第78話 光と影、そして誇りと現実
週末の鬼怒川温泉。
駅前のロータリーは、普段の静けさを失っていた。キャリーケースを引く大学生グループ、アニメグッズを抱えた熱心なファン、さらには遠路はるばる訪れた海外観光客まで入り混じり、ざわめきと熱気が渦巻いている。
「やばい、ここが“女帝様”の新拠点なんだって!」
「聖地巡礼、マジで来ちゃったよ!」
ファンらしき若者が興奮した声を上げる。彼らの目は輝き、まるで祭りの会場にでも来たかのようにスマホを掲げていた。
駅前の売店も、その熱気に呑まれていた。普段は「人影まばら」と揶揄される時間帯だというのに、レジ前には行列ができている。菓子も地酒も飛ぶように売れ、地元の店員は呆気にとられながらも、久々に見る賑わいに自然と笑みを浮かべた。
一方、温泉街の中心に構える老舗旅館では、帳場の女将が慌ただしく電話を取っていた。
「ええ、本日分は満室でございます……。週末は来月まで予約が埋まっておりまして……」
電話口から伝わってくるのは、弾むような若い女性の声。『女帝様達が泊まったお部屋に泊まりたい』という問い合わせだった。女将は思わず苦笑しながら予約帳をめくる。
「観光パンフレットよりSNSの拡散力の方が強いわね……」
すでにネットでは「鬼怒川温泉=女帝様の新拠点」というタグが広がり始めていた。
商店街もまた、様子が一変していた。長らくシャッターを下ろしていた土産物屋が、急きょ営業を再開したのだ。
「こんなに若い子たちが来るなら、うちもやらなきゃ損だよ」
そう言って並べられたのは、女帝様のイメージカラーを取り入れた“青い温泉まんじゅう”。
観光客は次々に手を伸ばし、次々に買っていく。
「これ映える!」
大学生らしき集団が笑い声を弾ませた。
商店街の古株たちも、その光景に目を丸くする。
「十年ぶりに人の波を見た気がするな」
「地熱とかデータセンターとか、正直よくわからんが……あの子が来てから様子が変わった」
戸惑い混じりの声。しかし賑わいは紛れもない事実であり、彼らの胸を少なからず高鳴らせていた。
夜。
温泉宿の露天風呂からは、川沿いに灯る明かりが一望できた。
ここに泊まったファンの一人が、スマホを構えて小声でつぶやく。
「女帝様が浸かったかもしれない湯船に、自分も入ってるとか……尊い」
そのツイートは瞬く間に拡散され、「#女帝様露天風呂聖地」というタグが生まれてしまう。
【SNSの声】
《鬼怒川、久々に行ったけど人すごすぎ!温泉街が若返ってる》
《ライトブルーHD案件で町おこしとか胸熱。まじで地方創生じゃん》
《アニメキャラが会長ってネタにしてたけど、経済効果ガチでシャレにならん》
《鬼怒川温泉まんじゅう青くなってて草。買ったわ》
《あの川がデータセンター冷やすって聞いてビビったけど、逆に行ってみたくなった》
市役所の移住担当課にも、普段見ないような問い合わせメールが一気に増える。
「空き家バンク、掲載件数が足りません!」
「データセンターのWi-Fiって住民も使えるんですか?」
「子育て支援の制度も一緒に打ち出さないと、ほんとに人が来ちゃいます!」
職員たちは嬉しい悲鳴を上げていた。
若手職員が、その熱気を休憩室で眺めながら呟く。
「……観光課の人間じゃないけど、これは嬉しい誤算だな」
上司が苦笑して答える。
「結局、“予算を気にしないで地元の声を反映させられる”っていう環境があるだけで、人も金も回り始めるんだよ」
鬼怒川は、少しずつ息を吹き返していた。
***
一方、地元の寄り合い所では、年配の旅館主や商店の古株が集まって話し合っていた。
湯気を立てる湯呑みを手にしながら、顔を突き合わせる彼らの表情には、浮き立つ期待と、押し隠せぬ不安が同居していた。
「人が来るのはいいことだ。商売が潤えば、息子たちも帰ってくるかもしれん」
嬉しそうに語る男の声に、別の宿の主が眉をひそめる。
「いやぁ、でもなぁ……。あんまり人が増えすぎると、昔ながらの“静かな温泉街”が壊れちまう」
さらに隣の席からは、苛立ちを含んだ声が飛ぶ。
