第79話 寄付の在り方
県庁の応接室。
呼ばれた南野結衣は、背筋をすっと伸ばし、落ち着いた足取りで扉をくぐる。二十代の若さながらライトブルーホールディングスの会長、“女帝様”と呼ばれる存在。彼女の姿に、迎えた職員たちは反射的にわずかな緊張を顔に浮かべた。
「本日はお忙しいところ、ご足労いただきありがとうございます」
最初に口を開いたのは副知事だった。声色は柔らかく装われていたが、その内側には行政の威信を保たねばならないという固さがにじむ。
結衣は穏やかに微笑み、軽く会釈した。
「いえ、こちらこそお招きいただき感謝いたします。……本日は観光の件、でよろしいでしょうか?」
その一言に応接室の空気がわずかに張りつめる。観光課長が言葉を発しかけたが、副知事が手を挙げて制した。言葉を探しながら、慎重に口を開く。
「率直に申し上げます。鬼怒川温泉の観光効果は、我々の予想をはるかに超えるものでした。しかし同時に、道路の渋滞や住民生活への影響も深刻化しております。行政としても対策を講じてはおりますが、予算には限界がある。……そこで、貴社のお力をお借りできないかと」
観光課長と土木課長は、一瞬目を伏せた。誇りを守るための言い回しではあったが、実情は「助けを乞う」以外に術がない。
結衣は瞳を細め、視線を落とす。若くして巨額の資産を操り、社会現象の渦中に立つ自分へ、県庁の上層部がこうして頭を下げている――その現実の重さを、彼女は軽んじることはなかった。
「……道路整備は、本来は県の責務と存じております」
静かに告げた声は、落ち着いていながらも応接室の隅々に響いた。職員たちの背筋が自然と伸びる。
「ですが、この町の未来を守るために、私にできることがあるなら検討します。人が増えることは喜ばしい反面、住民が不便を強いられるのは本末転倒ですから」
副知事の表情に、安堵の色がわずかに広がる。
「感謝いたします。……もちろん、県としての責任は放棄いたしません。あくまで共同での取り組みとして、ご協力をお願いできればと」
結衣は小さく頷き、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「わかりました。では“共同”という形で進めましょう。ただし条件があります。観光業者や旅館だけでなく、地元住民の声を優先して取り入れてください。資金だけで解決するなら簡単ですが、それでは長続きしません」
その言葉は柔らかくも鋭く、応接室にいた全員の胸に突き刺さった。
行政のプライドを尊重しながらも、核心を見抜く“女帝様”の眼差し。二十代後半にしてこの冷静さと気配りを持つ彼女の存在は、誰の目にも異質であり、同時に頼もしかった。
副知事は深く頭を下げた。
「承知しました。……ぜひ、その方向で協議を進めさせていただきます」
こうして行政と“女帝様”の間に、ぎりぎりの均衡を保ちながらも、新たな協力関係が築かれようとしていた。
***
応接室の空気が落ち着きはじめた頃、結衣はふと表情を引き締めた。
「まず、必要な金額を教えていただけますか」
淡々とした声が響くと、副知事は手元の資料を開いた。用意していた数字を確認しながら、やや硬い声で答える。
「現行の道路を拡幅し、渋滞緩和のためのバイパスを整備する計画です。概算ですが……五十億円あれば十分かと」
その額が口にされた瞬間、観光課長と土木課長は思わず小さく肩をすくめた。行政にとっては容易ならざる巨額。しかし、この場に座る“女帝様”にとってはどう響くのか。室内の視線は一斉に結衣に注がれ、誰もが息を呑んで彼女の反応を待った。
「寄付してもいいですよ」
あまりにあっさりとした結衣の一言に、応接室がざわめいた。だが、法人としての寄付ならばまだ想定の範囲内である。観光課長が安堵をにじませながら問い返した。
「……会社からご支援いただける、という意味で?」
「はい。ライトブルーホールディングスからの拠出という形でも、もちろん構いません」
財政課長が小さく頷き、ようやく理解できる範疇に収まったと胸を撫で下ろす。だが次の瞬間、結衣は呼吸を置く間もなく、さらりと続けた。
「……もっとも、五十億なら、私が個人で出しても構わないんです」
その一言に、応接室の時が止まった。観光課長は呆然と口を開け、土木課長は手元の資料をめくる手を硬直させる。財政課長に至っては、声を詰まらせるようにしてようやく絞り出した。
「……い、今……個人で、と?」
「はい。もちろん会社の資金として出すこともできますが、個人でも構いません」
結衣は淡々と、しかし一切の迷いなく繰り返す。その落ち着きこそが、かえって圧倒的な異質さを際立たせた。
県庁の面々は互いに顔を見合わせる。頭を支配したのはただ一つ――「個人で五十億」という言葉のあまりの桁違いさに対する、困惑と畏怖だった。
その反応を目にして、結衣は小さく息を吐くと、ほんのり柔らかい笑みを浮かべた。
「だからこそ、私は“生身の姿”を表に出さないんです」
静かな声だったが、全員の胸に重く響いた。
「ただの二十代の女性が“個人で五十億円”なんて言えば、どう思われるか。驚き、警戒し、ときには妬まれる。……それなら、匿名性を持ったVTuberの姿で人々の前に立った方がいい。表に出る理由はただひとつ――私の顔や生活じゃなく、行動と結果に注目してもらうためです」
その言葉は誇示ではなく、冷徹な理屈だった。だが同時に、それは彼女が自分を守るために選び取った、切実で現実的な手段でもある。
副知事は長く息を吐き、しばし沈黙してから静かに頷いた。
「……承知しました。ですが、それだけに個人でというのは……。県としても、やはり公的な仕組みに乗せた方が望ましいでしょう」
結衣は即座に同意を示す。
「せっかくなら“人を巻き込む仕組み”にも乗せましょう。――たとえば、ふるさと納税とかも検討しては如何でしょう?」
財政課長が驚いたように目を見開いた。
「ふるさと納税……ですか」
「はい。SNSで話題にしやすいですし、応援の気持ちを持った人が気軽に参加できます。三万円や十万円の寄付で、ここでしか手に入らない返礼品や限定体験を用意する。“女帝様の温泉街”という物語そのものが、立派なブランドになります」
彼女の口調は穏やかだが、その先に描いている光景が応接室の全員に伝わる。そこには単なる数字ではなく、祭りの熱気と共感の輪が確かに見えた。
「もっとも、資金は私が裏で補填すればいい。人々には“応援した”という実感を味わってもらう。それが広がれば、地元に誇りが戻るし、観光客も一過性で終わらなくなる。……人を動かすのは、結局“共感”なんです」
副知事は深く腕を組み、感嘆するように小さく呟いた。
「……なるほど。単なる寄付ではなく、巻き込む仕組みか」
結衣は頷いた。
「ええ。行政が表に立つのは当然です。そこに私がちょっとした“きっかけ”を差し出せばいい。県も住民も観光客も、全員が参加者になる――そういう形が、一番強いと思います」
その眼差しは冷静でありながら、確信に満ちていた。二十代後半の若き会長が見据えているのは、資金の流れではなく、人の心がどう動くか。その場にいた県庁幹部たちは、彼女が描こうとする“新しい公共の形”を直感し、誰もが思わず息を呑んだ。
――この若き女帝は、金額以上に“人心”をどう操るかを見ている。