第43話 結衣の新しい立場
定時を少し過ぎたオフィス。
南野結衣はPC画面に映る社内チャットの「新規メッセージ」ボタンの前で、しばらく手を止めていた。
――役員と個人的にチャットするなんて、普通ならありえないことだ。それでも今、自分がこの会社で果たすべき責任と、譲れない想いがある。
結衣は小さく息を吐き、決心してキーを叩いた。
> お疲れ様です。
> 井手口常務、突然失礼いたします。
> もしご都合よろしければ、少しだけお時間をいただけませんか――
> お話したいことがございます。
送信ボタンを押した瞬間、ほんのわずかに罪悪感が胸をよぎる。「立場をわきまえなさい」と誰かに叱られるかもしれない。
けれど、すぐに返ってきた「もちろん、いつでも。応接室で待っています」という穏やかな返信に、結衣は思わず小さく笑ってしまった。
(やっぱり、この人はすべて分かっている――)
井手口常務は、既に自分の正体を察している。
それどころか、結衣がライトブルーホールディングスを背負い、会社の未来すら左右する立場であることも。
今や10%を超える株主――経営に影響を与えられる“実質的なオーナー”の一角。
このまま株式を積み上げれば、グループごと呑み込む側に回ることも、決して夢物語じゃない。
でも、それは本当に自分の望む“未来”なのだろうか?
この会社が好きだった。現場の空気、同僚の笑顔、誇りをもって働く一人ひとりの背中。
――本音を言えば、巨大な資本の論理で「飲み込む側」になるより、ずっと“この職場”の一員でいたかった。
けれど、資本を持ち、責任を負う者としては、もう甘い理想だけでは立ち止まれない。
(私が、この会社を中から守れる最後の“感覚”でいられるうちに――
きちんと自分の考えを伝えなくては)
チャット画面の通知がまた一つ、音を立てて光る。
「お待ちしています。気をつけて来てください」
まるで何も気負わない、自然体のメッセージ。
それが結衣の背中を、ほんの少しだけ軽くした。
結衣はそっと立ち上がる。
この人は、自分のことをまっすぐに見てくれるはずだ――
そんな静かな信頼を胸に、応接室へと向かう足取りは、少しだけ強くなっていた。
***
東都リアルティの応接室は、ほどよく重厚でありながら、どこか人の温かみを感じさせる空間だ。
南野結衣は、秒単位で時間ぴったりにドアを開けた。
「お忙しいところ、突然お時間をいただいてしまい、恐縮です」
深々と頭を下げる仕草も、いつも通り控えめだが、
今この“アポイント”自体が異例中の異例であることは、双方ともよく分かっている。
井手口常務はソファに深く腰掛け、目尻に笑い皺を浮かべる。
「いや、今日は私のほうこそ楽しみにしていたんだよ。南野くんの“チャット”なんて、あると思ってなかったからね」
その声には冗談と本音が半分ずつ混じる。
結衣も、わずかに口元を緩めた。
「お手間を取らせてしまって……大変申し訳ありません」
「いやいや。こうして“面と向かって”話せる機会は貴重だから。――それに、君ほどの人がこの場を選ぶには、きっと理由があるんだろう?」
常務の言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちる。どちらも、もう相手が“何をどこまで知っているか”を、無意識に測っている。
「まもなく、ホールディングスが上場を迎えます」
結衣は静かに切り出す。
「私はこの会社の社員という立場からは離れざるを得ません。でも……もし許されるなら、何らかの形で今後も東都リアルティと関わり続ける道は残されているでしょうか」
常務はわずかに顎を引き、視線を投げかける。
「南野くんが“外の人間”になるとは、あまり想像できなくてね。現場にも、数字にも、ちゃんと足がついている。そういう人は大変心強い」
そして、わざと軽い調子で付け加えた。
「会社としても、“主要株主様”が外に出てしまうのは、正直、惜しい話なんだよ」
冗談めかして言いながらも、探るような色が混じる。
結衣は少しだけ視線を下げる。
「株主とはいえ、私はまだ“筆頭”というほどの器ではありませんから。ただ、やっぱりこの会社が好きなんです」
彼女の語り口は淡々としているが、わずかに“覚悟”の温度がにじむ。
「実のところ、君の動向には、ずいぶん前からみんな気にしていたよ」
常務が柔らかく笑う。
「ただの社員か、グループの未来を動かすキーパーソンか……正直、私も何度か調べさせてもらったくらいだ」
その率直さに、結衣もわずかに目を丸くして、すぐに微笑んだ。
「光栄なような、怖いような……でも、嘘はつけないので」
しばし、二人のあいだに沈黙が降りる。
どちらも“カード”を見せすぎない。けれど、本音はきちんと相手に届いている――そんな手応えがあった。
「これからも、君らしくいてほしい」
井手口常務は、やや改まった口調で言う。
「立場や肩書きより、結局は“現場”や“人”に残る温度が会社を動かす。私はそう信じているから」
結衣は、安堵とわずかな決意を胸に、もう一度だけ深く頭を下げた。
応接室を出て廊下に出たとき、ふたりの間にあった緊張感が、心地よい余韻だけを残して消えていった。
