第69話 モデルケースの2人
数週間前の初訪問から、結衣は現地企業と水面下で複数回の打ち合わせを重ねていた。
現地行政との橋渡し役も交え、互いの条件を探るやりとりは、すでに静かな駆け引きの連続だった。
――そして、この日。
シンガポール中心部のマリーナを見下ろす超高層ホテル、その最上階にあるスイートルーム。
広々とした交渉用テーブルを挟み、結衣と現地企業のCEO、そして数名の幹部が向かい合っていた。
「これまでの議論を踏まえて――」
現地CEOの低い声が静かに響く。
「我々のブランド名は残したい。経営権の過半は譲渡しても構わないが、地場の人間が意思決定に参加できる形を確保したい」
結衣は頷き、用意していた資料をスライドさせる。
背後の大型スクリーンには、ライトブルーHD傘下入り後の成長予測が鮮やかなグラフで示されていた。
「もちろんです。ブランドの独自性と現地色は残す。それがこちらの戦略にも合致します。
ただし、物流とAIインフラ、それに資金調達は完全に我々のネットワークを使わせてほしい」
その瞬間、イヤモニからあやかの声が微かに届く。
『今、競合のB社が中東資本と接触しました。ニュース配信まで残り3分。こちらから発表を前倒しする案もありますが?』
結衣は表情を変えずに水をひと口含み、CEOをまっすぐ見た。
「……ひとつ、急ぎでお伝えしておきます」
指先でタブレットを操作すると、競合B社と中東資本の提携速報がスクリーンに映し出された。
「市場はもう動き始めています。時間をかければ、それだけシェアを奪われる可能性が高まります」
幹部たちの間にざわめきが走る。
沈黙のあと、若い幹部のひとりが息を吐き、CEOに囁いた。
「……会長、この条件で行きましょう。逃せば後悔します」
CEOは深く頷き、結衣に右手を差し出す。
「ミス・ミナミノ、これで基本合意としましょう」
結衣はその手をしっかり握り返す。
「ありがとうございます。こちらも全力で応えます」
外の海風が窓ガラスを震わせる。
交渉は終わった。だが――本当の戦いは、ここから始まる。
***
翌日。
現地の行政ビル内に設けられた特設会議室。
今日は、モデルケースとしての実演が予定されていた。
結衣の隣には、みやびとノアが並んで座っている。二人とも、ほんの少し緊張した顔をしていた。
「……あの、結衣さん。本当に私たちで大丈夫なんですか?」
みやびが小声で聞く。
「大丈夫よ。むしろ、君たちが適任」
結衣は穏やかに微笑み、手元のタブレットを軽く傾けた。
「現地スタッフにとっては、“普段違う言語を使う人がビジネス現場でどうか”を見るのが一番わかりやすいの。
それに、あやかのサポートを二人とも熟知してるでしょ?」
「まぁ……確かに」
ノアが肩を竦める。
「ただ、英語オンリーでやれってのは、ちょっと緊張しますけど」
「ノアちゃんは会話は得意でしょ。読み書きは私がカバーするから」
みやびが笑って返す。
「でも、あやかちゃん、今日は本当に全開でいきますよ?」
『もちろん。今日は同時翻訳モードとデータ連携、両方使えるようにセットしてあります』
イヤモニ越しのあやかの声が、頼もしく響く。
実演は、まずみやびが現地の中小企業代表と資料交換を行う場面から始まった。
彼女は滑らかな発音で挨拶を交わし、タブレット上で日本語から英語への翻訳文を確認しながらプレゼン資料を渡す。
翻訳補助はあやかがリアルタイムで行い、文章中の専門用語は事前に登録した業界辞書から自動補完されていた。
「This section outlines the market growth in Japan over the last five years…(このセクションでは、過去5年間の日本市場の成長について説明します…)」
みやびの声は落ち着いており、聞く側も安心できるテンポだ。
資料を受け取った現地の代表は、うなずきながらメモを取っている。
一方のノアは、デモ用の商談テーブルで現地の若手起業家と英語でやり取りしていた。
「So, if you want to reach Japanese customers quickly, you should— oh, wait, let me show you this clip(つまり、日本の顧客に素早くリーチしたいなら――あ、ちょっとこれを見せますね)」
即座に配信アーカイブから該当シーンを呼び出し、現地スタッフのスマホに送る。
あやかがその場で動画に英語字幕を自動生成し、わずか十秒で再生可能にした。
「Whoa, that’s fast…(うわ、早い…)」
起業家が感嘆の声を上げる。
「Your system did this?(これ、あなたたちのシステムがやったんですか?)」
「Yup, our ‘Ayaka’ can handle live captions too(そう、うちの“あやか”ならライブ字幕も対応できます)」
ノアは得意げに笑い、すぐ次の話題へ切り替えた。
途中、現地の行政担当者が質問を投げかけてきた。
「If there is a disaster and communication becomes unstable, how long can you continue translation and streaming?(もし災害時に通信が不安定になった場合、どの程度まで翻訳・配信が継続可能ですか?)」
『With backup lines and cache functions, we can locally store and send later for up to three hours(バックアップ回線とキャッシュ機能で、最大三時間はローカル保存・後送信が可能です)』
あやかが即答し、その英語訳がスピーカーフォンから流れる。
みやびが補足する。
「つまり、ライブ感を保ちつつ、安全に情報を共有できるってことです。
現場では“途切れない配信”が信頼につながりますから」
「That’s exactly what we need for our cross-border programs(まさに我々の国際プロジェクトに必要なものです)」
担当者が感心したように頷いた。
実演の最後は、三人による即興の合同セッションだった。
結衣が英語で現地の市場分析を説明し、その場でみやびが書面にまとめ、ノアが口頭で補足しながら現地スタッフに伝える。
あやかは全員の音声と資料を統合し、参加者全員の端末に整理済みのデータを配信した。
「……This is honestly impressive(これは正直、感動します)」
若いスタッフが笑顔で言った。
「The conversation doesn’t slow down, and the documents are precise. And all within minutes(会話のテンポも落ちないし、資料の精度も高い。しかも全部、数分のうちに)」
「普段は配信で使ってるだけなんですけどね」
みやびが肩をすくめる。
「でも、こうやって実務に使えるのを見ると、あやかちゃんの底力を感じます」
「See? It’s not just for streaming anymore(ほらね? もう配信だけのためじゃないんですよ)」
ノアがウインクする。
「これからは配信だけじゃなくて、もっと広い現場で使われるはず」
結衣は二人を見やり、小さく頷いた。
「……ありがとう。君たちが“使いこなせる姿”を見せてくれたおかげで、この案件はきっと加速する」
窓の外、マリーナの海面が再び金色に輝き始めていた。
新しい波が、もうそこまで来ている――。