第30話 ホラー実況のお誘い―見守り配信開始
一日の終わり、深夜のリビング。薄暗い部屋の片隅、南野結衣は静かにソファへ体を預けていた。
ノートパソコンの画面には、今日までに積み上げられた配信アーカイブや資料が散らばっている。
長い仕事を終え、配信も無事に終わった後の、ほんのひとときの休息――。
ふと、手元のスマホが震えた。小さな通知音。
画面には「みやびさん」からのDM。
『結衣さん、今度さ、みんなでホラーゲーム見守り配信やろうって話してるんだけど、女帝様も参加しない?』
思わずスマホを握りしめる。みやびさん――同じVTuber仲間で、いつも明るくて頼もしい先輩のひとり。その名前を見るだけで、不思議と緊張と期待が同時に湧き上がる。
しばらく既読にせずに、画面を見つめる。
ホラーゲーム。しかも見守り実況――。
普段の配信では、投資や日常のちょっとした話題をのんびり語ったり、時々ゲストと雑談するくらい。
「女帝様」と呼ばれながらも、どこかマイペースで、刺激よりも安心感を大切にしてきた。
けれど、今度は全く違う。「みんなと一緒」に、しかも“本気で怖い洋ホラー”を体験するらしい。
「……ホラーかあ。私、絶叫したらどうしよう」
小さく呟いて苦笑いする。
それでも、なぜか胸の奥が少しだけ熱くなった。
画面の下には、みやびさんからの続きのメッセージ。
『ノアちゃんとレオンくんも参加決定!女帝様の“素のリアクション”楽しみにしてるって、みんな言ってるよ!』
その言葉に、心の緊張が少しずつほどけていく。
みやびさん、ノア、レオン。配信を始めた頃からの仲間であり、時には心強いライバルでもある。
「女帝様も、そろそろ普段見せない素顔、解禁しよ?」
みやびさんの、飾り気のない励ましが、じんわりと胸に沁みた。
気づけば指が動いていた。
『行きます!私も参加させてください。ホラーは苦手だけど、みんなとならきっと大丈夫です!』
送信ボタンを押した瞬間、次々にリアクションが返ってきた。
ノア:『やったー!絶対楽しい配信にしましょう!』
レオン:『女帝様の絶叫シーン、切り抜き作っておきますね!』
みやびさん:『本気で怖いけど、みんなでやれば大丈夫!今から楽しみだよ!』
自然と笑みがこぼれる。
ほんの数分前まで、ベッドに直行して眠るつもりだったのに。
まるで遠足の前夜みたいな高揚感――不安と期待が入り混じった、特別な夜の始まり。
翌日、グループ通話の画面が開かれる。
みやびさんが明るい声で「それじゃあ、本格的に作戦会議しましょう!」と宣言する。
ゲームの候補を決め、配信日を調整し、どうやって視聴者を盛り上げるか真剣に議論が始まった。
「女帝様、もし怖すぎて無理そうだったら、途中で抜けても大丈夫だからね!」
ノアが優しい言葉をくれる。
「いやいや、女帝様にはぜひ最後まで絶叫してもらわないと!」
レオンの軽い冗談に、通話の空気が和む。
気付けば、どんな恐怖よりも「みんなでやる」ことの心強さが勝っていた。
配信日が決まると、すぐにみやびさんが「コラボ告知出すね!」とSNSに投稿。
『#女帝様ホラー初挑戦』『#みやびコラボ』『#VTuber見守り実況』――
ハッシュタグが瞬く間に拡散し、ファンやリスナーたちからも「これは絶対見る」「女帝様の素顔が楽しみ」と期待の声が集まってくる。
夜、告知ツイートを見返しながら、結衣は思う。
“推される”って、こんなにも心強くて、こんなにも温かいものなんだ。
いつもの自分では絶対に踏み出せなかった“未知の配信”が、今は楽しみで仕方ない。
配信前夜。
パソコンの電源を落とし、ベッドに体を沈める。
スマホの通知が優しく光っている――
グループチャットには「明日もよろしく!」「がんばろうね!」のメッセージがあふれている。
