第6話 熱狂の渦――もう一つの景色へ
コロナ後の世界は、見えるものも見えないものも急激に移り変わっていった。
スーパーの行列やマスク不足は収まっても、オフィスの空気はどこか薄いまま。「いつ元に戻るんだろう」と誰もが小さな不安を抱え、毎日の仕事に追われている。
私はライトブルーファンド合同会社――あの日、遺産相続を機に立ち上げた資産管理法人の代表として、運用報告や銀行との打ち合わせ、証券会社のリサーチ担当とのZoom会議に日々追われていた。一方で、朝は“普通の社員”として出社し、資料の修正や会議の準備に追われる日々。
「この書類、また修正ですか?」
気づけばそんな言葉にため息をつく自分もいる。
億単位の数字を見つめながら、「コストカット」や「売上未達」に一喜一憂する昼の自分。
同期の野間が冗談めかして話しかけてくる。
「結衣、最近やけに余裕あるよな」
「そんなことないよ、毎日いっぱいいっぱい」
表向きはそう返しつつも、内心では何重もの“顔”を切り替えて生きている自分に気づく。
現場の自分、投資家の自分――本当の私はどちらなのだろう。
そんな日常の中、私は静かに一つの決断をした。
「会社の株、法人でコツコツ買い始めてみようか」
それは壮大な計画というより、“現場で働く自分”と“資本家”としての自分――両方の景色を見てみたいという純粋な好奇心だった。
証券会社の法人口座にログインし、自社株の注文画面に額を打ち込む。
「まずは……これくらいかな」
最初の数万株、合計で数千万円規模。全体から見れば1%にも満たないけれど、社員の「持株会」の何十倍もの量を一度で買った。
議決権行使書類や配当通知、IRからの法人宛て案内――
それらが事務的に淡々と届くたび、自分が“社員の側”でなく“会社の外側”から会社を見る立場に足を踏み入れた実感が、ふいに胸をくすぐった。
社内では同僚たちが談笑している。
「持株会、今年は積立やめようかな」
「俺、ボーナス入ったら全部使っちゃった」
(もう私は別の土俵に立っているのかな)――
私は心の中だけで静かに思う。
その夜、自宅リビングで兄・拓真にLINEを送った。
《実はさ、法人で会社の株を本格的に買い始めてる。まだ1%もないけど、持株会に比べたらかなり大きい》
拓真からすぐ返信が来る。
《攻めるなあ。でも持株会でも全体で2%前後だし、お前のペースだと将来的にもっと増やせそうだな》
《大量保有報告のラインは当然意識してるし、税理士や弁護士にも必ず相談してるから大丈夫。社内にいながら“外から”会社を見ている感覚が新鮮でさ。思ってたよりワクワクする》
《インサイダーだけはガチガチに気をつけろよ。面倒ごとになるから》
《もちろん。今は“積み上げること”と“リスク管理”を同時に楽しんでる感じ》
《体は壊すなよ》
私はスタンプに思わず笑ってしまった。
翌朝、社内メールで「新規事業のチームメンバー募集」の案内が届く。現場は人員や資金の問題でざわつく。
(ここはこう動かせば……でも現実は全然違うんだな……)
二重構造の思考が、日増しに深くなる。
昼休み、IRから法人宛てに新しい決算説明会の案内が届く。
自分だけが“もう一つの顔”を持ち始めていることが、どこか誇らしく、同時に孤独でもあった。
ふとした瞬間、「自分の中の“会社員”と“資本家”がぶつかり合ってるな」と実感する。
自分が今、“表と裏の両方”で会社を観察している現実に、静かな高揚を覚えていた。
税理士とのリモート会議でも、念を押される。
「議決権の影響はまだ小さいですが、こうして積み上げていけば将来はかなりの存在感になります。ただし、情報管理と規制だけは本当にご注意ください」
ノートPCに、自分の考えを打ち込む。
「会社員でありながら、会社の資本側にいる。まだ本当に小さな一歩。でも、これが積み重なれば、将来何か大きな流れを作れるかもしれない。
今はただ、焦らず確実に、ルールを守りながら進もう――。」
夜風がカーテンを揺らす。
社内の誰にも気づかれずに、私は新しい渦の入口に、そっと足を踏み入れていた。
