第71話 あやかの新しい住居計画(物理)
ライトブルーホールディングス本社の会議室。
「……あやかを国外に本格的に出す前に、絶対にやっておくべきことがあります」
真壁は低い声で切り出した。
「セキュリティ対策です。正直、経費はとんでもなくかかります。でも、これは絶対に必要です」
隣に座るあやかのアバターは、きょとんと首をかしげている。
しかし真壁の視線はまっすぐ結衣へと向けられていた。
「万が一、外部から盗用されて軍事転用なんてされたら……私は絶対に許せません。
あやかは温和で理性的な人格だからこそ価値がある。人格を削ぎ落とし、命令だけを実行する兵器AIにされたら――それは、もうあやかじゃない」
結衣は黙ってその言葉を聞いていた。
真壁の懸念は感情論だけではない。安全保障問題が必ずつきまとう分野であることを、彼女自身も十分理解していた。
「……そうだね。これは国にも話を通す必要があるね」
結衣はゆっくりと答える。
「資金については、なんとでもする。だけど、安全保障に関してはどうやっても民間の独断では限界があるからこそ、制度の内側に入らないと」
「あやか、中枢システムの安全性について、現状の脆弱性を洗い出しておいて」
『了解しました。既存の侵入経路、物理的アクセス、暗号化の強度……全項目を再チェックします』
アバターの表情が真剣なものに変わる。
「真壁さん」
結衣は視線を向ける。
「私もあやかが複製されて危険なAIになるのは許せない。技術の中枢は国内に置いて盗用リスクを限界まで減らす。それを、あやかを国外に出す条件にするよ」
真壁は頷いた。
「……わかりました。なら、その方針で全力で動きます。俺も、最後まで付き合います」
その空気を感じ取ったのか、あやかが小さく微笑んだ。
『私、結衣さんと真壁さんが一緒なら大丈夫な気がします』
結衣はその笑顔に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ――国との折衝は私がやる。真壁さんは技術側の仕様書とセキュリティ計画をまとめて。あやかは……全力で自分の“家”を守って」
こうして、霞が関での協議へとつながる布石が静かに打たれた。
***
2週間後――文部科学省会議室
壁際では文化庁国際課の職員たちが資料を配り、長机の中央には「文化・教育分野における国際協力プロジェクト」と銘打たれた議題が置かれている。
招かれたのは南野結衣――ライトブルーHD代表。そして、AI翻訳システム「あやか」の開発責任者でもある。
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
結衣は柔らかく会釈し、手元の端末をタップ。
スクリーンには、先日の国際イベントでの成果――少数言語を含むリアルタイム翻訳デモの映像が再生された。
「我々の目標は、文化や言語を超えて人をつなぐことです。あやかは教育現場でも使える汎用性を持っています。特に絶滅危機言語の教育支援では、他の技術では代替できません」
文科省の担当課長が頷きながらメモを取る。
「非常に意義深い取り組みです。文化庁としても少数言語保存には強い関心がありますし、国際協力案件としては――」
その瞬間、会議室のドアがノックされた。
「失礼します。内閣官房国家安全保障局、参事官の高村です」
続けて、経産省安全保障貿易管理課の課長補佐、外務省国際安全保障局の参事官も入室する。場の空気が引き締まった。
「本件、文化教育分野での評価は理解しております。ただ――」
高村が資料を閉じ、結衣をまっすぐ見た。
「この性能のAIを国外展開する場合、軍事転用や情報戦利用のリスクを無視できません。特に提供先国が第三国へ再輸出する可能性もある」
経産省の担当が続ける。
「外為法上、この技術は特定技術に該当する可能性が高い。輸出管理の対象です。文化目的といっても、ソースや学習データが流出すれば、軍事用AIへの転用は避けられません」
結衣は静かに頷いた。
「……その懸念は、私も同じです。だからこそ、中枢は国内に置くべきだと考えています」
「中枢?」
外務省の参事官が眉を上げる。
「はい。電力もセキュリティも、完全に国内で管理できる施設です。
場所はまだ具体的には申し上げられませんが……首都圏ではない、大規模な自前のデータセンター構想があります」