眠る直前まで、結衣は何度も自分に言い聞かせる。
「完璧じゃなくていい。今日だけは、ありのままの私をみんなに見てもらおう」
高鳴る鼓動、ふわりと広がる幸福感。
推される幸せ――それは、ただ画面の向こうで応援されるだけじゃない。
誰かと一緒に、同じ時間をドキドキしながら待つ、その全部。
カーテン越しに明かりの灯る夜の街を見つめながら、結衣は静かに目を閉じた。
***
高層マンションの一室、照明を落としたリビングの片隅に、結衣はひとり腰掛けていた。
時計の針は二十二時を少し回ったところ。
部屋の隅に並んだ小物やマグカップ、散らかったメモ帳――
いつもの自分の生活空間が、今日は特別な“舞台”に見える。
結衣はパソコンの前で、Live2Dモデルのウィンドウをそっと立ち上げた。
画面の中の女帝様――自分の分身が、自然にまばたきし、少しだけ口角を上げて笑っている。
マイクを軽くノックし、リップシンクのテスト。「こんばんは、南野結衣です……大丈夫、ちゃんと動いてる」
少し緊張した声がスピーカーから反射して返ってくる。
「表情もOK、髪のハイライトも……」と独りごとをつぶやきながら、細かい動作やアクセントカラーの位置まで入念にチェックしていく。
配信ソフトを立ち上げ、画面のレイアウトをもう一度確認。
コメント欄、シーン切り替え、コラボ相手のアイコン位置――すべてが完璧か、不安で何度も見直す。
Live2Dのカメラ位置を調整し、机の上にお気に入りのマスコットを並べて、
「よし、今日もがんばろう」と、小さく自分に気合を入れる。
時計をもう一度見る。
discordのグループ通話の開始時刻が、すぐそこまで迫っていた。
「そろそろ行かないと……」とパソコンのタブを切り替える。
どこかで、窓の外の夜風がカーテンを揺らす音がした。
「大丈夫、きっと楽しい配信になる」
小さな声で自分に言い聞かせる。
“今日だけは素の自分を出しても、きっと受け入れてもらえる”――
そんな期待と不安が胸の奥で混ざり合う。
パソコンのディスプレイには、discordのアイコンがぽつんと光っていた。
コラボメンバー用の専用サーバー――「ホラー見守り実況」の文字。
みやびさんの名前がログイン状態になり、ノア、レオンも次々とオンライン表示に切り替わっていく。
「じゃあ、入ります!」
マイクのミュートを解除し、深く一度だけ深呼吸。
クリック一つで、日常から“特別な舞台”に飛び込む。
耳元のヘッドホンから、小さくdiscordの接続音が響く。
「こんばんは、南野結衣です――今日もよろしくお願いします」
自分の声が、静かな部屋に、画面の向こうの仲間たちに、確かに届いていく。
こうして、女帝様の“本気の夜”が、いよいよ静かに幕を開けた。
***
「結衣ちゃーん、いらっしゃい! 待ってたよ!」
心臓の鼓動が強くなっていたのに、その声だけで少しほぐれていく。
ノアの「こんばんはー!女帝様もついにホラー実況デビューですね!」という茶化し、レオンの「これは伝説の夜になりそう」と冗談交じりの合図――
みんなの声が、緊張でこわばっていた背筋をやんわりと解かしてくれる。
「今日は本当にありがとう。……すごく緊張してるけど、よろしくお願いします」
Live2Dモデル越しに、自分の声がわずかに震えているのが分かる。
みやびさんはすぐに「結衣ちゃんの緊張、伝わってくる~!でも大丈夫、みんなで怖がれば怖くないから!」と優しく応えてくれる。
ノアが「女帝様の絶叫、録音して着信音にしたいくらい」と冗談を飛ばし、レオンは「配信事故になっても気にしないで!」と笑う。
配信の空気が、ひとつになっていく。
