第77話 経営者の顔と、母に見せる顔
説明会が終わり、旅館の広間を出た住民たちのざわめきは、夜の鬼怒川の冷たい空気にそのまま持ち出された。
「本当にあのアニメの女の子が会長なのか?」――半ば冗談、半ば驚きの声が、土産物屋の前や足湯の脇でいつまでも交わされていた。
一方、関係者用の控室には別の空気が流れていた。会場からライトブルーHDの随行スタッフが撤収した後、残ったのは県庁の職員たちと国の担当官だけ。机の上には地熱発電の規模、川を利用した冷却システム、五百人規模の雇用創出――すでに読み込んでいた資料が無造作に積まれている。
だが、紙の上で確認した数字と、実際に結衣が壇上で「あ、もう用意しました」と軽く言い切ったときの重みは、まるで別物だった。
「……正直、ドン引きです」
県の課長が深いため息を吐き、声を潜めてこぼす。机を挟んで座る国の担当官は、淡々と資料を閉じた。
「我々としては、想定の範囲内です。この精度のAIを守るなら、これぐらいの拠点は必要です。セキュリティの観点からも妥当でしょう」
「いえ、そういう意味ではなくてですね……」
課長は言葉を探すように天井を仰いだ。
県の年間予算と照らし合わせてしまったのだ。桁違いの投資を「当然」のように口にする若い会長。その事実に、現実感が追いつかない。
***
夕方の県庁。説明会を終えて戻ってきた課長の姿を見つけるや否や、フロアにいた若手や中堅の職員が一斉に立ち上がった。
「課長! 本当に……あの人が?」
興奮と混乱の入り混じった声に、課長は苦笑しながら首を縦に振る。
「……VTuberとしてのアバターだったのは事実だ。だが、言葉も、決裁権も、全部本人のものだった。こちらの予算感覚とは次元が違う」
そう言って彼は鞄から配布資料を取り出し、机に置いた。ページをめくりながら指で示す。
「総投資額、一千数百億円規模。これがこのプロジェクトの初期フェーズだ」
一瞬の沈黙。すぐに、職員の一人が息を呑んだ。
「……ちょ、ちょっと待ってください。栃木県の歳出、七千億ちょっとですよね?」
「そうだ。その一〜二割に匹敵する金が、“一企業の一案件”としてここに落ちる」
「うそだろ……」
「書類では数字を見てたけど……まさか本当にやるとは」
若手職員が半ば笑うように頭を抱える。机上で見たときはまだ、夢物語のように遠い数字だった。だが今日、本人が「用意しました」と一言告げた瞬間、現実が裏付けられてしまった。
別の中堅が加わる。
「しかもですよ、県や国から一円も出さないっていうじゃないですか。全額民間持ち。それでいて、地元の意見はちゃんと拾って反映してくれる」
呆然とした空気の中、課長は小さく頷く。
「そうだ。むしろ“必要なら言ってください”とまで言われた。予算気にしない環境なんて、行政ではまず有り得ない。だが彼女は――“どうせ用意するつもりだから”という顔で、さらりと構えている」
職員たちは顔を見合わせ、戸惑いと同時に、言いようのない期待感をにじませた。
「つまり……俺たちの一声で、数十億単位の整備計画が通るかもしれない、ってことですか?」
「地熱井戸の増設だって、地元との調整次第。観光客向けのインフラ整備だって、要望を出せば組み込んでくれる可能性がある」
若手が信じられないといった顔で笑う。
「いやいや……そんな環境、夢みたいじゃないですか」
だが、別の声が現実を突きつける。
「夢だが、本物だ。あの規模の資金を一言で動かせる会長が、俺たちの意見に耳を傾けるんだぞ。逆に言えば……軽々しい提案はできない」
フロアに再び沈黙が落ちる。だが、今度は怯えだけではなかった。
課長は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
「確かにプレッシャーはある。けどな……俺は少し嬉しかったよ。これほどの規模のプロジェクトで、県の声が無視されない。金を出さないのに、だ」
その言葉に、周囲の表情が緩む。
「確かに……普通なら“口を出すな”って扱いされても仕方ないですもんね」
「そうだ。だが彼女は違う。“一緒にやりましょう”と言った。県の都合も住民の感情も、ちゃんと組む姿勢を見せた」
若手の一人が呟く。
「……なんか、試されてる気がしますね」
課長は小さく笑った。
「試されている、か。そうかもしれん。けど、それは悪いことじゃない。我々が“受け止める力”を持てば、この街も、この県も、確実に変わる」
その言葉に、職員たちは再び顔を見合わせた。胸の奥に広がるのは、不安と期待の入り混じったざわめき。
確かに彼女は桁違いだ。若いとかアニメアバターだとか、そんな次元ではない。だが――その桁違いの存在が、今、鬼怒川に本気で資金を投じようとしている。その事実が、何よりも職員たちの心を動かしていた。
