第61話 守られる心
「お母さま、みやびちゃん、ノアちゃん。――ここからは“仕事”として動きます」
結衣は短くそう告げると、立ち上がりスマートフォンを手に取った。
すぐにノアの事務所のマネージャーへ電話を入れる。
「今後の対応についてご提案があります。法務・ネット対策部門を業務提携の形で御社に全面的に提供します。
こちらで専門弁護士・IT調査会社をすぐに動かしますので、依頼業務として手続きしてください」
受話器の向こうで、事務所スタッフが言葉を失う気配があった。
「……よろしいんですか?」
「必要な手数料、すべてこちらに請求してください。人材もシステムも、今すぐ投入します。
“正しい手順”も承知していますが――この場面では“最短の結果”が最優先です」
淡々と、迷いなく。
事務所の誰もが、その冷静な迫力に息を呑んだ。
すぐさま行政にも手を回す。
「先日からの誹謗中傷・虚偽拡散への迅速な対処を要望します。
過去の炎上事例を参考に、各プラットフォームへの通報と法的措置について、既に準備中です」
所管する省庁、警察関係にも事務的に連絡を入れる。
“ライトブルーHD”名義の案件が行政側に届けば、対応は否応なく加速する。
SNSの空気が、一夜にして変わる。
”公式から、これまでにないくらい強い警告が出たぞ””
”炎上まとめ、消され始めてる……?”
ネットのトレンドは徐々に、“叩き”から“冷静な議論”へと姿を変えはじめた。
――結衣の仕事は、いつもこうだ。
感情も倫理も、時に脇へ置いて、「現実を、動かす」ためだけに。
ノアとみやびは、静かにその背中を見つめていた。
***
部屋の窓から見える静かな街並みとは裏腹に、ネットの世界はわずか数時間で激変していた。
ネット上では、突然吹き荒れる変化に誰もが混乱していた。
”なあ、なんで急にノア叩きが消えた?”
”まとめサイトが一斉に消されてるぞ”
”運営が動いた?それにしても早すぎだろ”
”何か裏でデカい力が働いてるんじゃ……?”
SNSのトレンドも、“ノア炎上”から“ネットリンチ問題”へと強引に話題がシフトする。
正義感から声を上げていた者たちも、空気の変化を感じてか、一斉に口をつぐみはじめた。
いつもは強気な炎上屋たちも、この流れの速さと強引さに、どこか怯えたような様子を見せる。
事務所のスタッフも、手に汗を握りながら会議室のモニターを見つめる。
「行政から“ネット上の虚偽情報について至急対応せよ”との通達が来たぞ」
「省庁の人間が、わざわざこちらに直接状況確認をしに来るって……」
普段は動かないはずの大人たちが、信じられないスピードで動いている。
結衣は静かに、何度かスマホを操作し、淡々と短い指示を送るだけだった。
中心にいない人々には、何が起きているのか全く分からない。
けれど、なぜか一斉に「叩き」の流れが止まり、気が付けば“ノア叩き”は危険な空気へと逆転していた。
みやびは黙って首を振る。
「……結衣さんの動きはどこにも“見えない”。全部、影だけ。
ネットにも、表にも、彼女の名前はひとつも出てこない」
事務所のスタッフたちはゾクリと背筋を震わせる。
「これが、……“現実をねじ伏せる力”なのか」
これは正義とは言えないかもしれない。
でも、誰も反論できなかった。
ただ、ノアのためだけに世界が変わった――
その事実だけが、静かに、彼らの胸に刻まれた。
***
人気炎上屋Youtuberの“リッキー”は、
突然届いた法務部名義のメールを前に、手を震わせていた。
「……やべえ、マジで消せってきた。法務部直だぞ……」
警告文は短く、しかし疑いようもなくこう書かれていた。
《貴殿の投稿・動画は名誉毀損及び業務妨害の疑いがあります。直ちに当該コンテンツの削除を要請します。
今後同様の投稿が認められた場合は、法的措置も検討いたします。》
(今までだってギリギリで攻めてきたけど、こんなに速攻で……)
リッキーはしばらく呆然と画面を見つめ、結局すべてのノア関連動画を非公開にした。
匿名投稿者“ジロー”は、まとめサイトの管理画面で慌てて削除作業をしていた。
「……法務部?弁護士事務所? なんでこんなに一気に来るんだよ!」
通報や削除要請のメールが一晩で何十通も届き、SNSのDMにも同様の内容が並ぶ。
(これ……ひょっとして、裏に本当に“ヤバい奴”が動いてるんじゃ……)
投稿削除を繰り返しながら、指先の震えが止まらなかった。
一方で、少し冷静な観測者たちはつぶやく。
〈何も見えないのが逆に怖い〉
〈誰も“黒幕”の名前を知らないまま、ネットの空気ごと全部塗り替えられてる〉
見えない影――
だが確かに、世界の空気は根こそぎ塗り替えられていった。
***
カーテンの隙間から射し込む朝日が、ノアの頬をやわらかく照らしていた。
ベッドの中で小さく丸まったまま、ノアは天井をぼんやりと見つめている。
昨夜まで、あれほど鳴りやまなかった通知音が、今朝はあまり聞こえない。
「……?」
不思議な静けさだった。
恐る恐るスマホを開くと、SNSや配信アカウントのタイムラインが一変していた。
ノアへの中傷も、辛辣なコメントも、ほとんど消えている。
“叩き”で溢れていたタグは、見慣れない「#ノアにありがとう」「#ノア守り隊」へと置き換わっていた。
(……どういうこと?)
