第60話 炎上の果て、荒れ狂う悪意
「……なんで、こんなことに……?」
ノアは自分の部屋の隅で、両膝を抱えたまま、スマホの画面をじっと見つめていた。
いつもなら、配信を終えたあとはほっとした気持ちで、ファンからのコメントやDMを眺める時間が好きだった。
けれど今日は、何度も指で画面をスクロールするたび、胸の奥に冷たい鉛が沈んでいくような感覚があった。
”ノアちゃん、最近ちょっと天狗じゃない?”
”コラボであんな態度とか、正直引いた”
”ノアのせいで共演者泣いたって本当?”
いつもは明るいはずのタイムラインに、そんな言葉が並ぶ。
「どうして……? 私、なにも悪いことしてない!」
頭の中で何度も問いかける。
でも、現実は容赦なくノアの心を切り裂いていく。
“ノア炎上”のタグがSNSでトレンド入りしている。
いつの間にか、炎上系Youtuberたちがノアの配信の切り抜きを「証拠映像」として拡散し、まとめサイトでは「ノア、裏の顔暴露!」と見出しが踊る。
自分が見ていた世界が、音もなく崩れ落ちていく。
”ちょっとだけ、冗談だったんだよな……”
”みんなも悪ノリしてただけでしょ?”
”ノアちゃん、これ見てる? 自分を信じて”
もはや擁護も慰めも追いつかないほど、ネットの悪意は大きく膨れ上がっていた。
ノアのチャット欄やリプライには、
”もう二度と出てくるな”
”謝罪しろ”
”自分がどれだけ迷惑かけてるかわかってるのか”
という言葉が止まらず流れていく。
配信仲間の一部からも、「ちょっと今は距離を置くね」と控えめなメッセージが届いた。
胸の奥が、ずきずきと痛む。
ノアは両手で顔を覆った。
「……私が全部、悪いのかな」
涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
それでも通知音は止まらない。
SNSを閉じても、スマホを机に伏せても、ネットのどこかで自分への攻撃が続いている。
たまらずベッドに潜り込み、毛布を頭までかぶった。
(もう、外に出たくない……)
ノアはじっと、暗い天井を見つめる。
頭の中には、みやびや結衣、いつも遊んでいた仲間たちの顔が浮かぶ。
けれど、今の自分には誰の声も届かない。
家の外から聞こえてくる母の「大丈夫?」という優しい声にも、力なく「うん」としか返せなかった。
誰もが敵に見える。
いや、みんな自分のことなんて、もう見捨ててしまったんじゃないか――そんな被害妄想が、静かに心を締めつけていく。
やがて夜になり、SNSで新たな“暴露”がまた拡散された。
<ノア、配信裏でスタッフに暴言>
<共演者泣かせ、運営も困惑>
それは完全な捏造だと分かっていても、ノアは反論する気力も持てなかった。
一度、配信画面を開いてみる。
(……無理だ)
手が震え、画面をそっと閉じる。
スマホのバッテリーが切れるのも構わず、ただじっと布団の中で目を閉じた。
「……ごめんなさい」
小さな声で、誰にも届かない謝罪だけが部屋の隅に消えていった。
――こうして、ノアはインターネットからも現実からも、そっと姿を消した。
その夜も、通知音だけが暗闇に鳴り響いていた。
***
「……やっぱり、未読のままか」
結衣は自室のデスクで、スマホを何度も見返していた。
《ノアちゃん、大丈夫?》
《もし辛かったら、すぐ連絡して。私たち、いつでも待ってるから》
そう送ったメッセージは、どれも灰色のまま。
(これは、まずい)
配信のときはいつも、ノアは小さな声で笑い、時々不安そうに相談をしてきた。
けれど今は、その声も姿もネットの海に消えてしまったようだった。
Discordにメンションを送っても、応答はない。
結衣はため息をひとつつき、ノアの事務所にメッセージを入れる。
「ノアさんの状況、何か分かりますか?私からもサポートできることがあれば教えてください」
すぐに、そっけない返信が届いた。
《現状はご家族と話し合い中です。タレント本人・ご家族の意向もあり、関係者の直接の介入は控えたいとのことです》
(……まあ、そうなるよね)
結衣は頭を抱えた。こういうとき、“正しい”対応では間に合わないこともあるのに。
そこで、みやびに連絡を入れる。
《みやびちゃん、ノアちゃんと連絡とれてる?》
《……ごめん、全然。DMも未読、LINEも既読つかない。事務所にも何度か聞いてるけど“様子を見守ってほしい”って》
《このままじゃダメだよね。私……会いに行きたい》
《うん……私も、なんとかしたい。結衣さん、一緒に行ってくれますか?》
二人はすぐに、事務所を通じてノアの家――実家の住所を確認し、
事務所からはノアの母親連絡を入れてもらった。
「配信仲間がご挨拶に伺う予定です。お嬢さんを支えたい一心です」
その車内で、みやびは緊張した面持ちだった。
