第9話 組織の夜明けと追い風の構造
オフィスの窓越しに春の朝日が差し込み、静かな空気が広がる。
南野結衣はいつものように出社し、コートを脱いでデスクに座ると、一度深く呼吸した。昨日までとは、どこか違う高揚感があった。
まだ社内は静かだが、PCを立ち上げた瞬間から、たくさんの未読チャットやメールが次々と飛び込んでくる。
分担が始まったばかりのチームは、慣れない分だけ新鮮で、少し心細いような、それでいてどこか頼もしい温度を感じさせた。
「おはようございます」
同僚が少し早足で近づいてきて、タスク分担表を手渡す。
「南野さん、今日からBチームの新プロジェクト、ミーティング一緒にお願いします」
「ありがとう。進捗報告、みんなで共有しておいてくれる?」
「はい!今朝からグループチャットも作りました。何か困ったら遠慮なく言ってください」
こういう自然なやり取りが社内に根付いていくのを、結衣は内心ほっとしながら見ていた。
つい数週間前までは、ほぼ全てのプロジェクトが結衣に集中し、何かあれば「南野さんに聞け」「全部まとめてお願い」と頼られていたのに、今はもう「みんなで分担して、誰かが抜けても動く」新しい空気が生まれ始めている。
昼休み、休憩スペースでコーヒーを飲んでいると、同期の一人がふっと隣に座る。
「南野さん、本当に無理してたんですね。今思うと、ちょっと怖いくらい頼りっぱなしでした」
「ふふ、気づいたときにはもう全部引き受けてたから。でも最近は、みんなが色んなアイデア出してくれるから、助かってるよ」
「分担始めてから、みんなの表情も変わった気がします。僕もやっと一人前になれそうです」
「頼もしいなあ。これからは“みんなで会社を回す”時代だから」
仕事が終わると、ファンドの会議に切り替わる。
資産管理会社の専属メンバーが揃い、オンラインの画面に次々とプロたちの顔が並ぶ。
「いよいよ“組織化”を本格的に動かすタイミングだと思います」
結衣が真剣な表情で語ると、財務責任者が頷く。
「案件の規模もスピードも、もう個人ファンドの枠を越えてます。
本格的な組織にしなければ、社会からの信頼も維持できません」
法務担当も補足する。
「最近は取引先から“組織の体制はどうなっているのか”と聞かれることも増えています。管理・ガバナンス、情報公開、社外対応まで含めた“本物の組織”への進化が必須です」
結衣は画面越しに全員の顔を見渡し、ひとつ息を吐いた。
「これからは、私一人が全部を決めて回すやり方はやめます。専属のみんなと力を合わせ、“組織”として社会と向き合いたい。資産管理会社という箱を“本気の会社”として生まれ変わらせる。皆さんの力を貸してください」
一瞬の静寂。
やがて財務担当が静かに語り始める。
「自分はもともと大手の投資部門出身ですが、今までで一番“面白い瞬間”かもしれません。個人の道具じゃなく、社会に誇れる会社を一緒に作りたい」
法務もはっきりと頷く。
「私も本気で、この組織に人生を賭けたいです」
AIアナリストが「技術やデータは、チームでこそ生きると思う」と加え、
PR担当も「今なら大きなムーブメントが作れます」と自信をのぞかせる。
それぞれが自分のキャリアや思いを、この“会社”に重ね始めていた。
「では、まずは“組織化”の設計会議から進めましょう」
結衣が指示を出すと、メンバーは即座に動き出す。
社外役員の候補リストや監査役の体制案、権限分担や業務フロー、外部説明用のガイドラインなど、
どんどん資料が画面上に貼り付けられていく。
「現場で起きている問題点」「制度上の課題」「未来への布石」――
それぞれの専門家が持ち場から議論をぶつけ合い、“南野結衣の会社”が本当に「社会的組織」に生まれ変わる下準備が始まった。
途中、ファンド運営のリアルな壁も浮かび上がる。
契約手続きやガバナンスの再設計、新しいプロジェクト案件の体制――
どれも「個人ファンド」時代には考えなかった規模や複雑さだが、「一人で全部を見て判断する時代」はもう過ぎ去ろうとしている。
結衣は小さく微笑む。
会議が終わりに近づくと、全員の表情に新しい覚悟がにじみ出ていた。
それぞれの得意分野でアイデアを出し、壁にぶつかりながらも誰かが支え合う――
そんな“本物の組織”の雰囲気が、すでに動き出していた。
夜遅く、オフィスを見下ろす窓辺で、結衣は独りごちる。
「もう、個人の夢じゃない。みんなで社会を動かすための会社にするんだ」
小さな決意が、春の夜風とともに膨らんでいく。
翌朝、専属チームのグループチャットに「組織体制、いよいよ本格始動です」と投稿した。
