第74話 湯けむりの中で
県庁での非公式会合を終え、結衣たちは宿に戻った。
車を降りた瞬間、ふわりと漂う硫黄の香りが、昼間の硬い空気を溶かしていく。
「……ふぅ、やっと解放された」
みやびが深く伸びをする。
「結衣さん、あんな大金の話をサラッとするんだから……聞いてるこっちが緊張しますよ」
「え? ただの必要経費を話しただけよ」
結衣は何でもないように肩をすくめた。
ノアが笑いながら言う。
「まあ、あやかちゃんのサーバー代だもんね。規模は大きいけど、必要なものだし」
「あやかちゃん、今も24時間稼働でしょ? それ以上に稼いでるから問題ないんじゃない?」
「そうそう。正直、もう規模感に慣れてきちゃった……」
みやびは苦笑いしながら荷物を置き、窓の外を見やった。そこには、湯気を立てる自室専用の露天風呂が広がっていた。
「……入ります?」
「入る入る! せっかく最上級のお部屋なんだから!」
ノアがぱっと笑顔になり、タオルを手に取る。
夜の帳が降り、露天風呂にはやわらかな灯りが揺れている。
湯面から立ち上る白い湯気が、三人の頬をほんのり染めていく。
「はぁ……しあわせ……」
湯船に身を沈めたみやびが目を細める。
「こうしてると、昼間のことが夢みたいですね」
「夢じゃないよ。むしろ、ここからが本番」
結衣は湯縁に肘を置き、空を仰いだ。
ノアが湯に浸かりながら小首を傾げる。
「結衣さん、のぼせないでね。考え事してるとすぐ忘れそう」
「ん……気をつける」
そう言いつつも、結衣の視線は遠くを見ていた。あやかの新しい“おうち”の完成図が、頭の中で少しずつ形になっていく。
やがて、みやびが湯桶でぱしゃっと結衣にお湯をかける。
「ほら、現実に戻ってきてください」
「……あ、うん」
結衣はふっと笑い、肩まで湯に沈めた。夜空には満天の星。鬼怒川の湯けむりは、静かに三人を包み込んでいた。
***
鬼怒川で結衣たちが湯けむりに包まれていたその頃、東京・霞が関では別の熱気が渦巻いていた。
内閣官房の情報会議室。防音仕様の厚い扉が閉まり、数人の官僚たちが机を囲む。
「……南野結衣氏からの打診があったそうだな」
外務省の局長が口火を切ると、経産省の課長補佐が頷く。
「はい。地熱利用型データセンターの建設案件です。場所は栃木県鬼怒川温泉郷。まだ非公式とのことですが、本人が直々に接触してきた」
別席から財務省の官僚が口を挟む。
「本人が、だと? あの人は知らない者はいないだろう。国内外での影響力は、もはや無視できない」
資料をめくる音が響く。
「この件、金融庁からも関連情報が上がっています。彼女の運用する高度AI“あやか”に関し、機密性担保とデータの国内保全を求める声が以前から出ていました」
「シンガポール進出絡みでも同様の懸念がある」
外務省の局長が続ける。
「現地金融機関との接続、越境データの流れ……。あれを押さえておくには、国内拠点を完全自前で確保することが必要だ」
防衛省の席からも短く声が上がった。
「演算能力の規模からして、軍事転用の可能性も視野に入れざるを得ない。AIの基幹システムを安全に保持するには、物理的にも遮断可能な施設が必要だ」
一同の視線が自然と一点に集まる。
中央の席に座る内閣官房副長官が、重々しく言葉を発した。
「――つまり、これは地方創生を装った国家インフラ強化案件、か」
経産省の課長補佐が小さく頷く。
「彼女のやることに偶然はありません。地元と国の双方の協力を前提に、既に全体設計は固まっているはずです」
副長官は短く息をつき、手元の端末を閉じた。
「……よし。準備を始めよう。ただし、表向きはまだ静かにな」
こうして、鬼怒川温泉の一角で交わされた非公式会合は、わずか半日のうちに日本の中枢を動かし始めていた。
***
鬼怒川温泉郷の中心から少し離れた、落ち着いた佇まいの公共施設。
その一室に、県と国の関係者が揃って座っていた。
会議室の中央には長机が置かれ、その両端に向かい合うように席が配置されている。
県側は産業観光課の課長と若手職員、そして観光協会の理事。
国側は経産省、外務省、防衛省の担当官が一名ずつ。