「ネットの友達が突然来るって、親御さんからしたら警戒しますよね……」
「うん、でも今は何よりノアちゃんの顔を見たい。それだけ」
結衣は、静かにハンドバッグの中の名刺入れを指でなぞった。
ノアの家に着くと、住宅地の一角、どこにでもある小さな戸建て。
ふたりは深呼吸をして、玄関チャイムを押す。
ピンポーン。
しばらくして、扉の向こうから女性の声がした。
「……はい?」
「すみません、突然。みやびと申します。娘さんと仕事で一緒に配信をしている者です。今日は、ちょっと気になって……」
ドアが静かに開く。
目元に疲れの色をにじませた母親が、ふたりを慎重な目で見つめている。
「……ネットのお仕事の方、でしたね。わざわざ……」
「はい、実は、娘さんが連絡を返してくれなくて……。もしかしたら、私たちの顔を見たら少しでも元気になるかなと……」
母親は、一瞬戸惑いながらも、しばらく無言でふたりを見つめた。
「……上がってください」
部屋に通されると、家の中は静まり返っていた。
ノアは2階の自室にこもっているらしい。
「娘は、ずっと部屋から出てこないんです。声をかけても、うん、としか……。お二人のことは、よく話していましたけど……ネットのことは正直、親にはわからなくて」
「ご心配、よくわかります。ご無理はなさらないでください」
結衣は深く頭を下げた。
やがて、みやびが階段の下でそっとノアの名前を呼ぶ。
「ノアちゃん、みやびだよ……!ちょっとだけ、顔を見せてくれない?」
返事はない。
扉の向こうからかすかに気配がするだけ。
みやびは、もう一度声をかける。
「ノアちゃん……大丈夫だよ。私はずっとここにいるから」
そして、静かに階段を上る。
ノアの部屋の扉の前。
みやびが優しい声でそっと話しかける。
「ねえ、無理に話さなくていい。顔も見せてくれなくていい。……でも、今日、どうしても来たかったんだ」
ノアの部屋の中では、布団にもぐったノアが息を殺して耳を澄ませている。
(みやびちゃん……本当に来てくれたんだ)
扉の外で、結衣がそっと膝をつき、ノアに向けて柔らかく話しかける。
「ノアちゃん、わたしも来たよ」
ノアは一瞬、体を硬くする。
聞き覚えのある話し方と声だけどどこで聞いたのかわからない。
「……だれ、ですか」
「大丈夫、ノアちゃん。私たちは、君の味方だよ」
しばしの静寂――
やがて、みやびがゆっくり扉を開ける。
布団にくるまっていたノアは、みやびと見知らぬ女性の顔を交互に見上げて、戸惑ったまま固まる。
そのとき、結衣がそっとノアの横に座り、包み込むように優しく抱きしめた。
「ノアちゃん……私だよ。結衣」
ノアは、その瞬間に目を大きく見開いた。
「えっ……え?結衣さん……?」
思わず涙があふれる。
「本当に来てくれたの……?」
「うん。ずっと、君のこと見てたから」
ノアは結衣の腕の中で、小さく震えながら泣いた。
みやびもそばに座り、二人を優しく見守る。
「大丈夫。もう、ひとりじゃないよ」
暗く重い空気の中に、ほんの小さな温もりが差し込んだ瞬間だった。
***
ノアが結衣の腕の中で泣き止んだ頃、部屋の空気が少しだけ和らいでいた。
みやびがそっと声をかける。
「ノアちゃん、私もずっと心配してた。……結衣さんも、ずっと君のこと見てたよ」
ノアはまだ涙をぬぐいながら、かすかにうなずく。
そんな二人を見て、部屋の隅で見守っていた母親は、どこかほっとしたような、けれどまだどこか警戒する目で結衣を見ていた。
結衣は一度だけ、静かに深呼吸をする。
「ノアちゃん、そして――お母さまも。今、事務所がやっている“正しい手順”や“順番”は、全部分かっています。けど、そんなことしてたら、あなたは持たない」
ノアが目を上げる。
「え……?」
結衣は、どこまでも静かで澄んだ目で、ノアをまっすぐに見つめた。
「理屈も正義も、この際どうでもいい。今は、“力”で全部ねじ伏せる。私が、あなたを守る」
その声は落ち着いているのに、どこか異様な説得力があった。
「私ができることは全部やる。正攻法も順番も、この場面では意味がないから。……だから、安心して。ノアちゃんは、もう一人で悩まなくていい」
母親は、目の前の若い女性があまりに強い口調で「世間を力で動かす」と口にしたことに、戸惑いと不安の混じった表情を浮かべていた。
(……なにを言っているの、この子は)
けれどノアは、結衣の目を見て、小さくうなずいた。
「……結衣さん。ありがとう」
みやびも、はっきりと結衣の肩をたたく。
「絶対に、大丈夫だよ。ね?」
結衣は優しく微笑み、もう一度、ノアの肩にそっと手を置いた。
「さあ、ここからは私の出番。――全部、ひっくり返してみせる」
その瞬間、部屋の空気がひりつくように変わった。