それぞれがすぐにスタンプや「よろしくお願いします!」と返事を寄せ、
これまでの“個人ファンド”が、ついに“みんなで未来を築く組織”に生まれ変わる瞬間を共有していた。
「これからが、本当のスタートだね」
PC画面に並んだ仲間たちの笑顔を見て、結衣はそっと満足げに息を吐いた。
***
朝の東都リアルティのオフィスは、ここしばらく重たい空気が続いていた。
長引くコロナ禍の影響がようやく薄れてきたはずなのに、現場は材料不足や物流の混乱、思わぬ資金ショートで、心から「安心」と呼べる日がなかなか戻ってこない。
「また取引先が、資金繰りの関係で納品スケジュールを見直すって」
後輩がため息まじりに耳打ちしてくる。
会社の会議では、上層部が「無理な新規投資は控える」「リスクは最小化」など守りの姿勢を強めていた。
けれど、そうやって動きを止めてしまえば、今度は現場の熱気や挑戦する気持ちそのものが冷え込んでいく。
昼休み、同期とカフェでコーヒーを飲みながら、結衣はふと漏らした。
「本来なら、うちの取引先の企業も真っ先に資金ショートで倒れるような体質じゃないはずなんだよね。地元の物流も工場も、健全な経営でずっと頑張ってきたのに」
「でも銀行があの調子じゃな……。どこも慎重だよ。新しいチャレンジなんて、夢のまた夢って感じ」
口ではそう言いつつ、結衣の内心には、“もう一つの顔”――ライトブルーファンドのオーナーとしての冷静な視点が静かに息づいていた。
夜。自宅のPC画面に集まったのは、ファンド専属のアナリストや法務、財務、PR担当たち。
結衣がログインすると、すぐに最新の投資候補リストが共有される。
「A社、B社、C社……どれも財務体質は健全です。ただコロナ禍のダメージで一時的にキャッシュがショート。現場の人も誠実で、技術も地域で信頼されてます」
「ここを通り抜ければ、回復は十分見込めます。銀行の審査が固いだけで、むしろ今こそ資本注入の好機です」
「社会的インフラを担う物流や地場産業も、今なら本気で支える価値がある。不健全なゾンビ企業は避けて、回復余地の高い会社だけに絞ります」
「複数の会社に分散して投資しつつ、サプライチェーンの流れも維持できるように。結果的に、うちの会社にも追い風になるはずです」
結衣はゆっくりと頷いた。
「投資する側も助かる、社会も守られる。資本家としても、私たちなりの意義を持てる気がする。みんな、頼んだよ」
ファンドは静かに動き出した。
取引先企業への資本参加、地方物流会社の短期融資、工場の資材調達ルート確保――どれも“表向きは市場原理に従った機関投資家の仕事”として世間に溶け込んでいく。
そして数週間。現場にほんの少しずつ、だが確かな“追い風”が生まれた。
「うちの仕入先、どうやらどこか資本が入ったらしくて、納期も支払いもだいぶ楽になったみたいです」
「このところ物流コストが妙に安定してる。去年までのパニックが嘘みたい」
「うちの新しい取引先、また事業再開するって連絡きた!みんな諦めてたのに」
社員の誰も、どこで何が動いたのか正確には知らない。
だが確かに、じわりと空気が変わり、日常に小さな希望が戻り始めていた。
結衣は一社員として、その変化を静かに眺める。
雑談の輪に入り、「最近、ちょっと運が向いてきたのかも」と誰かが冗談めかして言うと、
「本当にそうだね」と自然な笑顔で返す。
ファンドのグループチャットでは、成果報告が立て続けに届いた。
「B社、黒字転換が確定。地方紙にも“奇跡の復活”と掲載されました」
「物流X社の短期融資回収成功。キャッシュフロー回復とともに、配当も獲得です」
「C社、資本参加からたった3ヶ月で設備投資再開。現場の雇用維持にも一役買いました」
その夜、結衣はベランダで夜風に吹かれながら、ふっと息を吐いた。
もしも自分が動かなければ――たぶん、この中のいくつもの中小企業が静かに消えていったはずだ。
けれど今は、その小さな追い風がどこかで誰かを救い、そして自分自身にも確かなリターンが返ってくる。
翌朝の出社。
会議室には昨日までより少し明るい声が響く。
部長が「今日からまた、新しい案件に挑戦できる」と前向きな空気を作る。
後輩がこっそりと、「南野さん、やっぱり“何か”が変わった気がします」と囁いた。
「そうだね。小さな風でも、続けば大きな流れになるよ」
自分の中で静かに何かが膨らんでいくのを感じながら、結衣は再び“日常”の輪の中に戻っていった。
ライトブルーファンド――
誰も知らないところで、静かに、けれど確実に、現場と社会に“追い風”を送り続けていた。