「今でも週末は道路が混んで仕方ないって苦情が出てるぞ。観光バスが連なりゃ、地元の車はどこにも行けやしねえ」
場の空気は熱を帯びる。
「都会の人間は金払いはいいが、すぐ飽きる。定住なんてするもんか」
「いや、リモートワークが根付けば本当に住みつくぞ。問題は学校や病院だ」
長老格の旅館主が、沈んだ声でぽつりとこぼした。
「……わしらの代で町を潰したくはない。だが、変わりすぎるのもな」
言葉の端々には、郷愁と戸惑いがにじむ。
温泉街の川沿いでは、シャッターを下ろしたままだった土産物屋が改装され、臨時のコワーキングスペースとして試験的にオープンしていた。窓際では若者がノートPCを広げ、熱心に画面へ向かっている。
「まじで回線速い。都内のシェアオフィスより安定してる」
その光景に通りがかった地元の主婦が思わず足を止め、胸の奥に揺れる思いを吐き出した。
「……ほんとに、時代が変わるのかもしれないね」
だが、表の賑わいの裏では、別の声が膨らんでいた。週末ごとに深刻化する渋滞。観光客の車が一本道を埋め尽くし、救急車が通れず立ち往生したという噂まで広がっている。市役所や県庁に陳情に行こうと声を上げる者も出始め、役場の窓口は連日ざわついていた。
「道路の整備が追いつかない。観光はありがたいが、このままじゃ生活に支障が出る」
「迂回路や駐車場の拡張に予算を回してほしいんだ」
必死に訴える住民に対し、役人たちは苦しい表情で首を振る。
「……予算の制約がどうしてもあります。県全体で優先順位を考えねばならないので」
押し寄せる陳情に疲弊する職員たち。だが、もはや小手先の対応では追いつかない。結局、県庁の上層部が腰を上げることとなった。
午後の会議室。長机の上には資料が山積みになり、壁際のホワイトボードには「渋滞対策」と大きく書かれている。参加しているのは観光課、土木課、財政課の課長たち。皆、目の下に隈を作り、重苦しい空気を漂わせていた。
「週末の交通量は想定の一・五倍。これ以上は道路が持ちません」
土木課長が淡々と報告する。だが声の裏には苛立ちが滲んでいた。
「臨時の駐車場も手当てしましたが、根本的な解決には程遠いです」
観光課長は腕を組み、ため息を漏らす。
「住民からの苦情も増えています。観光客の誘致は県として喜ばしいことですが……このままでは“迷惑観光地”と化しかねません」
重苦しい沈黙。誰もが机上の資料を見つめながら、解決策を思い描けずにいた。
そこで、財政課長が低く呟いた。
「……追加の道路整備予算は、到底ひねり出せません。他の自治体との兼ね合いもあります。県単独では限界です」
その言葉に、会議室の空気が一段と沈む。県としての矜持――「行政がやるべきことは自分たちの手で成し遂げるべきだ」という思いは、誰もが持っている。だが現実は、財政も人員も追いついていない。
「このままでは、せっかくの経済効果が逆に反発を招きかねません」
「観光業者や旅館主は恩恵を受けているが、住民の生活基盤は守れていない。これではバランスが取れない」
議論は堂々巡りを続け、ついには一人の部長が口を開いた。
「どうせなら、直接“あの会長”に相談してみるしかない」
その一言に、場が凍りつく。
誰もが頭の片隅で思い浮かべていた名。しかし、口にすることはためらってきた。行政としてのプライドが、それを許さなかったのだ。
「……我々が民間に頼るというのか」
土木課長が苦々しい顔で吐き捨てる。
「道路整備は本来、県の責務だ。外部の資金に頼るなど、前例がない」
しかし観光課長は首を横に振った。
「前例など、もはや意味をなさない状況です。あの会長――南野結衣は、町の変化の震源そのもの。行政が後追いしているのが現実です」
誰も反論できなかった。プライドを押し殺してでも頼らざるを得ない現状。会議室には、重く苦い沈黙が落ちた。
やがて部長が深々と息を吐き、言葉を絞り出す。
「……正式に、彼女に意見を伺う。県としての顔を立てつつ、協力を仰ぐ形で」
その決定に、誰も異を唱えられなかった。
行政が追いつけぬ現実を前に、南野結衣という“外の力”に縋るしかないという空気が、静かに広がっていった。