第5話 嵐を越えて――常識外れの選択
2019年の年末、街はイルミネーションで光に包まれていた。
でも、結衣のスマホに届いたニュースは、周囲の浮かれムードと正反対の冷たさを孕んでいた。
――中国・武漢で原因不明の肺炎が集団発生。
(この違和感……多分、騒ぎになる)
会社はどこも年末進行で浮き足立ち、誰もが「やっと今年も終わる」と笑い合っている。
同期の野間も「年明けどこか行くの?」と訊ねてきた。
「家族と過ごすくらいかな」
「地味だなあ!」
野間はおどけるが、結衣の視線はスマホの画面――SNSの投資クラスタを追いかけていた。
《新型コロナ、拡がる前に株逃げとくか?》
《海外病気系は大げさなだけ。買い場でしょ》
《病院筋がざわつき始めてるのは本当っぽい》
多くの人は“珍しい海外ニュース”扱いだったが、タイムラインの一部には、既に“警戒の空気”が流れていた。
年が明け、2020年。
世間はまだどこか他人事で、会社の同僚も「中国で変なウイルス?また大げさなだけじゃない?」と冗談めかしている。
だが結衣の中では、静かに“異常な兆し”が形を取り始めていた。
(板の動きも出来高も、じわじわ異常値が増えてる……。この空気、何か来る)
家に帰ると、母がキッチンで晩ご飯を作りながらテレビに目をやっていた。
「クルーズ船、ニュースになってるね」
その声を背に、結衣はすぐ自室に戻り、PCで市場データとSNSの流れを同時に確認する。
(板の厚みが突然消えてる。海外勢の資金が静かに逃げてる。
みんなはニュースで騒ぎ出してるけど、“波の向き”はもう変わり始めてる)
タイムラインでは「今こそチャンス」「全力撤退」「怖い時ほど買え」と正反対の声が飛び交う。
けれど結衣は、データと気配から静かに決断していた。
その夜、結衣は投資用のPC画面とスマホを何度も行き来しながら、いつもと違う注文ボタンを押していた。
SPXS――米国のS&P500が下落すると、その“3倍”の値動きで上昇するベアETF。
TECS――米ハイテク株の指数が下落した時に“3倍”の値動きで利益を取るベアETF。
どちらも「株が暴落するほど資産が爆増する」リスクの塊。
信用取引の空売りとは違い、現物ETFなので追証リスク(=借金で即死)はないが、下げ止まらなければ一瞬で何割も溶ける――“本物のリスク商品”だ。
(普通の人なら持ちたがらない“毒薬”だけど、今だけは“守り”じゃなく逆張りこそが正解。
信用で全力は破滅だけど、ETF現物なら最悪でもゼロで済む。
全力じゃなくても、これでリスクは最大級。――今しかできない大勝負)
SNSの投資クラスタにも、結衣の小動物アイコンの投稿が静かに流れる。
《指数と債券以外はSPXS・TECS中心にポジション構築。信用は追証が怖いので使いません。現物ETF最大リスクで迎え撃ちます》
反応は即座に返ってくる。
《SPXSとTECSガチ?攻めすぎでしょ》
《3倍ベアって正気か…》
《追証ないのは強いけど普通はやらない》
《ちょっと乗っかってみたくなる》
《小動物アイコンなのにやることエグい》
《“勝負師”現る、って感じだな》
一部は興味本位で真似し、一部はドン引きし、一部は賛辞と警戒を入り混ぜたざわめきで界隈がにわかにざわつく。
結衣は淡々と、自分の資産の許容できる最大ギリギリまで、SPXSとTECSの現物を買い増す。
数年に一度の“逆流”――ここで動かなければ投資家としての意味がない、そう確信していた。
(この静けさが破れた瞬間、“波”がすべてを巻き込む。みんなが気づく前に動く――それだけ)
***
週末、兄とカフェで会う。
コーヒーを飲みながら、兄が苦笑する。
「みんなが慌てる前に動いてるの、結衣らしいな」
「今は攻めるより守る。自分で決めたし、もう迷いはないよ」
短いやりとりだけで十分だった。
二月、会社にもマスク姿が増え、在宅勤務の話が現実味を帯び始める。
営業部では「取引先も在宅だって」「イベント中止ばっかり」という会話が続く。
芽衣が、こっそりと話しかけてきた。
「最近、ネットで“全部売るべき?”って話題がすごい増えてますよ」
「…結局、最後は自分の納得できる選択が一番だよ」
芽衣は少し不思議そうに笑った。
「結衣さんって本当に落ち着いてますね」
夜、PCの前で投資家コミュニティのタイムラインを流し読みする。
