第8話 観測者のまなざし――孤独を越えてチームへ
「最近の南野さん、なんか変わったと思いません?」
昼休みの給湯室。芽衣は湯呑みを手に、同僚にそっと問いかけた。
パートのお姉さんたちが世間話に花を咲かせる中、芽衣の頭には、結衣への小さな違和感が引っかかっていた。
「前から頼れる先輩だったけど、最近すごく落ち着いてるっていうか……会議でも発言が“刺さる”って感じしません?」
「確かに。こないだの資料も部長が絶賛してたし。どこであんな勉強してるんだろうな」
近くの野間もぽつり。
「……投資とか経営の話、前は全然しなかったのに、いきなり“ROI”とか言い出すしな」
芽衣は小さくうなずいた。「なんか遠くに行っちゃったみたい。でも、困ったときは必ず助けてくれるから、やっぱり私にとっては“お姉さん”なんだよね」
午後の営業会議室。
小松原課長が「今期のコスト推移、ここの数字が気になるわね」とモニターを指す。
「資料に追加した改善案、全員に回してもらえますか?」
結衣は静かな声で、目立たず提案する。
課長は思わず微笑む。
「最近、本当にいい意見を出すわね。現場のリアリティと経営側の目線が両方ある感じ」
会議後、そっと声をかける。
「将来は管理職も考えてみない?」
「私なんか、まだまだです。皆さんのおかげで何とかやれてるだけで……」
結衣は控えめに答えるが、その奥に“何か別の世界”を生きている直感を、課長は拭えなかった。
野間は自席でスマホを手に、なにげなく投資系まとめサイトのトピックを眺める。
『ライトブルーファンド伝説 運用主は日本の会社員?』
『GMEバブルの裏に謎の女性ファンドマネージャー』
『大手企業の社員説・AI運用の噂・実はベンチャー社長のフロント?』
コメント欄には、
<最近の日本の個人投資家、レベル高すぎ>
<女性投資家の星、応援してる>
<どうせ裏におじさんがいる説(笑)>
など賛否入り乱れている。
「南野さん説とか出てるけど、まさかね……」
野間は苦笑し、そっと手で口元を隠した。
芽衣もお昼のカフェでSNSを見ていた。
「最近“うちの会社の大株主が社員らしい”ってネタ、バズってるんですよ」
同僚が「夢ありすぎでしょ」と笑う。
「南野さんも投資とか興味あったりします?」
「NISAとかで少しだけ。芽衣ちゃんとかもやってるんじゃなかったっけ?」
「いやいや、私、こないだ口座開設したばっかりで……。でも南野さん見てると、なんか“自分も始めたい”って思うんですよね」
結衣は曖昧な笑顔を浮かべていた。
YouTubeでは「ライトブルーファンドの正体に迫る!」特集が配信され、
「正体はベンチャー女性社長?AI開発者説も根強い」と盛り上がる。
コメント欄には、称賛・憶測・やっかみが入り乱れる。
一部は“女性投資家の新時代”を熱く応援し、アンチは「作り話」と断じる。
ネットの渦の中で、「伝説」と「現実」は境界を曖昧に漂い続けていた。
家では、母が台所でふとつぶやく。
「結衣、最近前より落ち着いた顔になったわね」
兄・拓真が新聞をめくりつつ答える。
「たまに遠くを見るような目をしてるよな。……でも、結衣は自分で決めた道をしっかり歩いてるさ」
母はそっと手を止めて、「大丈夫。結衣は大丈夫」と小さくつぶやいた。
会社帰り、野間は駅のホームで空を見上げ、
「俺も頑張らないとな」と自分に言い聞かせた。
芽衣は日記アプリに短く綴る。
『南野さんみたいな先輩になりたい。私も、自分なりの“成長”を探そう』
投資系YouTuberのライブ配信には、
<一般社員が一夜で伝説とか熱い>
<本当に普通の人の隣に伝説がいるかも>
とコメントが溢れた。
ネットではライトブルーファンドは“伝説”となり、会社や家では、日常が変わらず流れる。
南野結衣は、ごく普通の社員であり、家族の娘であり、そしてネットの向こう側には、誰にも気づかれぬまま、“伝説”の中心に静かに立っていた。
課長は結衣の人事評価シートに“将来有望株”と記し、母はリビングで静かに娘の幸せを祈った。
“観測者たち”の視線は、今日もごく普通の隣にある“非日常”を、静かに見守り続けている。
日々の業務の波は容赦なく結衣に押し寄せる。
「南野さん、これもお願いしていいですか?」
「わかりました、明日までにまとめておきます」
次々に積まれる業務。社内の誰もが「困ったら南野さん」と頼る。
誇らしさと、少しの重さ。
気がつけばチームで分担すべき仕事の多くを、自分一人で抱えていた。
後輩が休憩スペースでこっそり声をかける。
「南野さん、最近ちょっと顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「ありがとう。でも大丈夫。ちょっと忙しいだけだから」
気遣いが嬉しい反面、無理をしていることも自覚している。
昼休み、静かな会議室でToDoリストを見つめると、どこか現実味の薄い眩暈のような気分になる。
仕事に追われる自分を、引いた視点でもう一人の自分が見ていた。
業務が終われば、もう一つの顔――ライトブルーファンド運営者の時間。
外部専門家との連携も、最近は「この部分は担当外」「調整は御社側で」という返答が増えていた。
最終的に全体を調整し、泥縄式で軌道修正する日々。
どれだけ優秀でも、一人ですべてを抱えるやり方には、確実に限界が近づいていた。
ある日、退社後もデスクに残り、ふらつく手元を必死にごまかす。
家に帰っても通知は止まらず、また新しい仕事が積み上がる。
その夜、兄が珍しく家にやってきた。
「結衣、お前、本当に無理してないか?」
「大丈夫だよ。会社も投資のほうも慣れてきたし」
「……全部一人でやる時代じゃない。困ったら、ちゃんと周りを頼れよ」
兄のまなざしに、言い返す言葉が見つからなかった。
翌日、課長が結衣に声をかける。
「南野さんは頼りになるけれど、本当はもっと分担したほうが会社も楽になる。無理しすぎないで」
ファンドでも同様。専門家が別案件で抜け、誰が最終判断を下すか曖昧に。
結衣が自ら電話をかけ、社内外の隙間を埋めていく――そんな泥縄式が続く。
週末、ファンドの外部専門家からメッセージ。
「そろそろ専属で動くチームを本格的に作りませんか?本当に大きな波には勝てませんよ」
「プロ同士、信頼して常時連携できる体制が必要です。自分も腹を決めて“一員”として加わりたい」
その言葉を見て、不思議なくらい肩の力が抜けた。
「全部自分で抱えるのはもうやめよう。“支え合う組織”を作ろう」
残業帰り、野間が控えめな声で。
「もしよかったら、たまには肩の力抜いてください。何かあったら、いつでも頼って」
「ありがとう。じゃあ、そのときは遠慮なく」
静かな夜のオフィス街――世界が広く、やさしく感じられた。
翌朝、結衣は社内チャットにメッセージを送る。
「これからはチームで、みんなで仕事を進めましょう。分担し、助け合うことで、もっと強くなれるはずです」
ファンド側でも「専属の経営チームを本格的に作ります」と正式提案。
全部を一人で抱えなくていい――
そう思えただけで胸の奥に新しい風が吹いた。
深呼吸をひとつして、「これからはみんなと一緒に、この道を歩いていこう」と、結衣は穏やかに、しっかりと微笑んだ。