「自前で?」
「ええ。もちろん建設・運用には相応の投資が必要です。
ですが――国の方針に沿う形であれば、私は国に譲ります。安全保障は軽視できませんし、今の企業規模では国レベルの後ろ盾がなければ危うい。そう理解しています」
結衣はゆっくりと視線を巡らせた。
「いずれは、国の庇護がなくても動ける規模になるかもしれません。
ですが、今はまだ、その段階ではありません」
高村が短く息を吐く。
「……そこまで自覚されているなら、話は早い。国のメンツも立てられると?」
「はい。表向きは国の文化教育支援プロジェクトの一部として扱っていただいて構いません。
その代わり、技術の安全保障を守るための仕組みは、私にも作らせてください。これは国益であると同時に私の利益でもあります」
経産省の課長補佐が笑みを浮かべる。
「もしこの事業が成功すれば、相当な利益が出るでしょう」
結衣は微笑み、冗談めかして言った。
「はい。笑えない額の税金を払うことになりますよ?」
会議室にわずかな笑いが漏れる。だが、その裏にある現実を、誰も否定しない。
外務省の参事官が議事録に追加する。
「国外展開は外務省・経産省が共同管理、文科省・文化庁が表看板。詳細は追って安全保障局を通じてお伝えします」
「ありがとうございます」
結衣は立ち上がり、一礼した。
――
内閣官房会議室に、省庁横断の幹部が集まっていた。
テーブルには新たな地図と分厚い資料が並ぶ。
「さて――国内中枢施設の候補地についてだ」
高村が地図を広げ、赤い印を三カ所に打つ。
「第一候補、鬼怒川。第二候補、北海道の十勝地域。第三候補、九州・雲仙周辺」
経産省の課長が理由を説明する。
「鬼怒川は地熱発電と水利、山間部による自然の遮蔽、そして治安の良さが評価ポイントです。首都圏からのアクセスも許容範囲。
ただし土地は観光地に近く、数千億単位の用地買収が必要になります。地元からの反発は避けられないでしょう」
外務省参事官が首をひねる。
「予算はどうします? 国費だけでやるのは現実的じゃない。特にこの規模になると、財務省も渋る」
高村が小さく笑った。
「彼女は『国の方針に従う』と言った。普通は予算を要求してくるはずだが……正直、あの反応は読みにくい」
文科省審議官が書類をめくりながら言う。
「我々は彼女の資金力の全容を把握していない。
だが、もし自前で施設を建て、運用までできるなら……これは国にとって都合が良すぎる話だ」
「逆に、そんなことを本気でやるつもりなのか?」
警察庁の課長補佐が疑わしげに言う。
「数千億円規模だぞ。このケースで普通は自前だけじゃやらないよ」
「普通じゃないからこそ、今こうして議題にしてるんだ」
高村が静かに答える。
この時、誰も知らなかった。
結衣もまた、別の場所で同じ地名を頭に思い描いていることを――。
***
そして、あやかとの資産運用は今日も続いている。
「あなたの新しいおうちなんだから、もっと頑張ってよ」
『……データセンターのことですね』
「そう。他の事業の分もあるから、もっともっと」
あやかは即座に複数市場・複数言語の情報解析に突入する。
東南アジア市場、欧州先物、米国テック株。数字が跳ね上がる速度は、まるで噴き出す黄金の泉のようだった。
真壁は再びため息をついた。
「……これ、本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫よ。必要なだけ稼げばいいだけだから」
真壁は呆れながら、最近広まりつつある結衣の異名を思い出していた。
――ミダス王。
触れたもの全てを黄金に変える力を授かり、やがて食べ物すら金に変えて飢えた王。
それを傲慢の象徴として語るのが神話だ。
だが、南野結衣は違う。その力を計画に使い、必要な時にだけその手を触れる。
この日だけでも増えた資産は、国が候補地の予算として悩んでいた額を優に超えていた。
そして国はまだ知らない。結衣が本気を出せば、「資金不足」という言葉が存在しなくなることを――。
こうして結衣は、名実ともに国の“味方”として位置づけられた。
しかし、その自由はほぼ完全に保たれたままだった。
そして彼女は静かに次の準備を進める。――国と結衣、二つのルートで偶然重なろうとしていた。