***
応接室のドアが閉まる。
南野結衣が頭を下げて出ていったあとの静けさは、
どこか感慨深く、そして不思議な寂しさを残した。
(南野くん――いや、“南野結衣”という人物は、やはりただものじゃないな)
主要株主でありながら、
現場の一社員として、誰よりも仲間の声に耳を傾け、そして誰よりも冷静な判断で大局を見ている。
経営者としての勘が告げている。
彼女を「ただの取締役」に縛りつけるだけでは、その柔らかさも、自然と人を動かしてしまう“特別な温度”も、やがて失われてしまうかもしれない。
(肩書だけを与えれば守れる時代じゃない)
上場企業のガバナンス規定や世間の目を考えれば、「社外取締役」や「特命役員」という形式的な職は最も“安全”だろう。
けれど本当に彼女の心を守れるのは、「現場と経営を結ぶ架け橋」としての、“会社のなかで、唯一無二の居場所”をデザインすることではないか――。
たとえば――
・現場と経営陣の「橋渡し」役(意見調整・社員の声を経営に反映)
・新規事業やイノベーションの「特命担当」(自分のスタイルで挑戦できる余地)
・人材育成や社内カルチャー醸成の「旗振り役」
・困難なプロジェクトが動かなくなった時だけ“調整役”として介入できる特命ポスト
・非常勤でフレキシブルに現場と関われる“スペシャル・アドバイザー”
後輩や同僚と笑い合いながらも、ふとした瞬間に経営の本質を見抜くあの目。
それを「ただの肩書」ではなく、「誰もが頼れる、でも誰にも縛られない」――
そんなポジションとして未来の組織に残したい。
井手口は、そっと小さく微笑む。
結衣の未来と、この会社の新しい形を想像しながら。
***
――それは、上場直前の静かな夕暮れ。
東都リアルティの役員応接室には、ごく限られた役員だけが集まっていた。
窓際で資料をめくる井手口常務。
向かいには、社長、CFO、人事担当常務――
いずれも、会社の“未来”を本気で考える年長者たちばかりだ。
「社外取締役として彼女を迎え入れるだけで十分なのか?」
社長が静かに切り出す。
「表向きはそれが筋だろう。
だが、彼女は“肩書”より“現場との接点”を重んじる。
それが彼女のグループの躍進を支えているんだ」
井手口常務が答える。
「彼女が本当に輝くのは、“自由”な動きが許されるポストだと思います」
CFOがうなずき、人事担当も賛同する。
しばしの沈黙のあと、井手口常務が、すでに準備していた“案”をそっと広げる。
「私は“社外取締役”兼“特命プロジェクト・アドバイザー”という形を提案したい。
経営に関わりつつ、現場や新規事業にも自分のペースで入れる――
“南野結衣専用”の役割だ」
役員たちは、それぞれ表情を和らげてうなずく。
「常識を超えた人には、常識を超えた居場所を」
それが一致した結論だった。
その夜遅く。
再び応接室に呼ばれた結衣は、全員が穏やかな表情で待つテーブルの前に静かに座った。
井手口常務が、改めて口を開く。
「南野くん。
本来なら、ここで“卒業”を勧めるべきだろう。
けれど、私たちは君がこの会社と“繋がり続ける”ことに、むしろ未来を感じている」
「君には、“社外取締役”として経営にも参画しながら――
現場の声、新しい事業、組織文化づくりにも自由に関わってもらいたい。
“特命プロジェクト・アドバイザー”――
言い換えれば“結衣のためだけの席”を用意したいと思う」
結衣は、その言葉の意味をすぐに理解した。
自分の個性や、これまでの歩み、
そして“守ってきたかった場所”まで、
すべてがきちんと見られていると感じて、
少しだけ息をのむ。
「……ありがとうございます」
ゆっくりと頭を下げ、
「お言葉の真意、しかと受け止めました。
“会社の未来”のために――
私にできることを、全力でやらせていただきます」
その声には、少しだけ、安堵と誇り、そして新たな覚悟がにじんでいた。
役員たちは、微笑みを浮かべながら静かにうなずいた。
こうして、“結衣のためだけの特命ポスト”は正式に誕生することになったのだった――
***
結衣が応接室を辞したあと、
残された役員たちはしばらく無言で席を立たなかった。
CFOが小さくため息をつく。
「……会社の“資本政策”だけを考えれば、これほど心強いことはないですよ。
グループの実質オーナーに、“こちら側”にいてもらえるのだから」
人事担当常務も、資料に視線を落としながらうなずく。
「これで株主総会も、グループ内の連携も万全ですからね。
“数字”だけ見れば、最高の形です」
だが社長は、ゆっくりと椅子を回しながらこう続けた。
「……でも、それだけなら“誰でも”いいんだよ」
役員たちの視線が集まる。
「南野結衣という人間が、現場で見せてきたもの――
困っている人がいれば自分の手を止めてでも駆けつける。
それは、“経営の論理”だけでは得られない“温度”だ」
井手口常務が静かに微笑んで言葉を添える。
「大きな数字の裏に、人としての信頼がある。
それが、うちの会社の誇りだと、私は思っています」
数字や資本を超えた場所で、本当に大切なものを残せる組織――
その空気が、役員応接室には確かに漂っていた。
特命係長・・・?