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第21話 投資家本気のレポートは戦略兵器

 柔らかな光が差し込む朝、東都リアルティ本社のエントランスは、どこか温室のような穏やかさに包まれていた。

 大理石の床に靴音が軽やかに響く。高層ビルの窓越しに、都市のパノラマが広がっている。これが、誰もが知る大手の会社――東都リアルティの日常だ。


 「おはようございます」

 「おはよう、南野さん」

 淡々とした挨拶が飛び交うなか、結衣は自分のデスクにカバンを置いた。営業企画部は今日も変わらず、穏やかに始まっている。

 近くの席からは、昨日の晩に配信された“女帝様”のバーチャル宮殿イベントの話題がちらほら漏れ聞こえてきた。


 「またイベント、トレンド入りしてたんだって?」

 「Vtuberって本当に世の中変えてるよねー」

 そんな会話を耳にしつつ、結衣は静かにスマートフォンを取り出した。SNSのタイムラインには、イベントのハッシュタグと熱狂の余韻がまだ色濃く残っている。


 ――現実の会社と、バーチャルの熱気。そのあいだにある“温度差”が、結衣の胸の内にそっと影を落とす。


 (ここは、本当に居心地のいい会社だ。けれど、外の世界はもう、別の速度で動いている)


 この会社は悪くない。むしろ、“大企業らしい良さ”が満ちている。

 ベテラン社員は面倒見がよく、上司は部下に頭ごなしに怒鳴ることもない。会議室には、ピリピリとした緊張感よりも、互いを思いやる空気が漂っていた。

 古き良き社風――それは大きな財産だと、結衣も心のどこかでわかっている。


 けれど、投資家としての自分は、どうしても「今のままでは危ない」と冷静に警鐘を鳴らす視点を持ってしまう。


 最近、投資家コミュニティでは「日本の伝統的大企業こそ、外資ファンドの恰好の標的だ」という話題が頻繁に出るようになった。

 守りに入った企業が、資産目当てに買収されたり、経営統合を迫られる。アメリカや中国の巨大な投資ファンドは、容赦なく成長の止まった企業を“食い物”にしていく――そんな空気が、世界経済全体に広がっている。


 ――私たちは、もう“安定しているだけ”では守り切れない時代にいる。


 「南野先輩、昨日のアメリカの不動産買収のニュース、見ました?」

 芽衣が、朝のコーヒー片手にひょいと声をかけてきた。彼女は営業企画部の若手で、以前はどちらかといえば“のんびり派”だったが、最近はやけにアンテナが鋭い。


 「うん、見たよ。ついにあの大手も、って感じだね」

 結衣が返すと、芽衣は小さくため息をつく。


 「ほんと、うちも他人事じゃない気がしてきて……この前、中国のニュースアプリで“日本企業は買い時”って見かけたんですよ。

  あと、ヨーロッパの不動産業界でも、投資家主導の再編が加速してるって」

 「最近、海外ニュースばっかりチェックしてない?」

 結衣が軽くからかうと、芽衣はちょっとだけ頬を膨らませた。


 「だって、SNSでそういう話題よく流れてくるんですもん。

  前は何となく“関係ない世界”だと思ってたけど、もう全然そうじゃなくて……。

  同期にも、外資系と一緒にプロジェクトやってる子とか、普通にいるんですよ」


 (本当に、芽衣は変わったな)

 結衣は心のなかで静かに驚いていた。以前の芽衣なら、“海外”と聞くだけで身構えていたのに。今では世界経済の動きに敏感になり、英語ニュースや業界トレンドも自分から調べている。


 「まあ、慣れだよ。今はどこの会社でも“グローバル対応”は避けて通れないから」

 結衣が優しく声をかけると、今度は隣のデスクでキーボードを叩いていた野間が顔を上げた。


 「最近、海外との交渉も増えたよな。先週も中国語で商談やったし、フランス語のメールも地味に多い」

 「野間さん、フランス語もいけるんですか?」

 芽衣が驚くと、野間は肩をすくめて見せた。


 「ビジネスレベルなのは、英語、フランス語、中国語くらいだけど、スペイン語とアラビア語、ドイツ語、ポルトガル語、ロシア語も簡単な会話なら何とかなるかな」

 「……本当に多才ですね」

 「いや、必要に迫られてだよ。昔は正直、英語も苦手だったけど――南野さん、君を見てたら、やれること全部やろうって気になるんだよね」


 そう言われて、結衣は少し照れくさいような気持ちになる。

 自分の行動や考えが、こんなふうに同僚の心に火を点している――そう思うと、責任感と同時に、温かい連帯感が胸に広がった。


 営業企画部のホワイトボードには、新しく「グローバル市場分析」や「DX推進」「海外提携候補」などの項目が書き加えられている。

 芽衣や野間のように、“普通”の社員たちの意識も、時代とともに着実に変わり始めている。


 だが、部署全体を見渡すと、やはり“居心地の良さ”に安心しきった雰囲気も根強い。

 課長の松岡は「新しいことも大事だけど、焦らず確実に進めよう」と、いつもの穏やかな調子でまとめている。


 ――きっと、どちらも正しい。でも、このままのペースでは「世界の速度」には追いつけない。


 (会社にとって本当に必要なのは、“平和”じゃない。

  この現場で、もう一度“挑戦”の火を灯すことだ)


