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第72話 温泉旅行ですがなにか?

 鬼怒川温泉駅に降り立った瞬間、冷たい空気の中にふわりと温泉の匂いが混じった。


「うわー……! 空気が甘い!」


 みやびが両腕を広げて深呼吸する。

 その隣でノアはすでにお土産屋に向かい、湯気を立てる温泉まんじゅうを頬張っていた。


「……まだチェックインしてないのに食べ歩きスタート?」


 結衣は笑いながらも、視線は山肌や川沿いの建物に向けられていた。古い旅館の並び、ところどころに空き家。川沿いの柵の下には、白く湯気を上げる排湯が流れ込んでいる。


 宿は駅から車で数分の高台にあった。女将自ら玄関で迎えてくれ、案内されたのは温泉街で最高ランクの露天風呂付き特別室。

 木の引き戸を開けた瞬間、みやびとノアが同時に声を上げる。


「うわ……広っ! 畳もふかふか!」

「ベッドもあるー! なんか旅館とホテルが合体してる感じ!」


 部屋の奥には障子を隔てて広いテラスがあり、その先に天然石をふんだんに使った露天風呂があった。 

 湯面から立ち上る湯けむりが、冬の冷気と混じってふわふわと舞う。


「これ……一泊じゃもったいないね」


 みやびが浴衣に袖を通しながら、帯の結び方に悪戦苦闘している。


「んー……これで合ってる?」


「みやび、それリボンになってるよ」


 ノアが笑いながら直してあげるが、ノアの方は帯がずれて肩口が少しはだけてしまっている。

 結衣は鏡の前で帯を整えた。淡い藤色に白い椿模様の浴衣が、彼女の柔らかな輪郭を引き立てている。


「結衣さん、それ絶対男子黙るやつだよ……」


 みやびの茶化しに、結衣は小さく肩をすくめただけだった。


 夕食前、3人で温泉街を歩いた。川沿いの遊歩道はライトアップされ、雪の薄化粧と湯けむりが幻想的な景色を作っている。


「うわー、インスタ映えスポットだらけ」


 みやびがスマホを構える横で、結衣は川面に映る排湯の流れを目で追っていた。


 (あの温度なら、熱交換すればかなりの発電量になる……でも観光景観は絶対壊せないよね)


