第68話 女帝、シンガポール市場を買いに行く
ライトブルーHD本社・大会議室。
長机の上に投影されたモニターには、東南アジアの経済指標と市場規模を示すデータが立体的に浮かび上がっていた。
「――海外進出の第一拠点は、シンガポールに決定します」
結衣の一言で、室内が静まる。
国別の人口動態、言語構成、産業構造がスライドごとに切り替わり、要点が淡々と並んでいく。
「まず単純に日本から近い。東南アジア有数の多言語圏であり、国際金融ハブとしての機能を持つ。そして最大の理由は、あやかの多言語リアルタイム対応が現地行政・企業交渉に即効性をもたらすことです」
横に立つあやかのホログラムが、落ち着いた声で補足した。
「英語、中国語、マレー語、タミル語――いずれも即時翻訳可能です。発話意図や文化的ニュアンスも解析・補足しますので、外交的摩擦や誤解は極限まで抑えられます」
モデルケースに抜擢された二人はオブザーバーとして最前列の席で、みやびとノアはうなずきながらメモを取っていた。
――この時点までは、まだ「配信事業の海外展開」だと考えていた。
だが、次のスライドでその認識は粉々に砕かれる。
「新規法人設立は――行わない方向で考えています」
みやびの手が止まり、ノアが顔を上げる。
「理由は単純です。設立までに手間がかかるし、地域に根を張るまでの時間がもったいない。最初から地場ネットワークを持つ企業グループごと買収します」
モニターに現れたのは、現地有力企業の候補リストだった。
港湾物流、教育、不動産管理、地域通信インフラ――いずれも経済の血流を握る中核業種ばかりだ。
「外資参入への感情的・政治的反発を避けるため、公益事業とセットにして提案します。現地行政とも既に概要については話を通してあり、候補企業の名前も共有済みです」
あやかが続ける。
「無償ではなく、現地企業・行政の利益になる形で共同事業化します。双方が納得できる条件設定を行うことで、長期的な安定と信頼を確保します」
スライドが切り替わり、買収資金総額・初年度設備投資額・雇用増加数が表示される。
桁の多さに、みやびとノアは一瞬固まった。
「……これ、あやかちゃんのランニングコストが年100億って聞いて、もうお腹いっぱいになってたんですけど」
みやびが引きつった声を漏らす。
「聞いてないんですけど……?」
ノアは呆然と口を開けたまま。
結衣は微笑んで、タブレットを軽く弾く。
「海外拠点を作ると言ったじゃないですか。それに失敗しない算段はしていますよ。
だから――あなたたちは思い切りやってください。それが、私が一番期待していることです」
「あの、教育関連でうまく広がったら……出来高払い分だけで50億どころじゃすまない可能性もありますけど?」
あやかが淡々と付け加える。
「ひぃ……」
二人の悲鳴が重なった。
だが、結衣の視線はすでに別のデータへと移っている。
その画面では、あやかが日本市場、香港市場、韓国市場を並列処理しながら投資戦略をリアルタイム更新していた。会議中でも、そして結衣が寝ている間でさえ、彼らの資金は24時間世界中を舞台に増え続けている。
――外から見えるのは、異常なまでに膨らみ続けるライトブルーHDの軍資金だけだ。
***
海外投資家の視点から見たライトブルーHDは、奇妙で、そして不可解な企業だった。
表向きの中核事業はIT・広告関連。だが財務諸表を読み込む者ならすぐに気づく――営業外利益、つまり投資事業の利益が、グループ全体の純利益を悠々と上回っているという異常さに。
「本業が何であろうと、あの会長が投資事業の指揮をとる限り、この企業は傾かない」
「ミダスの手を持つオーナー経営者が、稼ぎ出した資金を惜しみなくグループ内で再投資し、構成企業を膨張させ続けている……」
アジア系投資銀行のアナリストは、ライトブルーHDの株価推移を示すグラフを指しながら、感嘆とも警戒ともつかない声を漏らした。
そして、さらに異例なのは――その会長が、世界的に人気のVTuberでもあるという事実だ。
しかも、それは本人の趣味や副業ではなく、元は同社IT部門の悪ノリが発端。
だが今や、配信活動は企業のブランド力を押し上げ、海外でも知名度を高める大きな要因になっていた。
「……会長は、投資家であり、経営者であり、そして配信者でもある。あの人はどの顔で海外に出てくるつもりなんだ?」
「いや――全部の顔を使うつもりだろう。だから怖い」
欧州のファンドマネージャーは、シンガポール進出の報道資料を手にしながら苦笑した。