 結衣の中で、資本家としての静かな闘志が燃え始めていた。

 そしてその夜、“本気の調査”へと心が向かうことになるのだった。


***

夜のオフィス街は静まりかえっていた。

 その中で、結衣の部屋の明かりだけがまだ消えていなかった。

 コーヒーの香りがかすかに残るデスクで、彼女はノートパソコンに向き合っている。


 (さあ、ここからが本番……)


 スーツを脱ぎ、ゆるめた髪でPCを開くと、昼間とは違う“資本家・南野結衣”の顔になる。

 手際よく国内外の不動産レポートや海外投資ファンドの最新動向、AIで自動集計された労働市場や産業DXのビッグデータを次々とチェックしていく。

 自分の資金を投じて依頼した調査会社からは、サプライヤーや提携先へのヒアリング結果もリアルタイムで集まる。


 (こういう生の数字や“肌で感じてる空気感”こそ、本当のリスクとチャンスを教えてくれる)


 世界の投資家サロンで見かけた最新動向、海外の現地法人が流す“日本企業は今が買い”というサイン――

 社内資料には絶対に書けない、しかし数字の裏に必ず本物があると結衣は知っていた。


 AIで市場動向とリスクの関係性をシミュレート、未来の業績や“外資から食われる確率”まで可視化。

 人によっては数か月かかる作業を、彼女は一晩で一気に仕上げていく。

 指先がキーボードを踊るたび、膨大なエクセルシートとパワーポイントが、精緻なレポートへと変わっていく。


 途中、脳内に現れるアセットくんが茶々を入れる。

 「また徹夜かい、女帝様? でも今夜の投資は、絶対元が取れるね」

 「“エビデンスの行間”もプロの技術だよ。数字とリアリティのバランスは大事!」


 結衣はくすっと微笑み、冷えたコーヒーを飲み干した。


 そして翌朝――。


 営業企画部の課長・松岡に最新レポートを手渡した。「すごいな南野、どこからここまで……」と驚く課長に、

 「外部の統計データや業界動向、取引先から得た情報をもとにまとめました」とだけ答える。

 芽衣や野間も「これ、マジでうちの部で作ったの?」「先輩、すごすぎ」と圧倒されていた。


 その資料は、数字だけでなく“変化の兆し”や“業界のリアルな手触り”を静かににじませていた。

 課長は感心しつつも、社内稟議のフォーマットに従って全体を再整理し、営業企画部として正式な稟議書にまとめ上層部へ提出した。


 数日後――。


 会議当日。

 結衣は普段通り社内で業務をこなしていたが、心のどこかで自分のレポートがどう扱われるかが気になっていた。

 (会議には出られない。けれど、この稟議が会社の“何か”を変えてくれると信じてる)


 やがて昼休み――

 デスクでメールを整理していた結衣のパソコンに、見慣れない社内チャットの通知がぽん、と届いた。


 送信者――井手口常務。


 思わず息をのむ。

 (まさか、役員から直接……!?)


 【南野さん、今回の稟議書の分析資料について、1点だけ確認させてください。あの統計やヒアリング内容、どのように情報を集めましたか? 詳しい出典までは不要です。】


 課長にも同僚にも何の事前連絡もない、完全に“個人あて”のチャットだった。

 心臓が跳ねる。それでも結衣は深呼吸し、落ち着いてキーボードを叩く。


 【外部の統計データと、複数のサプライヤーや取引先への匿名ヒアリングを組み合わせて分析しています。数字として裏付けられる範囲のみまとめました。】


 返事はすぐに来た。


 【了解しました。資料、とても参考になりました。ありがとう】


 それきり何も言及されず、社内は何事もなかったかのように静けさを保った。


 けれど、結衣の胸には、どこか新しい確信が芽生えていた。

 (――見てくれている人は、ちゃんといる)


 派手な拍手も称賛もない。ただ、一通の静かなチャットが、水面下で「改革の波」を広げ始めていた。

新章にしてみました、Web世界と現実世界でいろいろやってみよう

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