 宿に戻ると、女将が「夜は雪見風呂が最高ですよ」と微笑む。

 みやびとノアは露天風呂に行く順番をめぐって小競り合いを始めた。


「じゃあ一緒に入れば?」


 結衣が言うと、二人は顔を見合わせて笑う。


「結衣さんも来る?」


「……後でね」


テラスの向こうで、湯けむりが夜空に溶けていく。結衣は星を見上げながら、小さく呟いた。


「この景色は……守らないといけないかな」


***


 雪がちらちらと降りはじめたころ、みやびとノアが湯殿から露天へと出てきた。

 肩まで浸かれば、外気の冷たさと湯の温もりが一気に肌を包み込む。


「っはぁ……生き返る……」


 みやびが湯面から肩を出し、白い息を吐く。その肩先に水滴がつたって湯に落ち、ぱしゃりと小さな波が広がる。


 少し遅れて、結衣も湯に入った。

 湯気の向こうから現れた彼女の白い肌に、二人は一瞬だけ言葉を失う。


「……なに、そのモデル体型……」


「結衣さん、意外と……すごい」


 冗談交じりの声に、結衣は困ったように笑って肩まで沈んだ。


「ねえ結衣さん、本当の目的って温泉だけ?」


 みやびが湯縁に肘をつきながら問いかける。


「ふふ……温泉は表向き。でも、せっかく来たんだから街の“温度”も見ておきたいなって」


「温度?」


「お湯だけじゃなくて、人や経済の温度も、ね」


 ノアが首をかしげる。


「じゃあやっぱり……ここにあやかちゃんのおうち作るつもりなんだ」


 結衣は視線を雪の降る夜空に向けたまま、小さく息を吐く。


「もしやるなら、景色も静けさも壊さない形にする。温泉街にちゃんと還元する方法で」


 沈黙。

 湯けむりの中、雪の結晶がふわりと結衣の肩に落ち、すぐに溶けた。

 みやびはそれを見つめながら、少し頬を赤くする。


「……なんかずるいなぁ、そういう言い方」


「ずるい?」


「だって、応援したくなるじゃん」


 ノアは笑いながら湯の中で足をばたつかせる。


「じゃあもう、私たちも協力するしかないね。……観光大使とか?」


「悪くないかも」


 結衣は軽く頷いた。湯けむり越しに見える二人の笑顔が、この街の未来の温度を少しだけ上げたような気がした。


***


 夕食を終え、3人は外套を羽織って夜の温泉街へと繰り出した。

 川沿いには提灯の明かりが揺れ、湯けむりがところどころから立ち上る。

 雪はやんだが、吐く息は白く染まるほどの冷え込みだ。


「うわー、夜景きれい……」


 みやびがスマホを構えて川を撮影する。

 その視界の端で、結衣はふと足を止めた。


 川沿いの坂道を下った先に、古びた建物がぽつんと残っていた。


「……あれ、元大浴場かな」


 ノアが首をかしげる。入口は板で塞がれ、看板も色あせて読めない。

 だが結衣は、錆びた非常階段の奥にある小さな鉄扉に目を留めた。


「ちょっと寄っていい?」


 みやびとノアが後をついていく。

 扉の先には地下へと続くコンクリートの階段があった。

 ひんやりとした空気が足元から漂ってくる。


 結衣の頭の中で、川沿いの地形、湯けむりの出方、排湯口の位置まで瞬時にマッピングする。


「ねえ……これ、地下に結構なスペースあるんじゃない?」


「え、何? またなんか企んでる?」


 ノアが半笑いで覗き込む。


 結衣は口元に指を当てた。


「もしここを改装したら……目立たない地下型データセンターになる」


「地下型データセンター!?」


 みやびの声が夜道に響いた。慌てて手で口を押える。


「でも地下って湿気とか大丈夫なの?」


「初期投資はかかる。でも地下温度は安定してるし、冷却コストは大幅に減らせる。景観も壊さない。観光客は存在を気にしない」


 結衣は淡々と説明を続けながら、すでにROI(投資回収年数)を頭の中で弾いていた。


「……やっぱり結衣さん、考えることがスケール違う」


 みやびは呆れたように笑い、ノアは目を輝かせる。


「秘密基地じゃん! 絶対楽しいよ!」


「秘密基地、ね……。でも本当にやるなら、防水・除湿・換気の三重対策は必須だな」


 結衣の視線は、坂の上から温泉街を見下ろしていた。

 湯けむりがゆらゆらと街灯に照らされ、その下に眠る未来の設備を、彼女だけがはっきりと想像していた。

(この湯けむりの一部で、世界最先端のAIを動かす……悪くない)


***


 翌朝、宿のロビーでコーヒーを飲んでいると、みやびとノアが売店で土産選びをしていた。

 結衣は窓越しに湯けむり立つ街並みを眺めていたが、背後から声をかけられる。


「旅行ですか?」


 振り向くと、中年男性がにこやかに立っていた。落ち着いた物腰と上質なスーツ――ただ者ではない雰囲気がある。


「はい、友人と小旅行で」


 結衣が穏やかに答えると、男性は「そうですか」と笑みを浮かべ、名刺を差し出した。

 鬼怒川温泉観光協会 理事。地元旅館組合や町おこしにも深く関わっているらしい。


「若い方が温泉に来てくれるのは嬉しいですよ。最近はどうも年配客ばかりでして」


「そうなんですか?」


軽い世間話のつもりで始まった会話に、みやびとノアも合流する。土産袋を下げたまま椅子に腰を下ろした。


「昔は団体旅行で賑わっていたんですがね。今は空き旅館も多い」


理事は苦笑交じりに現状を語る。

結衣は静かに相槌を打ちながら、タイミングを見計らった。


「もし――あくまでも“もし”ですが――温泉街の景観を壊さず、余剰の温泉熱を活かす地下施設があったら、どう思われますか?」


「地下施設?」


「例えば、AIを動かすデータセンターのような設備です。外からは見えず、騒音も出ない。観光客は存在すら気づかないでしょう」


 理事は「へぇ」と軽く頷いたが、結衣が続けた説明に表情が変わっていく。


「冷却は地下温度と温泉排湯を利用します。廃熱は足湯や温泉プール、冬場の道路融雪にも回す。地元の雇用も生まれる。初期投資は――」


結衣がさらりと口にした数字は、地方創生事業としても破格の規模だった。


「……その規模を、本気で?」


理事の声が一瞬低くなる。


「ええ。ただ、資源も景観も、この街の財産ですから。やるなら地元と一緒に」


 沈黙が落ちた。

 最初は若い観光客に軽く話しかけたつもりだった理事は、今や目の前の人物が自分よりはるかに大きな資金と構想を持っていると悟っていた。

 みやびとノアはその変化を敏感に感じ取り、少し得意げに笑う。


「秘密基地みたいで面白いでしょ?」


 ノアの茶化しに、理事は苦笑したが、その視線はもう“客人”ではなく、“将来の事業パートナー”を見ていた。

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