数字が増えるたび、現実感が少しずつ薄れていった。
不動産の五億円から始まったこの資本は、仮想通貨とコロナ相場、ハイテク株の上昇を経て三十億にまで膨らんだ。それでも、まだ何かが足りない気がしていた。
***
本当の“渦”が、2021年一月――あの夜から始まった。
その晩、家の明かりを落とし、パソコンの画面だけが部屋を照らしていた。
SNSも投資掲示板も、「GME」「GameStop」の文字であふれかえっている。
redditのr/wallstreetbets、英語圏の熱量、ニュース速報。
「空売り機関の焼き尽くし」「一般投資家の逆襲」――
それはネットと金融が一体となった、世界規模の祭りだった。
ライトブルーファンド合同会社、三十億円の法人口座の数字を見つめる。
その重みに心が静かに震える。
(もう、ただ眺めている側でいたくない)
数千万円の情報屋サービス、有料データのサブスクリプションをいくつも組み合わせ、Pythonでredditの投稿数、Twitterのトレンド、オプション市場の建玉データを徹夜で自前クロール。
可視化したグラフが、画面いっぱいに色を変えていた。
「人の熱狂は、数字で見れば“山”になる」
まずは3億円分、redditの投稿数が最初の山を越えた瞬間にGMEのロットを3.5倍でさっと利確。
その利益も含め、深夜2時。「投稿数・オプション建玉・SNSヒートマップ」全てのピークを計算で捉える。
私は10億円を一気に投入した。
Twitterのタイムラインは「To the moon!」「Diamond hands!」で埋め尽くされる。
出来高も記録を更新し、米国市場のボラティリティは金融史を塗り替えるレベル。
私は3画面に並ぶトレンドグラフと板の厚み、海外の有料APIで監視した仕手筋の注文を追う。
午前4時、redditクロールのグラフが明確に「頭打ち」のカーブを描いた。
「ここしかない」
10億円の玉を10倍圏ですべて売却。
画面の数字は一気に跳ね上がり、静かな興奮が指先を痺れさせた。
けれど本当の勝負はそこからだった。
残る十五億円。
私は最後まで“情報屋”の海外API、板の歪み、オプション市場の清算状況、仕手筋アカウントの投稿内容まで徹底的に追い詰めていく。
「市場の熱が沈黙した瞬間こそ、最大の売り場だ」
自作のヒートマップが赤から灰色に転じるタイミング、15.5~17倍圏で残るロットを売却した。
全て終わった瞬間、パソコンの前でしばらく身動きできなかった。
3.5倍利確:3億→10.5億
10倍利確:10億→100億
15.5~17倍利確:15億→240億強
すべてを合算して、税金や損玉を差し引いても、口座残高はついに350億円を超えた。
朝焼けの中、会社に向かう電車の中で、
「もう二度と“普通の自分”には戻れない」
その現実がひしひしと胸に迫ってくる。
会社の会議室では、いつも通り「コロナ以降の業績」「コストカット」の話題。
野間が「GMEなんて夢みたいな話、うちには関係ないよな」と笑い、
芽衣が「投資でそんなに増やせる人、実際にいるのかな」と目を丸くする。
私は何も言わず、静かに資料に目を落とした。
心のどこかで「この日常の中で、自分だけ違うレイヤーにいる」という孤独と誇りが、奇妙に共存していた。
夜、兄にLINEを送る。
《GMEとAMCでやりきった。今、残高350億。自分でも震える》
しばらくして拓真から返事が来た。
《それ…本当に現実の数字か?もう“大富豪”って呼ばれるクラスだぞ》
《すごい。でも、浮かれるなよ。責任も桁違いだからな》
《分かってる。お金を増やすより、何に使うか考える方が難しい気がしてきた》
《それなら安心した》
その夜も、税理士や弁護士との深夜ミーティングが続く。
「この規模になると、匿名性・社会的責任・寄付・法令順守、全部本気でやるしかありません。
投資案件も一気に増えます。情報管理が何よりも大事です」
私は画面越しに深くうなずいた。
会社の窓から見える夕暮れが、いつもより遠く感じた。
私は、これからの人生をどう使うかを、本気で考え始めていた。