第80話 ふるさと納税
結衣は指先で軽くテーブルを叩いた。その仕草はさりげないのに、応接室にいた全員の注意を自然と集めさせる。柔らかな声が、落ち着いた空気を切り裂くように流れ出た。
「ふるさと納税にするなら、返礼品が肝心ですね。――せっかくなら、ちょっとしたお祭りにしましょう」
県庁の幹部たちは顔を見合わせる。彼らの頭に思い浮かぶのは、地酒や米、野菜といった定番の品。
だが結衣の目には、すでに別の景色が広がっている。
「少し付加価値を加えることで歓心を得ることが重要なんです。たとえば……“青い温泉まんじゅう・特別版”。あの商店街で話題になっているものを、箱や包装を豪華にして、一万円寄付の返礼にすれば映えます。SNSで広がりやすい。写真を撮りたい人は必ず出ます」
観光課長が思わずメモを取り始める。
「青い……温泉まんじゅう……」
結衣はその反応を受け、さらに笑みを浮かべて畳みかける。
「五万円なら、“女帝様監修・温泉宿体験プラン”はどうでしょう。露天風呂付き客室に泊まって、特別な会席料理を楽しめる。宿にとっても宣伝になりますし、寄付者には“ここに来たんだ”という記念になるはずです」
観光課長は眉をひそめる。
「監修……ですか」
「はい。名前を貸すだけでも十分効果があります。“女帝様プロデュースの宿に泊まった”と書ければ、それだけで宣伝になるでしょう。実際の料理や宿泊は、地元旅館のお力を借りる形になりますが……」
副知事は腕を組み、感嘆を押し隠すように低く唸った。
「なるほど……。付加価値をつけて地元の旅館を巻き込めば、地域全体の底上げになるか」
結衣は頷き、視線をさらに遠くへ向ける。
「大事なのは、“応援した”という体験を人々に届けること。寄付して、返礼品を受け取って、SNSで共有する――それ自体が物語になるんです。数字としての五十億を集めるのは、私ひとりでもできます。でも、人を巻き込んで祭りにすることで、町全体の活性化につながるんです」
観光課長は完全に言葉を失っていた。
――行政の発想は、いつも“予算の枠”で完結する。だが彼女は、最初から最後まで“人の心”を動かす仕掛けを描いている。
財政課長がようやく口を開く。
「し、しかし……増加した返礼品の準備や発送の人員をどうするか……」
結衣は柔らかく笑って答えた。
「そこはうちの物流網を少し融通すれば十分です。……あくまで県の事業として立ててください。私はあくまで後ろから支えるだけ。人が主役になるように」
その一言に、県庁の面々は改めて目の前の若き会長を見つめ直した。
――彼女が“生身の姿”を隠す理由。
それは、ただの二十代後半の女性では到底受け止めきれない規模の力を、自然に振るうためなのだと、誰もが理解し始めていた。
それでも財政課長は不安げに眉を寄せる。
「物流を民間に委託するとしても、県の事業である以上、体裁としては――」
結衣は首を横に振り、静かに言葉を継いだ。
「大丈夫です。事業主体は県です。ライトブルーHDは委託先の一つ、という形にすればいい。それに……」
そこで結衣はふと笑みを深める。
「物流をHDのEC事業に通せば、返礼品の在庫管理や追加販売も同時にできます。――つまり、単なる寄付の返礼で終わらず、その後の“商品としての市場”につなげられるんです」
観光課長が目を見開いた。
「その後の市場……ですか」
「ええ。たとえば“青い温泉まんじゅう”。返礼品で話題になったあと、一般販売に切り替えれば全国から注文が入る。物流はHDが担いますから、県の負担なく収益が増える。……寄付金そのものよりも、地域が自立して回り始める方が大事なんです」
副知事は腕を組み、静かに頷いた。
「なるほど……。寄付金を種火にして、その後の流通を仕組み化して回収も見込む。実に合理的だ」
結衣は肩をすくめ、飾らない口調で応じる。
「回収といっても、元手はほぼ私の寄付です。正直に言えば、それだけで済ませることもできます。でも……“人が動いた分だけ、町が変わる”。そこを実感してほしいから、あえて仕組みを作るんです」
その言葉に、再び室内は沈黙に包まれた。