コラボ用のBGMが静かに流れ、配信ソフトの画面も整う。
視聴者チャット欄には、
<#女帝様ホラー初挑戦>
<推しの絶叫、期待>
<みんなの絆で乗り越えて!>
――と、盛り上がるコメントが溢れ始めていた。
画面の端でハッシュタグがトレンド入りしていくのを見ながら、結衣の鼓動はますます高まる。
「じゃあ……そろそろ、始めましょうか」
みやびさんのリードで、配信が本格的に始まる。
各自のLive2Dアバターがそろい、ぎこちない挨拶の中に興奮が混じる。
「本日は――女帝様こと南野結衣さん、ノアさん、レオンさん、そして私、みやびで! 本気の洋ホラゲ見守り実況、始めていきまーす!」
チャット欄は歓声と絵文字の連投で溢れていた。
ホラーゲームのスタート画面。
禍々しい洋館のCG、暗い廊下、ぼんやり光るシャンデリア――
画面越しの空気が一変し、BGMも不穏な気配を増していく。
「うわ、これ……想像以上に怖そう……」
思わずこぼれた小さな声。
ノアが「女帝様、ここで引き返すなら今のうちですよ?」とからかい、みやびさんは「序盤は何も出ないから大丈夫!たぶん!」と励ますが、レオンが「一番怖いのは“何も出ない時間”だよね」とツッコむ。
「いきます……!」
コントローラーを両手で握り、画面の中の自分に小さく頷く。
Live2Dモデルの瞳が、現実と同じくわずかに泳いでいるように見えた。
ゲームが始まる。
玄関ホールを進む主人公。床板のきしむ音、遠くで鳴る雷鳴、壁に飾られた古びた絵画。
BGMが消え、環境音だけがやけにリアルに耳に響く。
「……無理かもしれない……」
囁き声にもならない声。
コラボメンバーは「まだ大丈夫!」「雰囲気だけだよ、今のうちは!」と励まし、
コメント欄も「序盤でこのビビり方w」「女帝様かわいい」「今の声、保存した」など早くも盛り上がっている。
そのとき、廊下の奥の扉がギィッ……と開いた。
何かが画面の端を横切る影――
「来るぞ、これ絶対来る!」ノアの声。
みやびさんが「落ち着いて!」と叫ぶ。
次の瞬間――
ドンッ!!!
画面いっぱいに赤黒い影が飛び出した。
刹那、結衣の悲鳴がマイクを突き抜ける。
「きゃああああああああっ!!」
バンッ――!
コントローラーがすっぽ抜けて机に激突。
鋭い音がマイクにそのまま入り、配信に爆音として響き渡る。
みやびさんが「うわっ、びっくりした!今のマジでやばい音!」
ノアは「え、今のリアルでこっちも飛んだんだけど!?心臓止まるかと思った!」
レオンは爆笑しながら「配信事故すぎるwww、女帝様が武器投げた!」と叫ぶ。
チャット欄は阿鼻叫喚――
<音でかすぎてびびったwww>
<コントローラー投げ芸>
<耳壊れた>
<女帝様かわいそうwwwでも面白い>
<むしろリスナーが絶叫した件>
コメントが滝のように流れ続ける。
「ご、ごめんなさい……ほんとに無理……」
マイク越しの震え声。
コントローラーは床の上、手元はしばらく空っぽのまま。
みやびさんがすぐに「大丈夫!?怪我してない?」と心配し、ノアも「女帝様の生声、最高すぎる」と励まし、レオンは「伝説回確定!」と笑い声をあげている。
恥ずかしさと興奮が混ざり、結衣の顔はLive2Dモデル越しにも赤く染まって見える気がした。
でも、不思議と怖さよりも――“みんなで盛り上がる楽しさ”が、胸の奥にじわじわと広がっていく。
洋館の入口を抜けたばかり。
これからどんな恐怖が待ち受けているのか、想像もつかない。
でも今夜だけは、叫んで、笑って、泣いてもいい――
そんな特別な一体感が、部屋の静けさと画面の向こうの熱狂をつなげていた。
配信はまだ始まったばかり。
夜の静寂の中、女帝様の“本気のビビり”が、
今この瞬間も、無数のリスナーに届いていた。