その末席には、地味なスーツ姿の男が一人、静かに座っていた。名刺交換の場面でも自己紹介は簡潔で、所属は「関係機関」としか言わなかった。
課長は、最初に口火を切った。
「本日はお忙しいところありがとうございます。私どもとしては、ライトブルーHDさんが当地での事業を検討されていると聞きまして……いやぁ、最近のニュースでも大きく取り上げられておりましたね」
国側の視線が一瞬だけ交差する。
(“最近のニュース”か……)
県庁が把握している結衣像は、テレビや新聞で見る「若くして成功した経営者」という枠に収まっているらしい。
外務省の担当官が口を開く。
「南野結衣氏は、単なる有名経営者という枠に収まる人物ではありません。金融庁に対しても度々接触し、自社AIの運用に必要な制度整備を、具体的に提案してこられています」
課長が軽く目を見開く。
「……そうなんですか」
経産省の担当官が資料を机に置く。
「シンガポール進出の際にも、国際交渉の場において日本のメンツを守りつつ、実利をしっかり確保する形で相談に来られました。非常に計算高い一方で、協力的でもあります」
防衛省の担当官が、低い声で付け加える。
「管理しているAIは、軍事転用も可能な水準です。本人もその事実を認識していると考えられます」
「……そんな人がうちの温泉に?」
県の若手職員が小声で呟いたのを、理事が肘で制した。
「今回は非公式と伺っています。友人お二人を伴った、私的な旅行のついでの視察です」
担当官は淡々とそう告げながらも、彼らの手元には、結衣たちが温泉街を歩く姿や、露天風呂上がりに談笑する映像が収められている。
だが、その資料は机上に出されることはない。
県側が知る必要のない情報だし、国としても「監視」という色を表に出す意図はない。
地味なスーツの男――公安調査庁の情報担当官は、無言でそのやり取りを見守っていた。
彼の頭には、これまで積み上げてきた継続調査の記録が鮮やかに浮かんでいる。
極めて善性、理性的。だが、一度だけ、友人を守るために情報空間を完全掌握したことがある。
あのときの動きは、同業者としても背筋が寒くなるほどだった。
だが、鬼怒川での彼女はただの若い女性で、湯呑を選び、笑い、友人と戯れているようにしか見えない。
外務省の担当官が、会議の方向を現実的な話題へ戻す。
「今回、彼女が当地で求めているのは、制度的な後押しと地元との融和です。資金も人件費も資材費も、全て自前で用意できます。しかも資材や人材については、可能な限り地元から調達すると明言している」
経産省の担当官が補足する。
「特にエネルギー面では、地熱発電の拡充に豪快に資金投入する方針です。既存の源泉の活用、新規掘削、発電設備の建設……これらを同時並行で行うつもりでしょう。正直、国としては『どうぞやってください』という状況です」
県側の課長は、驚きと同時に一抹の警戒心を抱く。
「……そこまでやっていただけるのはありがたいですが、本当に地元にとってメリットばかりなんでしょうか」
防衛省の担当官が口元をわずかに緩める。
「通常、この規模の民間プロジェクトは、外資や中央資本が利益を持ち去る形になりがちです。しかし南野氏は、利益を全額自社に戻すのではなく、地域インフラや観光への再投資も検討しているようです。こうした姿勢は、むしろ珍しい」
観光協会の理事が頷いた。
「確かに……旅館の経営自体は私たちに任せると言ってくださってますし、来るのは電力だけ。おまけに温泉街を賑やかにしてくれるなら、歓迎する人は多いはずです」
国側は、静かに最後の一言を添える。
「彼女は自分の影響力を理解して使う経営者です。正面から話し合えば、きっと道は開けます」
会議が終わる頃、県側はようやく悟った。
国がこの案件を「地方創生」としてだけでなく、「国家インフラ強化」として動かしていることを。
そして、自分たちが相対しようとしている相手が、想像以上のスケールを持つ存在だということを。
会議室を出るとき、地味なスーツの男は一歩下がって列を外れ、外の空気を吸い込んだ。
夜の鬼怒川温泉街は、川面に灯りが揺れ、どこかの旅館から笑い声が漏れてくる。
(……あの人は、地元の人間も国も、全部巻き込んで笑わせるつもりなんだろうな)
彼はそのまま、街の雑踏に溶けていった。