彼女にとって五十億は“個人でも出せる金額”。だがその巨額をただ消費するのではなく、町の未来を巻き込む投資に変えていく――。
県庁の幹部たちははっきりと悟った。
――これこそが、南野結衣という人物の規模感なのだ。
***
副知事が最後の逡巡を吐き出すように低く言った。
「それでも、県としての顔を立てねばなりません。外に向けて“行政が動いた”という形を取らねば……」
それは、彼自身の矜持であり、同時に組織を背負う者としての悲願でもあった。どれほど支援を受けようと、県庁が「主役」である体裁だけは失ってはならない――その思いが声ににじむ。
結衣はそんな彼を安心させるように、当たり前のことだとでも言うように微笑んだ。
「もちろんです。表に出るのは県の名前で構いません。むしろそうしてください。私は裏方で十分。――誇りは行政が持ってください」
会議室に、驚きの沈黙が広がる。
行政にとって、体裁は“生存”に等しい。だが彼女はその重要性を正確に理解した上で、軽々と受け止めて見せる。まるで「そんなものは当然守られる」と告げるように。
観光課長は内心で震えていた。
――我々が必死に守ろうとする体裁を、この若い女性は“尊重した上で超えている”。
その余裕に、自分たちがどれほど小さな世界で思考していたのかを突きつけられる。
結衣はさらに言葉を重ねる。
「それに……最初に投じる資金は寄付でも構いませんが、仕組みを作れば後で回収はできます。返礼品を商品化し、流通に乗せるだけで収益は戻ってきますし、継続的にお金が循環します」
財政課長は唇を震わせ、声にならない呻きを漏らした。
――自分たちが必死に「予算が足りない」と苦しんでいる額を、この若き会長は“種火”としてさらりと語り、未来の回収まで視野に入れている。
予算を「守る」ことに縛られていた自分たちの思考が、どれほど視野の狭いものだったか……思い知らされる。
結衣は一呼吸置き、今度は茶目っ気をにじませて笑んだ。
「それから……返礼品、もっと遊んでもいいと思います。たとえば、VTuberとのコラボ出演権。寄付してくださった方が実際に配信に登場できる、とか。コラボ枠なら全国のファンが飛びつきますよ」
観光課長が目を丸くし、言葉を失った。
――そんな発想、行政の発想の土俵には一度も上がったことがない。だが確かに、それは人々を動かす力を持つ。
「し、出演……?」
「はい。もちろん安全に配慮した形で。録画コメントを残すでもいいし、抽選で数名をリアルタイム配信に招いてもいい。寄付で地域を支援した人が“女帝様と共演した”と胸を張れるなら、それだけで宣伝効果は計り知れません」
その瞬間、県庁の幹部たちの脳裏に、以前の地域説明会での彼女の言葉がよみがえった。
――「生身の姿ではなく、VTuberだからこそ、人を動かす影響力を持てる」
今まさに、その理屈が目の前で現実の提案として示されている。彼女は匿名性に隠れているのではない。生身を超えて影響力を行使するための“仮面”を使いこなしているのだ。
副知事が深く息を吐き、苦笑を浮かべた。
「……なるほど。我々には出てこない発想だ」
会議室の空気が、わずかに和らぐ。重苦しさの奥に、希望めいた明るさが差し込んだ。
行政の矜持が尊重された安心と同時に――自分たちがすでに“彼女の描く祭りの舞台”に組み込まれているという事実を、全員が悟ったからだ。
さらに幹部たちの胸中には、もう一つの理解が芽生えていた。
鬼怒川に置かれるデータセンター。それは単なる施設ではなく、あのAI〈あやか〉を中心とした新しい地場産業の核であり、すでに地域資本として機能している。であれば、ふるさと納税で人々を巻き込むことは、単なる寄付ではなく“育ち始めた産業を社会の共感で支える仕組み”になるのだ。
その姿を前に、県庁の誰もが改めて理解する。
――なぜ彼女が、生身の姿を頑なに隠し、VTuberとして表に立ち続けるのか。
それは単なる匿名性のためではない。
南野結衣という存在そのものが、“行政の枠を超えて人を動かす力”になってしまうからだ。