「退場」「底値」「全損」――正反対の声と不安の渦が画面を埋め尽くす。
でも結衣は、淡々と“守り”でいくとだけ書き残す。
共感の声や「自分も逃げた」というメッセージに、少しだけ心が温かくなる。
家でも「マスクが売っていない」「銀行の窓口も縮小」
父母の声が徐々に重くなる。
その様子を、結衣はどこか冷静に観察していた。
週明け、会社の空気は一変していた。
「リモートワークどうする?」
PC環境をすでに整えていた結衣に芽衣が驚く。
「やっぱり、用意が早いですね」
「転ばぬ先の杖、ってだけ」
社会全体がようやくざわつき始めたその春、
結衣は“まだ誰も見えていない世界”の変化を、静かに掴んでいた。
***
次の月、世界はまるで裏返ったようだった。
テレビもネットも「未曾有」という言葉ばかりが流れ、
ダウも日経も毎日のように急落し、サーキットブレーカーが連発していた。
SNSには「全損」「退場」「もう投資は二度とやらない」――そんな悲鳴が溢れている。
結衣はただ、静かにスマホの資産管理アプリを開く。
そこには――現金。あとはほんの少しの米国長期債ETF。
SPXSもTECSも、暴落の最中で迷いなくほとんど利確して、すべて現金に戻していた。
(あの瞬間、恐怖でも期待でもなく、ただ“空気が変わった”って思った。――もう十分だ、と)
どんなに市場が荒れても、自分は嵐の外に立っている――そんな静かな誇りと手応えが、心に残る。
家族はテレビの前でため息をつき、
会社もリモートワークと「健康第一」が合言葉になった。
社会全体が重苦しい空気に包まれる中、結衣だけは静かにデータを追い続けていた。
春の終わり。
EDV――米国超長期債ETFのチャートは、暴落期の急騰からじわじわと頭打ちになりはじめる。
為替、先物、主要国のマネーフロー、中央銀行の動き、主要企業の決算予想――
あらゆる“兆し”を一つ残らず捕まえながら、結衣は複数の画面を切り替え続ける。
(債券の資金が鈍化して、ビッグテックと半導体の板に厚みが戻り始めてる。
SNSも、「まだ早い」「でもそろそろかも」という迷い声が増えてきた――)
EDVの天井感を“底のサイン”と読み、結衣は資産を再び動かし始める。
まずはNVDA、TSMC(台湾セミ)、AAPL、MSFT――
底値圏で息を吹き返し始めたビッグテックと半導体株に、分散しながら一気に資金を移す。
(守るだけで終わりたくない。今度は“攻め”の番だ)
さらに、SOXL――誰もが「危険」と敬遠する米国半導体3倍レバETFにも、
恐れず最大限のポジションを張る。
SNSの投資界隈は再び騒然となる。
《SPXS・TECSで勝ち逃げした人が、そのままSOXLに全振り…!?》
《一周回って天才か狂気か分からん》
《こんな乗り換え見たことない》
《現金にしただけでも勝ち組なのに…》
《小動物アイコンの人、攻め方が常軌を逸してる》
《底でSOXL全力とか、真似しちゃダメなやつ》
《自分は絶対できない。でもこういう人が相場を動かすんだよな…》
結衣は、熱狂と恐怖の渦の“外側”で、ただ冷静に観察を続ける。
夜、もし明日また暴落が来たら全て消えるかもしれない――
そんな微かな不安も、朝にチャートを開いた瞬間に吹き飛ぶ。
すべてが、少しずつ、しかし確実に右肩上がりになっている。
誰にも見せない小さなガッツポーズ。
(この景色――守ってばかりじゃ決して見られなかった)
会社のオンライン会議では、みんな「今は現金が一番」「もう少し様子見」と慎重な空気。
その向こう側で、結衣だけがモニターに映らない小さな微笑みを浮かべていた。
(恐怖に振り回されず、
“決めたら、必ず動く”――
それが、私の強み)
SNSは一転、歓声と驚きで溢れる。
《SOXL、異次元の伸び!》
《NVDAがコロナ前高値突破!》
《小動物アイコンの人、また伝説作ったな…!》
そんな歓声と驚嘆が並び始める。
もちろん、全部の波に乗れたわけじゃない。
EVや再エネ株は見送ったし、傷だらけで立ち直れなかった銘柄もある。
でも、そんなことはどうでもいい。
「自分で納得して選び、自分で責任を取った」
それが何よりも大きな収穫だった。
初夏の風が窓から吹き込み、結衣は静かに目を閉じる。
多分、リアルでこんなことすると財産がほぼ間違いなく溶けます。