状況が飲み込めず、ノアはしばらく画面を凝視する。
そんな娘を、そっと見守る母親の優しい視線があった。
「大丈夫……?」
ノアは小さくうなずくだけだったが、
不安と、ほんの少しの安心が入り混じった複雑な気持ちだった。
午前十時ごろ、玄関でインターホンが鳴った。
ノアがリビングに顔を出すと、そこにはみやびが立っていた。
「ノアちゃん、おはよう。……体、少しは休めた?」
「うん……。なんか、いろいろ、ごめんね」
みやびはそっとノアの肩に手を置く。
「ううん。みんな心配してた。……でも、もう大丈夫だよ。空気、変わってきてるから」
「……空気?」
ノアはまだ、信じられないという顔をした。
みやびは柔らかく微笑んだ。
「世の中の流れが、全部ノアちゃんの味方になってる。
まだ全部終わったわけじゃないけど、私も結衣さんも、ずっとそばにいるよ」
結衣が静かに部屋に入ってくる。
「おはよう、ノアちゃん」
ノアは一瞬、緊張しながらも、小さな声で言った。
「……ありがとう、来てくれて」
結衣はノアの隣にそっと腰を下ろした。
「あなたは今回何も悪くないんだから自分を責めなくていい。
今は、ただゆっくり休んで。
世界のことは、私たちが全部、なんとかしておくから」
ノアは小さく息を吐いた。
(私のために、世界がこんなふうに動いてる……)
嬉しさよりも戸惑いと恐れが先に立つ自分が、少しだけ情けなく思えた。
けれど――
みやびと結衣、そして母のぬくもりに囲まれて、
ノアは、久しぶりに“安心できる朝”を迎えたのだった。
***
朝食の食卓は、いつもより静かだった。
ノアはパンをかじりながら、母とみやび、そして結衣の顔をそっと見つめていた。
母親は、娘がひと口食べるごとに安堵と涙がにじむ目を向けている。
みやびが柔らかく微笑みながら、そっと口火を切った。
「……ノアちゃん、まだ全部納得できてないかもしれないけど、今は本当に大丈夫」
ノアは、不安げな表情で結衣を見る。
「……結衣さん、いったい、何をしたの?」
結衣は静かに、けれどどこまでも率直な声で答えた。
「……今回ね、全部“事実”をつくりあげたの。
本当のことも、そうじゃないことも、全て現実として“形”にした。
世論も、情報も、法律も――お金も人脈も、“動かせるもの”は全部使ったよ」
ノアは目を見開き、思わず息を呑む。
「全部……?」
「うん。事務所や行政、政治家もSNSも……。本来なら時間も手順も必要だったけど、そんなの待ってたら、ノアちゃんが壊れちゃう。
だから、強引だったかもしれない。でも、とにかく“迅速さ”だけを優先した」
母親は、言葉の意味を一つ一つ噛みしめながら、小さく嗚咽した。
「……ごめんなさい、私、何もできなかった。私はただ見ているだけで……」
結衣は穏やかな笑みで首を振った。
「大丈夫ですよ。今は、ノアちゃんが無事でいることが何よりです。
でも、今回無理やりねじ伏せた人たちにも――後でちゃんとフォローしないといけない。
正義じゃないかもしれない。けど、今だけは“結果”が全てだと思ってます」
ノアは少しだけ首をうなだれる。
「私のために、世界が歪んでしまったのかな……」
結衣はそっとノアの手を取り、しっかりと握りしめる。
「歪めたっていいんだよ。あなたの心が壊れるくらいなら、私は何度でも世界を捻じ曲げる。
でも、次は――ちゃんと“本当の正しさ”で、立ち向かおうね」
みやびも涙ぐみながら、ノアの背を撫でる。
「うん、私たち、ずっと一緒だから。
ノアちゃんが戻りたいと思った時、どんな形でも――必ず受け止めるよ」
母親はハンカチで目頭を押さえ、娘の手をそっと包み込んだ。
食卓の静けさの中で、ノアの心に、少しずつ“新しい朝”が差し込み始めていた。
炎上はよくないと思います。
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