「こちらが一円も出さないのに、県の要望もちゃんと取り入れてくれている。電気料金の還元や雇用の地元枠拡大、観光地としての景観配慮まで……。普通なら“やってやるんだから黙って従え”となるはずでしょう? それがまったくない。むしろ、こちらの顔色を窺っているようにすら見える」
課長が少しだけ口角を上げた。
「それが南野結衣という人物なんだろうな」
「……怖いですよ、あの若さで、あれだけのことを『必要経費です』と言い切れるのは」
別の若手職員が思わず漏らした。会場で「必要なお金はすでに稼がせました」と笑みを浮かべて語った彼女の声が、まだ耳に残っている。数百億円単位の資金を、彼女はまるで家計簿の端数のように扱った。
――金銭感覚が違う。いや、そもそも次元が違うのだ。
「ですが、あれだけの規模の投資が本当に実行されれば……我々としても歓迎せざるを得ません」
課長は資料に視線を落とす。地元の観光再生、雇用創出、電力の地産地消。どれも県が長年求めてきた課題の答えが、目の前で用意されている。
課長が腕を組んだまま静かに言う。
「国益に資する。安全保障上も意義がある。――そして、県益も確保される。結局、誰も損をしないのです」
課長は小さくうなずいたが、腑に落ちない表情は消えなかった。
「……それでも、なぜそこまで地元に配慮するんでしょうね。彼女にとって、この県は数ある候補地の一つに過ぎないはずなのに」
その疑問に、国側の視線が一瞬だけ交わった。答えは出さなかった。ただ、「南野結衣がそういう人間だからだ」という理解だけが、そこにあった。
――必要資金について、彼女は何とも思っていない。だからこそ、県の声を拾う余裕を持てる。
その異質さに触れた県庁の職員たちは、ただ静かに背筋を伸ばした。
***
その日の夜遅く。
結衣の母・南野由美子は、テレビで娘のニュースを眺めていた。
鬼怒川でのプロジェクト説明会、記者の前で堂々と語る姿。
若くして大企業を率い、国まで巻き込むその姿に、誇らしさと同じくらいの心配が胸をよぎる。
「……結衣、立派になったわね」
口に出してみたが、その声には微かな寂しさが混じっていた。
由美子は、ふと思い出す。
小さい頃、夜眠れなくて布団に潜り込んできた結衣。
「お母さん、私、お嫁さんになれるかな」
あの無邪気な声が、今でも耳に残っている。
現実の結衣は――容姿も頭脳も資産も、誰よりも飛び抜けてしまった。
けれどもネットで「付き合いたいとは思えない」と評される娘の姿に胸が痛む。
「あの子は本当に幸せになんだろうか」
由美子はスマホを取り出し、結衣にメッセージを打つ。
『体調崩してない? ちゃんと食べてる?』
送信して少し迷った末に、もう一文を足す。
『……結衣、ちゃんと笑って過ごせてる?』
送信ボタンを押したあと、胸がぎゅっと締めつけられる。
娘の顔がニュースに映るたび、誇らしくて、同時に心細い。
母親としてはただ一つ――普通の幸せを願う気持ちが消えないのだ。
――その頃。
住民説明会を終えて帰宅した結衣の部屋には、ノアとみやびが立ち寄っていた。
「今日は本当にお疲れさま!」
「これ、差し入れね。甘いの食べると落ち着くよ」
小さなお菓子の袋を広げ、三人はソファの上でちょっとした打ち上げをしていた。
笑い声が絶えない中で、結衣のスマホがふいに震える。
画面を覗き込んだ結衣の肩越しに、ノアとみやびも自然に顔を寄せた。
「結衣さん、誰から?」
「……お母さん」
そこには短いメッセージ。
『体調崩してない? ちゃんと食べてる?』
『……結衣、ちゃんと笑って過ごせてる?』
結衣はしばし言葉を失い、それでも笑顔をつくろうとした。
「……返事、送ろうかな」
スマホを握り直す彼女に、みやびが手を叩く。
「じゃあ証拠写真だね! はいはい、みんなで並んで、笑顔!」
「えっ、ちょっと待って……」
ノアは赤面しながらもピースサインを作る。
結衣もつられて頬をゆるませ――。
――カシャ。
数秒後、由美子のスマホに写真が届く。
『心配しないで。ちゃんと笑ってるよ』
そこには、友人に囲まれて笑う娘の姿。
由美子は思わず息を呑み、そして胸の奥でふっと力が抜けるのを感じた。
(……良かった。結衣はひとりじゃない)
三人の頬はお風呂上がりのように赤く、笑顔は少し不揃いで、それでも心から楽しそうだった。
由美子は震える指で返信を打つ。
『結衣の友達、いい子たちね。大切にね』
その文字を見た結衣は、少しの間まばたきを止めた。
そして、声にならない笑みを浮かべる。
結衣はスマホを胸に抱き、湯上がりの涼しい風に目を細めた。
――自分はひとりじゃない。
その実感が、胸の奥でじんわりと温かく広がっていった。