「嘆願? なんのじゃ」
ミランがすっくと立ち上がり、父を見る。
「ジンがミランを好いておるのは皆知っておろうが。そなたは本当に知らんかったのか? あれだけイヌを飼うておる癖に。戦場にやるくらいなら嫁にくれと何度も何度も……うるそうてかなわんかった。そなたらが夫婦にでもなれば一気にパワーバランスが崩れてしまうじゃろうて、そんな簡単なこともわからず! イヌ風情が吠えよって」
「そうじゃ、どこがええのかわからん。浮気のひとつでも寝首をかかれるに決まっとろう」
「案外閨ではジンが赤ん坊なのかもしれんのぉ」
わはははははは。
カーン。
「ジン……、そなた、まことか?」
「………はぁ……ここで言えと? 拷問だな」
観念したジンが一度目を閉じてから、優しい瞳でミランを見つめる。
「そうだ、俺はお前がずっと」
その先の掠れたような愛の言葉はミランにしか聞こえない。二人は縛り転がした親兄弟の前で抱き合い、熱烈な口づけを交わした。
「……はぁ……ならばジン、余の側にずぅっといてくれんか」
「はは。ああ、将軍職は他の奴に譲る気はない」
「それはいかん」
「え?」
「将軍職ではのうて、王配じゃ」
「………お?」
「処女を散らした責任も取ってもらわんとのぉ」
「しょじょ?」
部屋がしんとする。
ミラン以外、全員が宙を見つめた。
腐ってもさすが父王、ふり絞る胆力で口を開く。
「お、お前が王になると言っているように聞こえるがのぉ……?」
だけど自分の後ろには、完全に末の娘が掌握している軍隊の人間がずらりとならんでいる。どう見ても自分にも息子たちにも、最早なんの力もないのは一目瞭然だった。娘は嬉しそうな声で笑う。
「めでたいのぉ~。では余の即位と結婚祝いじゃ、そなたらに祝いの酒を振舞おうぞ」
「お、おおっ」
「おめでとう、妹よ!!」
「おめでとうございます!!」
「実はのぉ、幻と噂の銘酒を四樽運ばせてあるのじゃ。ひとり十年分はあるから、じっくりと味わってこい」
広間が再び静まり返った。
「ミ……ミラ、ミラン、それは」
「ああ、十年耐えたら褒美はちゃんと考えておるぞ」
皆が半泣きの顔を上げて、新女王を見つめる。
「余の母が最期に飲んだ極上ワインじゃ。はははははは」
◆
ヨルドーに初の女王が立った報は世界中を駆け巡った。
「オリエ、茶を頼む」
「はぁ~い」
「俺も飲む」
「はぁ~い」
夫婦が横並びでソファに腰かけ、無駄に手を繋ぎ新聞を眺めて茶を飲んだ。
「お、サイードが載っておる。お家が取り潰しじゃと……銘酒も回収の上、廃棄とな……あ~、勿体ないのぉ。やはり一口飲んでおけば良かった」
「ミラン、聞こうと思っていたが、なぜあの晩アマトを撒いた。まさかと思うが、本当に酒を飲みに行こうとしていたのか」
「そうじゃ。決まっておろう。真の目的は組織潰しじゃが、ついでにのう。あんなものは身体が壊れる程に飲まねば良いだけじゃ」
「シャブ漬けになる奴が言うセリフだ」
「アマトも同じことを言うでな。面倒くそうて、置いて行ったのじゃ。……すまんかったのぉ」
そこいらに顔を向けてミランが謝ると、
「………いえ」
どこからともなく悲し気な声がする。
「アマトは少し情が入り過ぎているな。イヌを替えよう」
「なんじゃと!?」
「他のイヌも全部入れ替えだ」
むっつりとしてジンが呟く。
「悋気も大概にせい。小さい男はつまらんぞ」
「……つまらんだと?」
「そうじゃ、妻のかわゆい余興くらい多めに見れる度量を持て。さすれば褒美を与えようぞ」
プツンと切れる音がしたような、しなかったような。
「ちょっと来い」
「まだ昼ぞ……あ、あっ」
さて、今日もご褒美はお仕置きの後で。