第81話 古巣に響く、ちょっと大きなご提案
夕刻、東都リアルティ本社の役員応接室。
窓一面に広がる都会のビル群は、夕陽に染まりオレンジ色の輪郭を帯びていた。昼の喧騒が去り、街全体が一日の終わりに息をついているように見える。
応接ソファに腰掛けた井手口常務は、年季の入った手で分厚い資料ファイルを繰っていた。眉間に刻まれた皺は、長年の現場経験が刻み込んだもの。だがその視線には、厳しさだけでなく、新しいものを知ろうとする静かな熱も灯っている。
「……鬼怒川再生プロジェクト、ですか」
低く落ち着いた声が、広い部屋に響いた。口調は慎重である一方、その奥には抑えきれぬ好奇心が混じっていた。
向かい側の席で、南野結衣は姿勢を正したまま微笑んでいる。
彼女の柔らかな雰囲気は、ここが役員フロアであることを忘れさせるほどだった。
「はい。ただの観光再生ではありません。
温泉街の再興と並行して、地下に大規模なデータセンターを建設します。地熱発電を利用し、鬼怒川水系を冷却システムに組み込む――。これが私たちの構想です」
次々に繰られるページ。地熱の調査図、地下造成の工程表、冷却設備の設計図。数字と図面の羅列は、一瞥しただけで“机上の夢物語”ではないと分かるほど緻密だった。
井手口の眉がわずかに動く。長年不動産開発の現場を歩んできた彼の目にも、この計画は常軌を逸して見えた。
「……随分と壮大ですね。だが、予算は?」
問いかけに、結衣は間髪入れずに答えた。
「資金はすべて、ライトブルーHDから拠出します。総事業費はおよそ一三〇〇億円。東都リアルティさんには、造成と建築の“プロ”として加わっていただきたいのです」
その声音は柔らかだが、曖昧さは一切ない。彼女は自分の言葉に責任を負う覚悟を帯びていた。
資料の末尾には、関係省庁や県庁、地元自治体の承認書類が綴じられていた。役所の朱印が整然と押されている――つまりこの計画は机上の空論ではなく、既に行政の認可を得て、国家的なプロジェクトとして動き出しているのだ。
「……観光の再生だけでなく、国家インフラとしてのAI拠点、というわけですか」
井手口は深く息を吐き、ソファに身を預けた。表情は驚きを超え、むしろ愉快そうですらある。目の前の女性が、国の未来図を描いている――その事実が胸を打った。
結衣は落ち着いた声で続けた。
「常務。これは安全保障にも関わる案件です。
AI機密の保護、演算リソースの確保――日本にとって不可欠な投資になります。
東都リアルティがこの“舞台装置”を担うことで、会社の存在意義そのものを更新できるはずです」
結衣の声は穏やかだが、言葉の芯には確固たる確信が宿っていた。
井手口はしばし黙り、やがて口元に笑みを浮かべた。
「……資金も承認も、すべて揃っている。反対する理由は見当たりませんね」
「ありがとうございます。役員会で正式にご提案する前に、まずは常務にご理解をいただきたくて」
「なるほど……。では、当日は私も力を貸しましょう」
応接室に柔らかな沈黙が流れた。
井手口は、夕暮れの光を受けて微笑む結衣の横顔をじっと見つめた。
――“この若き女性は国家をも動かす存在だ”
その確信が、静かに胸に刻まれていった。
***
――東京・丸の内、東都リアルティ本社の役員会議室
結衣がここを訪れるのは久しぶりだった。かつて一般社員としてデスクを並べ、何気ない日常をここで過ごしていた。だが今は、立場がまるで違う。社外取締役として、さらにライトブルーHDの代表として、この場に臨む。
懐かしさと同時に、胸の奥にわずかな緊張が走る。だが結衣は深呼吸し、感情を静かに押し殺した。社屋の匂い、廊下に響く靴音――すべては昔と変わらない。だからこそ、彼女は自然体でいられた。古巣に顔を出すような気持ちで、分厚いファイルを手に会議室へと足を踏み入れる。
「――こちらが今回の提案資料になります」
落ち着いた声が響いた瞬間、役員たちの視線が一斉に彼女へ向けられる。
鬼怒川再生、地熱発電、地下データセンター建設、そしてAI機密保護を目的とした国家安全保障インフラの強化。地方創生の名を借りながら、その実態は国策級の巨大プロジェクト。その総事業費は一三〇〇億円――想像を絶する規模だ。
会議室に、一瞬の静寂が走る。やがて役員たちは、無言で資料をめくり始めた。紙の擦れる音と、時折混じる息を呑む音が、不穏な重みを空気に溶け込ませる。
「……すでに国と県、それから地元住民とも折衝済みだと?」
目を丸くした中堅役員が、確認するように問いかける。
「はい。合意書も添付しています」
