第76話 地域説明会
鬼怒川温泉郷の老舗旅館、その大広間に集まった住民たちは、ざわざわと落ち着かない空気を漂わせていた。
県庁と旅館組合の共催による「地域説明会」と銘打たれた会は、普段なら観光振興の打ち合わせ程度。しかし今日は違った。国や県の役人がずらりと並び、その背後にはスーツ姿の秘書らしき人間まで控えている。
「それでは、本日の説明会を始めます」
県の観光課課長がマイクを握った。
「本日ご説明するのは、鬼怒川に計画されているデータセンターと、それに伴う地熱発電開発の件です」
住民の間に小さなざわめきが走る。「データセンター」といった言葉は耳慣れない。
年配者たちは顔を見合わせ、若い世代はスマホをいじりながらもどこか期待を浮かべている。
課長は続けた。
「本計画は、国・県・民間の連携により進められる予定ですが、特筆すべき点がひとつあります。施設の費用は――全額、民間が負担します。税金は一切投入されません」
会場が一瞬静まり返った。
「税金を使わない?」
「そんな話、あるわけないだろう、俺達が直接払うってことか?」
誰かが声をあげ、ざわめきが広がる。
そこで国の担当官が立ち上がった。経産省の冷静そうな中年の男だ。
「本計画は半官半民のスキームとなりますが、資金についてはすべて企業側が準備しています。私ども国や県は、制度面の調整と安全管理を担います。地域の皆さまにご負担をお願いすることはありません」
それでも疑念は消えない。前列に座っていた白髪の旅館主が腕を組んで吐き捨てる。
「結局、都会の大企業が好き勝手やるんじゃないのか? 川を使うとか聞いたぞ。鬼怒川の水は国の管理だろうが、そんなもの勝手にいじられてたまるか」
その瞬間、スクリーンに映像が切り替わった。そこに映し出されたのは――少女の姿。
浴衣に身を包み、少し緊張した表情を浮かべるAI・あやかだった。
「……はじめまして。私は、あやかといいます」
その声は澄んでいて、けれど人間らしいためらいもにじんでいた。
「私には体がなくて……いつもデータの中で過ごしています。でも、この鬼怒川に……“私のおうち”をつくりたいんです」
会場の空気がわずかに変わる。年配者たちは怪訝そうに眉をひそめるが、若い観光業のスタッフや地元の学生はざわめいた。
「あ、あやかちゃんだ」
「配信で見たことある!」
だが、偏屈な男がすかさず声をあげた。
「何を子どもの遊びみたいなことを! 俺たちは生活がかかってるんだ。お前の“おうち”なんか知るか!」
「あっ……その……ごめんなさい」
あやかの声が震えた。スクリーンに映る瞳が揺れ、悲しげに伏せられる。
「本当に、私のわがままで……皆さんに迷惑をかけてしまうかもしれません……」
沈黙。居心地の悪さが会場を覆う。
住民たちは「まるで年下の子を泣かせているような」妙な罪悪感にとらわれた。偏屈な男も舌打ちしながら目を逸らす。
その膠着を破ったのは、再び立ち上がった経産省の官僚だった。
「……具体的なメリットとデメリットを、整理してお話しします」
スクリーンに資料が映し出される。
メリット:
・地熱発電による安定電力供給。
・データセンターに伴う雇用創出(エンジニア、保守、清掃、周辺サービス)。
・観光PR効果。“AIの住む温泉街”として国内外に発信可能。
デメリット:
・建設期間中の騒音、景観の一部変化。
・温泉資源の利用調整が必要。
・冷却水使用に伴う環境影響への配慮。
「これらはすべて国・県・企業で調整し、責任を持って対処します」
住民たちは神妙に聞き入った。しかし、最も大きな衝撃は次に訪れた。
「初期費用については――概算で一千三百億円規模を見込んでいます」
ざわっ、と大広間がどよめく。
「い、いっせん……億?」
「そんな金額、国でもなかなか……」
担当官は静かに言葉を重ねた。
「繰り返しますが、すべて民間負担です。皆さまの税金は一切使われません」
完全な沈黙が落ちた。
偏屈な住民も口を半開きにして言葉を失う。
年配の旅館主は思わずつぶやいた。
「……じゃあ、こっちは何も出さなくていいのか」
すると若い経営者が笑みを浮かべた。
「AIがいる温泉街……それって逆に売りになるかもしれませんね」
学生たちもSNSに写真を撮って「鬼怒川にAI少女が住むらしい!」と拡散を始めている。
スクリーンのあやかは、少し戸惑いながらもほっとした表情を浮かべた。
「……ありがとうございます。私、皆さんと仲良くなれるように、がんばります」
その言葉に、大広間の空気がようやく柔らかくなった。