単なる海外進出ではない――VTuberとしての影響力を背負い、現地市場と世論の両方に同時に食い込んでくる戦略だと直感したからだ。
政治や行政もまた、ようやくその存在をウォッチ対象に加えつつあった。
そして海外市場の関係者は、今まさに「この企業は本格的に国境を越えてくる」と悟りはじめていた。
――結衣本人はVTuberとしての活動をやめる気配など微塵も見せない。
リスナーと交わす何気ないやりとりも、経営の意思決定も、同じ場所にある。
世界がその資金力と戦略性に驚愕しても、彼女にとっては経営者と配信者、その両方の顔が、すでにかけがえのない日常になっていた。
***
同じころ、シンガポール経済開発庁(EDB)の会議室では、厚手の資料と候補企業のリストが机いっぱいに並んでいた。壁際のスクリーンには、ライトブルーHDの企業概要と投資実績のスライドが映し出されている。
「現地雇用を確保しつつ、公益事業と結びつける……外資の入り方としては極めて“きれい”だ」
「資金規模も桁外れだ。普通、ここまで条件を揃えて乗り込んでくる企業はない」
年配の官僚が一つため息をつき、懸念を口にする。
「ただ、会長がVTuber……というのは、政治的な説明が難しい」
「数字も事業構想も本物です。あとは“納得感”をどう作るかですね」
若手の担当官がタブレットを操作しながら言葉を続ける。
「……現地の若手起業家や学生の間では、すでに噂になっています。『あのVTuber会長が、自分たちを調べているらしい』って」
会議室がざわつく。
「SNSでは『次のユニコーンを作る気か?』という話題も。過去の動きを見ても、足りない部分を見つけたら丸ごと補強するスタイルですから」
「つまり、受け入れ側にもうまみがあると?」
「ええ。だからこそ、こちらとしても早めに方向性を固めた方が良いかと」
***
噂が出回って数日後、現地経営者たちの会合では、ライトブルーHDの話題が一気に席巻していた。
「聞いたか? 候補リストの中に、うちと長年取引している会社が入っているらしい」
「外資の入り方としては悪くないが……あそこは資金が湧く。競合が呑み込まれたら、地合が一変するぞ」
老舗企業の社長は、グラスを指先で回しながら眉をひそめる。一方で、若い後継者は椅子の背に軽く身を預け、目を輝かせていた。
「逆に言えば、弱点を埋めてもらえるチャンスですよ。あの資金とネットワークがあれば、東南アジア全域に一気に展開できる」
会合が終わると、廊下やロビーでは複数の経営者が密やかに名刺を交換し、短い言葉を交わしていく。
「もし彼らと組むなら、今のうちに動くべきだな」
「ただ、条件次第だ。コントロールを失えば、我々の色は消える」
警戒と期待がせめぎ合い、現地経済の水面下で、静かな駆け引きが確かに始まっていた。
――その熱気は、街角の若者たちの間にも波及している。
あるカフェでは、起業準備中の学生グループがノートPCを囲み、SNSのタイムラインを食い入るように追っていた。
「マジで来るのか? あの“女帝”が」
「ニュースじゃ『シンガポール進出』ってだけだけど、SNSでインキュベーション施設で目撃って話が出てたよ。日本人スタッフと一緒に、若手プロジェクトの資料を見てたって」
「ってことは、資金調達のチャンスが――」
彼らにとって結衣の名前は、すでに都市伝説じみた響きを帯びていた。
弱点を見つければ即座に補強し、欠けた市場は丸ごと押さえ、必要なら人材や設備まで一瞬で整える
――そんな逸話が、憧れと恐れを同時に呼び起こしていたのだ。
その噂が、まもなく事実になる。
市内のコワーキングスペース、そのガラス張りの会議室で、結衣はイヤモニ越しにAIのあやかと直結し、現地スタートアップ数社と面談していた。
「この部分のロジスティクスを外注しているんですね。資本参加すれば、弊社の物流網が使えます。コストは三割削減できます」
落ち着いた声で提示される条件。その裏で、必要な数字や過去事例はあやかが即座に耳元で囁き、結衣の言葉を補強していく。
会議室の外では、学生や若手起業家が足を止め、中の様子を覗き込んでいた。彼らの視線は、ただの交渉を見ているというより、未来が書き換わる瞬間を目撃しているかのようだった。
彼らはまだ知らない。この日結衣が下した投資判断が、シンガポールのスタートアップ地図を大きく塗り替えることを――。
そして世界が彼女を“ミダスの手を持つVTuber会長”と呼ぼうとも、結衣の中では経営者と配信者、その両方の顔が、すでに不可分になっていた。