結衣は静かに微笑み、端的に答えた。
ページをめくるたび、驚嘆の声が小さく漏れる。経産省の後押しを示す文書、県知事の署名、住民説明会の議事録。普通ならば数年を費やす調整が、すでに完了済みだと分かる。
「……これが本当にすべて調整済みなのか?」
「ええ。ご確認いただければ」
結衣の返答は穏やかでありながら、どこか事務的ですらあった。彼女にとって、すでに片付いた工程なのだ。
沈黙が支配する時間が続く。
十五分、二十分……役員たちはスライドを確認しながら資料に付箋を貼り、細かくメモを取っていく。しかし声を発する者は少なく、沈黙の重圧だけが積み重なっていった。
やがて、慎重派の一人が意を決したように口を開いた。
「……GPU基盤や発電設備の調達は、弊社の守備範囲を超えますよね」
「ご安心ください」
結衣は即答する。
「それらはすでに別途調達済みです。東都リアルティさんには“建設と造成”という得意分野に集中していただければ」
まるで当然のように言い切るその姿に、数人の役員が小さく息を吐いた。安堵と戸惑いが入り混じった吐息だった。
そのとき、井手口常務が資料を閉じた。眼鏡の奥の瞳で結衣をじっと見据え、低く呟く。
「……なるほど。承認も資金も、すでに揃っているというわけですか。……正直、ここまで形になったものを持ち込まれるとは、とまどいますよ」
会議室は再び静まり返る。娘ほどの年齢の社外取締役が、国と県と住民をまとめ上げ、数千億規模のインフラを“完成品”として提示している。その異様さに、誰もすぐには言葉を紡げなかった。
「しかし……ライトブルーHDなら自前で開発も可能では? 今や時価総額も、我が社を超えているはずだ」
別の役員が、ためらいがちに問う。
結衣は首を静かに横に振った。
「いえ、うちは不動産開発の経験がなく、土地造成や地下建設は専門外です。だからこそ、東都リアルティさんのお力を借りたいのです」
その言葉に、会議室の空気がわずかに和らいだ。“頼られている”という実感は、年齢や立場に関わらず人を前向きにさせる。娘のような年齢の取締役に真っ直ぐそう告げられれば、むしろ誇らしい気持ちが芽生えるものだ。
「なるほど……そう言われれば、悪い気はしないな」
「我々が建て、君たちが運用する。たしかにWin-Winかもしれない」
会議室に柔らかな笑いが広がる。
気づけば、最初の重苦しい沈黙は消え失せ、古巣に戻ってきたかのような親しい空気に包まれていた。
***
「ただ……問題は、やはり予算の規模ですね」
別の役員が慎重に口を開く。
「しかし、総事業費が一三〇〇億円。国策として国から資金を引っ張るとしてもリスクも相応に――」
その言葉を、結衣がにっこりと遮った。
「資金については、新しく用意しましたよ?」
軽やかに告げられた一言に、会議室が凍りつく。
「……用意、とは?」
「ええ、そのままの意味です。今回のために新規で組みましたので、全額カバー可能です」
無邪気な笑みとともに、結衣はペン先で資料を軽く叩いた。
役員たちは思わず顔を見合わせる。“新しく用意した”――その軽さが恐ろしい。通常なら社運を賭ける大事業になる資金調達を、彼女はまるで昨日の買い物のように口にしているのだ。
「……やはり君の金銭感覚は、我々とは次元が違うようだ」
井手口が、ため息混じりに言葉をまとめた。
「だが、会社にとっては悪い話ではない。資金の心配が不要なら、我々は建てることに専念できる」
「ありがとうございます」
結衣は深々と頭を下げる。
「皆さんには造成と建設をお願いします。東都リアルティが動けば、鬼怒川は生まれ変わり、そして地下に世界最高水準のデータセンターが完成します」
その声音には確信があった。ミダスの手に触れたプロジェクトは、必ず成功する。彼女にとって一三〇〇億円は、削って捻出する金額ではない。新しく用意すれば済む話――ただそれだけのことなのだ。
役員たちは再び沈黙した。だが今度は疑念ではなく、驚嘆が支配していた。
井手口が静かに呟く。
「……確かに、“ミダスの手”という評判も頷ける」
その言葉に、他の役員たちも小さく頷く。誰も異を唱える者はいなかった。
結衣は微笑みを浮かべる。その横顔には重圧も不安もなく、ただ未来を切り拓く確信だけが宿っていた。
結衣が「古巣」に戻り、新しい夢を語る場面を描きました。
結衣が古巣に夢を持ち帰り、それを仲間と共有する姿を、これからも一緒に見守っていただけたら嬉しいです。
もし少しでも「面白い」「良かった」と思っていただけましたら、
☆や応援、感想等を残していただけると、とても励みになります!