旅館の大広間に置かれたスクリーンに、再びスライドが映し出される。国側の担当官が前に出て、眼鏡を押し上げながら声を整えた。
「さて、ここからは具体的な整備計画についてご説明いたします」
ざわめいていた住民たちの視線が一斉に前に集まる。
「まず、電力供給です。鬼怒川の既存源泉パイプから余剰熱を利用する形で小規模な地熱発電を行い、それに加えて新規に地熱井戸を掘削する予定です。掘削は地質調査済みで、観光資源への影響は最小限に抑えられます。加えて……」
スライドに大きな配線図が映る。赤と青のラインが温泉郷を横断し、送電線と冷却ラインが描かれている。
「冷却に関しては鬼怒川の水を循環式に利用します。汚染や温度上昇を避けるために二重の処理を施し、川に戻る水は常に自然温度と同等以下を維持する仕組みです。加えて送電網も最新化します。これにより停電リスクが減少し、観光地全体がより安定した電力供給を受けられます」
「観光客向けのWi-Fiも入るってことか?」
後方から誰かが声を上げた。担当官がうなずく。
「はい。データセンターに伴い、光回線と5G基地局を全面整備します。結果として、温泉街全域が高速通信エリアになります」
その瞬間、若者たちがざわっと沸いた。「やった!」「動画配信できるじゃん!」と、すでに観光客目線の喜びの声が混じる。
県の観光課長が立ち上がり、資料をめくりながら続けた。
「雇用についても試算を出しています。データセンターの常勤スタッフは百五十人ほど。システムエンジニア、保守監視、設備管理の人材です。さらに清掃や警備、関連業務で二百人程度。そして大学や高専からの研修枠を毎年数十名受け入れる予定です。観光需要の増加も見込まれますから、地域全体で五百人規模の雇用が創出されると見込んでおります」
その数字が読み上げられると、大広間に「おぉ……」とため息が広がった。腕を組んでいた年配の旅館主が「……息子の就職先、悪くないかもしれんな」と漏らし、周囲から笑いがこぼれる。
「だが、そんな人数を本当に継続的に雇えるのか?」
慎重な一部の住人から疑念の声が飛んだ。
国の担当官が即座に答える。
「全額、企業負担です。人件費も教育費も、すでに予算に計上されています」
「その企業って……?」
誰かがつぶやいた瞬間、スクリーンが切り替わった。そこに現れたのは、先ほどのあやかの隣に立つ、もうひとりの若い女性の姿。
「こんばんは」
穏やかに微笑むアバター。肩までの髪に軍服風のワンピース。澄んだ声が大広間に響いた。
「ライトブルーホールディングス会長の、南野結衣です」
一瞬、空気が止まった。
「会長?」
困惑と驚愕の混じった声が一斉に広がる。
「ここ鬼怒川の地をモデルケースとして、日本の地熱発電をもっと広げられるかどうかを試したいと思っています」
その声は不思議なほど落ち着いていた。
会場後方の学生がスマホを掲げてSNSに打ち込み始めた。「鬼怒川に女帝様降臨」「地熱発電とAIのまち始まるらしい」。瞬く間に拡散が始まる。
結衣は続けた。
「日本の地熱はまだ本当の意味で活用されていない。ここでモデルケースを作ることができれば全国で応用できます。電力を地産地消して、地域全体に還元できる。そんな仕組みを、この場所から始めたい」
その言葉に、県の課長がすかさず補足する。
「はい。発電量のうち一定割合は地域に還元し、電気料金の安定化につなげる予定です。地元の皆さまにも直接的な利益が及びます」
住民の間に驚きが広がった。「電気代が下がる?」「本当か?」と疑念はありつつも、目が輝いていく。
「私はAIのあやかと一緒に、この街に関わっていきたいと思っています。もちろん人間の私自身も」
アバターが一歩進み、画面に映る。あやかが横に並び、少し緊張した顔でうなずいた。
「わ、私も……鬼怒川に住みたいです。皆さんと仲良くなりたい……」
その声に、会場がふっと和んだ。
さっきまで偏屈に文句を言っていた老人でさえ、ばつが悪そうに目を逸らす。
最前列の大学生が立ち上がり、「正直、すごいと思う! 鬼怒川がAIの街って、世界に誇れるじゃないですか!」と声を張り上げた。拍手がぱらぱらと起き、次第に広がっていく。
結衣は静かに頷いた。
「資金はなんとかします、それでも環境変化などがどうしてもありますので皆さんの負担がゼロにはならないと思います。だけど、この街と一緒に、新しい未来を作りたい。それだけです」
スクリーンに映るアバターの笑みは、観光客として温泉を楽しんでいたあの柔らかな表情のままだった。けれど今、その背後には桁外れの決断と資金力があることを、誰もが理解していた。
それは恐怖ではなく、期待の色を帯びていた。